今日が何曜日であるのかと、カレンダーに目をやって少々驚いた。
「なんと、三月も終わりではないか」

あまりにも忙しすぎて・・、もとい、多用すぎて己は正月からずっと、否、師走からずっと休みなく過ごしている。


それ故(ゆえ)か、普段から意識して使わないように勝手に自ら戒している言葉、「忙しい」を、つまり「心」を「亡くす」という言霊を使ってしまった。


反省せねばならない。


儒教(学)には、こんな言葉がある。

「過ちてはすなわち、改まるに憚かることなかれ。過ちて改めざる、これを過ちという」




過ちといえば、私には解散した家族がいて、(組ではありません、正確には組も解散しましたけど笑)そしてそのメンバーには犬も含まれている。


おおよそ10年以上前になるのか、ペットショップの売れ残りで、その未来には哀しい運命が迫っていたその仔犬は、初見の私に抱きついて(前足を器用に使って笑)離れない。

抱き上げると、いつまでも私の顔を舐めることをやめない犬の名は、リック(舐める)と名付けられ、当時の「ば家族」の一員となった。

そんなリックの現在はお爺ちゃんで、ウーバーリックのコスプレを家族からやらされている犬だ👇





少し前、私はリックにプレゼントを贈るべく、広域指定黒猫配送団の方に、その荷物を依頼したことがあった。

紆余曲折あり、全国制覇を成し遂げた黒猫配送団のチカラは凄まじく、組から組へ(営業所から営業所へ)各本部の指示に従い、その任務を遂行していると聞く。

但し、受け取り人のお宅が犬しか居なかった場合は、カチコミをかけたその証(あかし)を残していくようだ。

私(道薫)からの、リックに送った荷物だと、裁判長も一撃で判決を下せる証拠を提出してだ👇





閑話休題


冒頭の前フリである「無意識」について、以下に出来るだけわかりやすく記そう。


「潜在意識」、このような言葉をSNSでは良く目にすると思うが、端折って記すならばコレそのものは「無意識」である。

そしてコレと対になっているものを顕在(けんざい)意識、つまり実感意識とでも呼称したらよろしいか


「潜在意識を引き出す」、若しくは「潜在意識を輝かせる」などのキラーワードについ、目と心が奪われてしまうのは、ある意味に於いて人間らしい心なのかもしれないが、多くの人が、「心の迷子」になるのがこのケースかもしれない。


至極大切なことは、端的に記すならば、それはバランスである。


潜在意識と顕在(実感)意識は、右脳と左脳の関係でもある。

つまり、貴女(貴方)という実体そのものが、矛盾や不条理にあふれているこの現代社会に於いて、グローバルと呼称されるいわば境界のない社会という大空を翔くための、それは両翼であると、そのようにいえるのではあるまいか


角度を、そして言葉を代えてみよう。

潜在意識とはつまり主観であり、顕在意識とは客観である。

主観とはつまり、嬉しい楽しい悲しい、客観とは科学や数学、若しくは統計学など、大小に限らず、コミュニティ内のルールや規則などもこれに属する。


「潜在意識を磨(みが)く」は多いに結構なことで、それそのものは素晴らしいことだと思う。

但し、それを行うには同時に、「リアリティ」を求めることを忘れてはならない。

そうでなければ、自らの思考を放棄し、ひとときの現実逃避のみ、に陥ってしまいかねないからだ。

しかしリアリティを求めることを怠らなければ、貴女(貴方)自身が求めるもの自体が、遅かれ早かれ具現化されてくるはずだ。

その具現化された「夢」を追い求めることこそが、幸福となる最短ルートに他ならない。


参考に、新一万円札の顔となる渋沢栄一氏の遺してくれた名文句を記そう👇

『夢七訓』

夢なき者は理想なし

理想なき者は信念なし

信念なき者は計画なし

計画なき者は実行なし

実行なき者は成果なし

成果なき者は幸福なし

故に、幸福を求める者は夢なかるべからず




さて、そんな己の夢はなんであろうか?笑


振り返ればあの頃、何もかもが嫌になり全てを捨て、自ら望んでホームレスになった。

「一番底辺から這い上がったろやないかいかないこのクソッタレ💢」と、邪な心いっぱいだった当時の私(笑)


拾った10円玉を集め、同じく拾った新聞に挟んである求人広告を見て片っ端から電話をして、どれだけの数を断られたのか正直覚えていない(笑)


やっと決まった住み込みの新聞配達員をしながら密教(仏教)を学び始めて、その約一年後に、本山にて得度を認められた、そんなあの頃の出会いだった。


青黒(しょうこく)の火焔に包まれる不動明王を思わせるような青、そんな忍者(Kawasaki GPZ900R)に一目惚れし、後に私はそれを仁者(にんじゃ)と名付けた。


友人からは、「なんで今さら二輪?笑」と不思議がられた。

二輪は四輪(つまり普通車)と違い、バックギアが無いからだと、当時は私は心の中で、密かに応えた。

坊主が読誦するお経は、仮に何かの、経の文句を間違うことがあったとしても、決して戻ったりやり直したりなどは、しない。

だから己は、「前進しかない」と、そうゲンを担いだのだと、今ではそうはっきりとわかる。


新潟に急いだ時、滋賀に急いだ時、首都高の渋滞をすり抜けて都心に急いだ時など、あげたら数えきれない程、主の私を目的地まで連れて行ってくれた仁者。

その集合管から吐き出すエキゾーストは、孤高の獣の如くだと、今も己の耳朶に、その咆哮が懐かしく遺っている。


己は、片目となって30年以上の歳月を経てきたが、見えている片方を酷使してきた分なのか、見えている方の目のその視力は格段に落ちたようだ。


そして仁者とのお別れの日は、じゃじゃ馬と二つ名のある単車を綺麗に洗車し、「次の主の早馬となれ」そう言って送りだした。

そんな仁者の最後の咆哮も、やはり孤高の獣の如く、己にはそのように聴こえた。




今、人生がうまくいっていない人に贈ります。

👇

『断じて行えば鬼神も之(これ)を避(さ)く』


私のような過ちだらけの者が、過去には極道とは名ばかりで、人にあらず没義道を歩んできたケダモノの己が、無知無学であるそんな底辺の生き方をしてきた私のような者でも、心の底から望み、そして不退転で臨めば、笑顔は手に入るのだと、その事実を知ってください。


由緒ある真言宗の末席を汚す私如きでも、誰かの明日の無明を、そっと照らす役割りを果たし続けたい。


有名寺院の温かな説法や、優れた祈祷を修する高僧を目指すのではなく、路地裏や野に自生するが故に、今の世を彩るが如く映えることなどあらずとも、『生きる』ということを放棄しない、その生きる美しさそのものを讃える、己はそんな在野(ざいや)の行者として、自らの残りの生をまっとうして行きたい。


窓を開けていないので今宵の月がそうかはわからぬが、控えめな月明かりの如く、さり気なく誰かの足元を照らし、朝を迎え日輪という未来にバトンを渡す、そんな役割りを演じよう。


なんか、気障だなコレ(笑)   合掌