小田原リベンジ編は翌26日。

だって、ライブからの帰り道も同じルート通るからね。


そう、25日が土曜日だったから。

26日は日曜日なのだ。

なので、古稀庵リベンジ。

駅から直接行ったら、案内板あってわかりやすかったです。

 


 


現在企業の研修センターなのですがね。

日曜だけは一般公開しています。


この門に掲げられた古稀庵の文字は山縣有朋の筆です。

明治40年に山縣の別荘として建てられて、山縣はこの地で生涯を閉じました。

 


 


洋館と神社は那須の山縣牧場に移されました。

研修所のある場所が本館跡だそうです。



庭園はよくも悪くも自然な感じ。

花の時期とか、紅葉の時期とか。

合わせたら綺麗かもしれない。




庭園の中は、山縣の歌碑パラダイス。

「村人の力らをこめて我庵の

にはにすゑけりこの兜石」

 


 


「打いたす相模の海を

池にしてあふく箱根は

庭の築山

谷水の庭をめくりて

城山の麓の松は

まかきなりけり

のとかにも賤の麦まく

小田原の畑のあぜ道

梅の早咲」


いっぱいあるから、取りあえず2つだけ。

 



槇ヶ岡神社址。

明治天皇を祀った神社で、天皇遺愛の短刀新藤五国光を神宝としていました。

前述のとおり、栃木に移築されているんですが。

個人的は庭だ歌碑だとあんまり燃えないので、こういのが嬉しい。

 


 


光円寺。

山田龍兵衛のお墓を探しに来ました。

山田龍兵衛は小田原藩士。

林軍と協力状態にあった際に、土佐の軍監吉井顕蔵を板橋見附で殺害しましたが。

その後小田原藩が勤王側についた際に、その罪を問われ、鈴ヶ森で処刑されました。

太刀取りは吉井の長男。

子供の力ではうまく斬れず、悲惨な状況だったそうです。


あ、板橋地蔵尊の官軍墓に吉井顕蔵の名前あったの書けば良かった。


墓地区画はそう広くなく。

全て探した山田家のお墓は2つ。

たぶん、こっちだろうなと思うだけれども。

龍兵衛の名前も、没年も書かれておりません。

明治の半ばの方が刻まれている累代の墓なので。

もうちょっと、家系とか調べたら断定出来るかも???


てか、皆さん凄いよねぇ。

なんで見つけられるんだろうか。

私は先達の恩恵を受けて、写真とかないと見つけられないのよ。

なので、画像が拾えない山田龍兵衛のような方の掃苔が出来ない。

もっと下調べして、戒名と没年まとめてから行ったりするのかしら皆さま。

 


 


山田龍兵衛は後の課題にして。

わかりやすい大久寺。

しかし、ここには。

どうしてもお参りさせていただきたかった方がいらっしゃるのです。

 


 


まずは小田原藩主大久保一族のお墓です。

向かって右から大久保忠常、忠隣、忠世、忠良、忠勝、忠俊、忠良娘。



で、目的の関重麿。

私の中で小田原藩士と言えばこの方です。

著作の「六十夢路」、卒論の時読んだなぁ。

もう10年経っているから記憶がおぼろげなのか。

あんまりこの方が林軍に良いイメージ持っている印象なかったんですけど。

後に榎本海軍にまで参加しているんですね。

また読み直すかな、六十夢路。


ちなみにお墓がちょっと変わっていて。

側面全部に累代の戒名が1人1人刻まれていました。

重麿の戒名は真裏にありました。

 


 


鳥取藩士土肥謙蔵。

ちょいと探しましたが。

本堂脇にすぐありました。


大久寺、なにか工事中だったのか。

職人さんや、おばあさんが大勢、お庭でのどかにご昼食。

穏やかなひと時に、浮きまくる侵入者な私。

こっちみないでーーーー。


古稀庵で結構時間使ったものあって。

2回目の小田原はこちらでさっくり終了。


しかし、やはり自分の範囲というか。

関重麿とか渡邉了叟とか。

忘れてることも多いんだけど、それでも馴染みの強い名前がたくさんで。

小田原とても楽しかったです。