数ヶ月ぶりにやっと、やっとamebloにログインできた(笑)
なぜならば己はパスワードとやらを失念してしまい、否(いな)正確には忘れないように書き出しておいたメモをどこに保管したかを、それを失念していたのだ。

そう、あれはまだ酷暑まっただ中の8月初旬頃のことだった。
私「あ、そうだ!友人やお客さんにも言われてる事だし、ぼちぼちameblo書こうか」とアクセス

ン?

アクセス

「・・・。」

何やこれびっくり

勝手にログアウトされてますがな(´・_・`)


そんなこんなで思い当たるパスワードを入力しては見事に外れ、その繰り返しの日々(笑)


そして半ばアクセスを諦めかけていた8月の下旬頃、翌々月である10月初旬より「アンタ自宅にアクセス出来んくなるよ」と大家さんからの通達ポーン


「何でやねん」と理由を尋ねてみると、国土交通省の指導で、過去に発覚した耐震強度偽装問題の改善、つまり建物の修復工事を施工せねばならぬからだと知った。

仮住まいを用意してくれているとのことだったが、それでは結果的に退去と入居を一回ずつ、つまり2回引越しせねばならん煩わしさゆえに、私は退去する旨を大家さんにお伝えした。


思えば己が仏門に入った約10年前は、都心である目黒区にまだ居を置いていたのだが、その後は思うところあり都心から離れ、都内ではなく都外である東京都府中市に移り住んだ。

数年暮らした府中市はなかなか住みやすい街だったが、なんとなくというか漠然とだが、もっと自然が身近に感じられるところに居を置きたいと、そう欲するようになり、そして今の住まいである奥多摩地区で暮らす事を選んだのが、今から約5年前の事だ。


そんな回想はともかく、仏に仕える身となり、ずいぶんと己は物の考え方が人間に近づいたのではないかと自画自賛するところなのだが、しかしながら性格の根本とやらは、そうそう変わるものではないらしい(笑)


私がまだ10代、つまり自らが幼きその少年時代、友人から不名誉なあだ名を贈られたことがある。

それは、「短気が服着て常に臨戦態勢で歩いてる悪者」という、誠に恥ずかしいニックネームだ。

いや、むしろそれは単なる悪口といった方が正しい表現なのかもしれない。


そんな基礎構造が己の本質である私は、引越しすると決めたらその日のうちに転居先を決め、翌日からは自坊(自宅内にあるお堂)で修する行法を引越しモード(心壇の杭を抜く作法)に変え、そしてそれを悉く修しながらコツコツと、一人でコツコツと約20日間かけて、今回の引越しを完了させたのだ。



☝️

あらたに法楽太鼓が加わった引越し先の自坊


10月の頭には転居を終え、前よりも少しだけ広くなったお堂のスペースに諸々の手を加えること早1ヶ月が過ぎ、そして今現在である11月初旬に至る。


そして今朝、霊符尊に献ずる供物などは他の神仏と同じではならぬという師からの教えを実践している私は、他の神仏とは一緒にならぬよう特別に用意した、そのお手入れ道具などが入った箱を掃除していて気がついたのだ。


「あ、パスワードめっけた笑」



閑話休題(長げーぞ!プロローグがっ)


人それぞれ、ものの価値観という感覚は違う。

だが、自らのその価値観や経験値というモノサシを使い、それで他を測ってしまうとその結果、間違った目盛りを読み取ってしまう愚を多くの人は犯してしまっているようだ。

それは例えば、液体という物質の容量を、直線定規で測った場合のその人の答えというものは「なんだ、12㎝しかないのか」となってしまったり、肉眼では捉える事が至難である、無味無臭の気体を分度器で測ったその答えは「180度だから安全か」と、訳のわからん解釈になるのだ。


比喩ではなく、現実的な例えに話を戻そう。

たまたまではあるが私のところには今、スピリチュアル思考を独自の間違った解釈をするがゆえに、心の迷子になっている方が尋ねてくるケースが重なっている。

そこにはいくつかの要因があるのだが、共通項としてはその思考にもれなく「認知バイアス」がかかっていると断ずることができる。


「あの人の波動がうんぬん」や、「◯◯さんの霊格がうんぬん」など、その例をあげたらきりがないからこのへんにしておくが(笑)


潜在意識に注目するはええねんけど、その前に顕在意識を磨いた方がいい。

つまり、人間の五感と称される「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」を多用しそれを他人に向け、そして他愚を謗(そし)る思考を繰り返し、なぜ自らの潜在意識が磨けていると解釈しているかは、刹那に移動を繰り返すその人の自らの心の、その時々で住まう世界を替えている心そのものに起因しているのだ。

そして根本、五感は自らの外部から得る情報を脳に伝達し、そしてその答えを出しているという事実を理解できていない。


お分かりだろうか?


潜在意識という自らの内面ではなく、五感を使って外部から得た情報を自らの内部であると、そう誤認してしまう、つまり認知の歪(ゆが)み=バイアスである。


時に、我々密教僧侶が修する行法の一節には入我我入(にゅうががにゅう)という作法があり、それは勧請した神仏と感応道交する目的もある故なのだが、その文句とは「互いに明鏡してうんぬん」と云う。


これは何を我々に教示してくださっているのかというと、相手(この場合は神仏)の心は自らの鏡であり、その相手から見た己の心もまた、同様に鏡であるという事を表しているのだ。


つまり、例えば我が心の鏡に映るものが「鮮やかな朱色に染まる鳥居」だったとした場合、相手の心という鏡に映る景色は全く同じように、「鮮やかな朱色に染まる鳥居」が映ることであろう。

そしてその相手の心という鏡に映し出された「鳥居」は、我が心の鏡の中の鏡、つまり鏡に映し出される鏡にも違(たが)う事なく「鳥居」が映し出されるのだ。

そう、それはあの有名な京都稲荷の鳥居の如く、鏡と鏡の中でずっとずーっと「鮮やかな朱色に染まる鳥居」を映しださせていくのだ。


では仮に、自らの心が他愚を謗(そし)る事に夢中な「邪(よこしま)なオーラを放つ自己中な心」であった場合はどうだろうか?

