右か左か、どちらかに傾斜するような政治的なことを発言する気はないのだが、このところ「NATOって何なん?そんな必死に加入する魅力がある団体かなんかなの?」という質問が、単なる末端の僧侶である私になぜか複数人が尋ねるというミステリが重なってることから、元ヤクザ的視点でそれに対しナナメに応えたいと思う。

※社会通念上不適切な表現があります事をお許しください。


ヤクザの慶事である盃事には、大きく分けて親子盃と兄弟盃の二種類がある。


固めの親子盃は、儒教の教えを極端にして更にそれを斜めに飛躍した、例えばそれって解釈やばない?状態に改造を加え、そしてレールから脱線した朱子学とでも言うか、正しい儒教であればそれは「考」の教えなのだろうが、それを都合で切り取ってぶっ飛んだ解釈に書き換えたような「今よりこの人生は全て、親の為に我が命いついかなる時でも捧げます」と、そのように子が誓うのが親子盃である。


そして兄弟盃とは、例えば片方が五厘下がりなど、兄と舎弟の関係である盃の他に「五分兄弟」というチカラ関係が全く対等な盃事もあるのだ。


その場合、同門(同じ代紋)に限らず、他団体の代紋に属する人物との盃事も存在する。


例えば「広域指定暴力団」と公安から法的な縛りを受けている団体で、その執行部に属するような人物が、同じようなチカラのある他団体の執行部に属するような、そんな人物と盃を交わす場合は、その世界の政治的な平和外交を含んだ兄弟盃というケースも、なきにしもあらずだ。

※今の時代は知りませんが、私の知っている過去の暴力団事情です。


そしてその五分兄弟盃は、広域組織の枝に下がれば下がるほど、盃外交を意図的に行い、自らのヤクザとしての保身を企てるような、そんなしょうもないヤクザ者も、少なからず存在していたのだ。


あくまでも例えであるが、五分兄弟であればこみあった時(揉め事が起きた時)、穏便に済まそうと代紋をちらつかせその場をおさめようとする、まるで脳内お花畑のヤクザという珍種がごく稀にあらわれるのだが、こみあってナンボの極道が仲良しこよしして、いったいどないしてシノギ(お金を稼ぐお仕事)すんねん!と、何度か声を荒げた記憶が私の中にあるようなないような(笑)


法律やルール、言い方を変えればその世界の掟を、コロコロと変わる己の都合で利用する者はどの世界にも存在するのだが、例えばの話として「よう兄弟、今ワシんとこ◯△組の舎弟頭とこみあっとるんやが、あそこは兄弟の関係やからワシとて荒っぽい事はしたくないからな、あんじょう頼むわ」と、イケイケの極道であり前に進んでるフリして、実は後ろに下がっているマイケルジャクソン先生もびっくりのムーンウォークを披露する手品師の如く、そんな所作を披露するヤクザと五分兄弟盃を交わしたが祟り目となり、結局はうだつの上がらんヤクザ者も昔はいたと思い出すのが、このNATOシステムだ。


つまり、兄弟の誰かが下手打ったとしても、オレ達兄弟(NATO会員)皆んなでチカラを合わせ乗り越えようぜラヴューラヴューというのが、このシステムのおそろしいところであろうと思う。


まあそんな物騒な話はともかく、世界をグローバルに広い視野で捉えるのも大事ではあるが、誰かの「利得」にあれこれと私見や思考を巡らすよりも、同じ「とく」という発音をする「徳」というものについて少し掘り下げて記したいと思う。


仏教の方便は分かりづらいと、そんな声もよく聞こえてくるもので、そんな声に応える為にここからは具体例として表せてみることにします。


あくまでも私の個人的な価値観なのではあるが、四季や十六節などの節目など、お世話になった方にご挨拶をという古い考え方を好んでいるのだと、私が私を客観的に見た時、そのように感じる。


そんな私のある意味に於いて自己満足とも、そのように捉えかねない価値観に対し、懐深く受け止めてくださる先達がいる事は、己はほんとうに恵まれているのだと改めて思う。


仏道にも細かくは諸流諸派というものが存在し、その中の最小コミニュティが「一門」という事になるのであろうが、そういった一門の後進にあらず、私の気持ちをいつも汲み取ってくださる先達のさり気ないその所作が、心温かい。



お歳暮やお中元を持って目上の方に挨拶に伺うは、言ってみたらこれは私の価値観という自分勝手な都合に他ならない。


けれども、多用な中で受け入れる為のその時間を作ってくださり、そして温かく迎えてくださるのみにあらず、いつだって目下の私に対しても、「え、普通じゃん」としれっと有り難い返礼を用意してくださっているその心使いというものは、私自身がものごとに対する今までの考え方を、大きく転換することになったという事は、ここに記すまでもないと思う。


人間は他人に対し、自分と同じような共通点を見つけると、そこに親近感が生じて、そして自らの気持ちが高揚するものであると思う。


けれども、人間としての圧倒的な器の違いを知った時、それはそこに憧れという感情が生じるのだと、私はオジンになって初めて体感し、今のこの幸福を得ている(笑)


話を「徳」に戻そう。


人は他人である誰かに対し「してあげた」事はいつまでもネチネチと覚えているが、他人から「してもらった」事は、かなりの高確率で忘れてしまうものだ。


「徳」というのを分かりやすく記すと、それは「してあげた」事を「ン?」とあくまでもごく自然な些事と捉えさっさと忘却し、逆に「してもらった」事を、それは些事であってもずっと覚えているような、そんな生き方を「徳を積む生き方」と言えるのではあるまいか


以前に読んだ書籍にあったのだが、「桃李成蹊(とうりせいけい)」という言葉の響きが気に入って、その頁に付箋を貼っていて、さっきそれが何故かふと目に入った。


己が憧れという感情を抱くようになった、そんな幸せを与えて下さったその方を表現するならば、桃李成蹊もその表現の一つとして当てはまるのではと、私見であるがそのように思う。


皆さんが日常でごく自然に「徳」を積む生き方をされている方を見分けるには、桃李成蹊であるかどうか、それを皆さんが楽に判断できるよう、その意味を結びとして記します。

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とうりせいけい【桃李成蹊】

桃やスモモの木の下には、実の美味しさに惹かれて集まってくる人たちによって自然に道が出来てしまうように、高徳な人の周りには自然に人が集まってくるということ。「桃李」は桃とスモモ、「成蹊」は、道ができること。「桃李言ものいわざれども下したに自ずとから蹊(みち)を成す」の略。