その答えは至ってシンプルで、相手と自分のお互いの心の鏡の中を、行ったり来たり果てしなくずっと映り続ける「邪(よこしま)なオーラを放つ自己中な心」のオンパレードなのだ(笑)


笑い事ではない。


 いつも同じようなところでクルクルと回って、結局のところ心の迷い子から抜け出せない人の共通点は、「前世が蚊取り線香だったから」というマンガのような理由にあらず、自らの心の病んでいるその部分を、他人の心という自らの鏡に投影させ、そしてそれを自らの五感で感じ、「うわっ」となっている事がほとんどのケースなのだ。


そして更にそれを、そういった鏡の中の愚に気づいてからも尚、さらに自らは率先して迷宮に入っていく方の多い事には、愚身である己もさすがに些か閉口してしまうのだが、それはそれで何となくその気持ちがわからないわけでもない。


「人生の一発逆転」、「敗者復活戦に臨む為のマインドゲット宝くじ」を手に入れたい、そしてそのギャンブル性というか中毒性というべきか、それを止められない自分自身の心に、これが「善」であるかのようにバイアスのかかった認知で解釈し、いかようにも無限に出てくる言い訳を自らに都合良く施しているのだろう。


それが、執着という苦しみの権化であるという事実に気づかぬまま・・。



多摩川沿いに自生する樹木たちは、己の生が育くんでいるその時々の旬、つまりその季節が秋であればそれは今であり、「咲いてない」などと樹木たちは自らを嘆いているものなのだろうか


他人と比べ自らの心の隙間、つまり寂しい感じる心の「寂」とは「枯れる」という意味もあり、そしてそれを樹木の紅葉に見た人間は、そこに季節の移ろいという雅を感じ、時にそれそのものを美しいと思うのではあるまいか


では、我々人間は自らの生を歩んでいく過程で、その心は自らをどう感じているのであろうか?


SNSで見た◯◯さんのように、私はまだちっとも人生の花が「咲いてない」とか、私は使命のために「咲かさねば」とか、その時の自らの心の都合で、それぞれに適した旬の時季というものは全くもって無視し、そして歪んだ(バイアス)認知という名のモノサシを使いものごと測り、その結果「自らが得をすれば良い」と、無意識のうちに計らい、生きたままその心が「すでに得ている何かを見落とし、もっと得たいもっと欲しいんだ」と、「餓鬼界の苦しみ」に心が移動してはいないだろうか


侘(わ)びしさや寂(さ)びしさという言葉を、表意文字である我が国の言語を紡ぎ合わせたその時、古来よりそれは「侘び寂び」と、そのように評される。


世の矛盾や社会の理不尽さや、そういった不条理の中を、エビデンスがなんとも怪しい情報を基に歪んだ認知を多用し、「先生」と呼称される一部の、それはまるで「教祖さま」のような教えを実践し「生き残る」事だけが、はたして本当に「人間らしい生き方」や「人間としての幸せ」なのであろうか?


もしもそれが勝者であり、そうでない者が敗者であるならば、己は敗者を讃える「雅(みやび)な心」をこれからも選び続けたいと切に想う。

「勝者の演説」という名の凱歌は聴いていて眠たくなるが、敗者の悲歌は耳朶のみに響くにあらず、「優れる」という文字が「優しい」という意味を持ち合わせる事を思い出させてくれる。


得(とく)を求め彷徨う生き方よりも、自らの心に徳(とく)を積む生き方を選び続ける歩みの方が、その心は豊かになるのではないだろうか


流行りの開運グッズや著名なパワースポットを求め続けることを否定しているのではない

その人間らしい「欲」を、自らのルーツである心のDNA、つまり自身のご先祖さま方々が微笑んでくださる、言い換えれば自身の根っこに沁み渡るよう養分を施すことが肝要なのだ。


聡明なる方はここでお気づきかも知れぬが、肝要とは要(かなめ)の事であり、開運ツールと云う名の扇は、要がなければ美しく開かないと、そのようにご理解いただけるであろう。


これは私見であるが、「供養なんて坊さんの仕事やろ」と、そのような理解の方は何度も同じような事でつまずいているようにお見受けする。

供養とは「人」が「共」に「養う」と記すとおり、ご本人の想いと行動があってこそ、そこではじめて行者の修する行法に「法界力」が生じるのである。


昨日、諸用で訪れた山梨県某所に向かう道中、おそらく天台宗の寺院だと察するのだが、いつも同じようなところでクルクルと蚊取り線香の如く回ってしまう方に拝読して頂ければと思い、スマホで撮影した画像を以下に掲載しておこう。



貴女(貴方)の人生を決めるのは「先生」にあらず、貴女(貴方)自身の生き方にある。


自らが生まれ落ちた環境という、不変である過去の執着を手放し、社会やコミニティという環境因子に向け、思い通りにならぬ自らの心の苦しみ、つまり戯論(けろん)の苦から生じる貪瞋痴(とんじんち)を捨て、是非とも人間らしい「生き方」を選んでほしいと、そのように願います。


南無大師遍照金剛 合掌