何かを得ようとする時、その最も簡単な方法は、すでに得ている何かを放つことにあるのではあるまいか

例えば電車、若しくはエレベーターの乗り降りしかり、入る人よりもそこから出る人を優先させることが、円滑で理に叶っているはずだ。

ならばその理(ことわり)をひとりの人間目線に縮小したと仮定し、その人の核となる【心】の呼吸なるものはどうすることが理想なのかと考えてみる。

生きづらさを感じ、息を吸うことに執着してはいないだろうか?

その角度を、言葉を変えて表現してみよう。

己が生きやすく、早く楽になろうと執着し、何事かを得ねばならないと我執の苦しみ「エンドレスリピートスイッチ」を押しているのではないか


では、どうすることが良いのか?


吐いてから吸う、則ち放ちてから得るのだ。


天に五行(木・火・土・金・水)があるが如く、人には五臓(心・肝・脾・肺・腎)がある。

天に日月があるが如く、人には両眼がある。

※不動明王の左目が半眼なのは三日月🌙をあらわしています。


天に雨露があるが如く、人には涕涙(ているい)がある。


ただそのような真理になんとなく気づいてはいても、人間が営む文明社会のコミニュティに於いては、コロコロと変わる世間という名の他と同調することこそが、自らの生きやすさの秘訣なのだと、無意識のうちに我執してしまうような純朴な人の心を、己はどのようにその苦しみから解き放って差し上げるべきかと、この数年は自らの胸の中で、ずっとそれを問答していたように思う。


慧眼(けいがん)という表現はまさに、このような方の所作にあるのだと、今の私は得心している👇



己が仏門に入った(得度)数年前、その先に続く四度加行なる、謂わば体系化された密教のカリキュラムである道に進むことを、私は自ら拒んでいたフシがある。

己の心中奥深くに秘めた、「我は過去、人に非ず外道を歩んできた者である」とゆう負い目が、自らの心をそうさせていたのかもしれない。


約2年前、私からアプローチした一本の電話がきっかけで、ただ唯一の共通点は密教を学び教道する者というだけの、謂わば針で開けた穴の如く小さな点でしかない繋がりのそんな私に対し、この2年の間ずっと適宜に、私の胸の中奥深くに秘めた「己が歩みたい道」というものに向かうべき、そんな布石を照らすべく接して下さっていたように思う。



☝️このマハーカーラ(大黒天)の高価な軸装も、一門の弟弟子でもない私に対し下賜してくださったその優しさなど、当のご本人は黙秘権を行使するが如く(笑)そのことを何一つ公表していないようだ。

己もいつか、そのような立ち振舞いができるようになりたいと密かに想う。


私はこの数ヶ月、ある意味に於いて社会生活から離れ、山籠りの如く修行期間を経て、その影響でお休みしていた当ブログの、ごく稀少な応援して下さっている方々に報告をいたします。

数年前、私を得度に導いて下さった師僧にご紹介頂き、弟子入りを許された伝法の師僧より無事、灌頂(かんじょう)を授けて頂きました。 

つまり、自らが阿闍梨となる許可を得ました。



この場をお借りし、ご協力頂いた関係各位の皆さま方々には心より感謝の念を申し上げます。

そしてこれをもって当ブログを再開し、読んで頂いた何方かの【明日へのエッセンス】になるが如く、私の拙い言葉ですが心を込め、今後も誰かの未来を紡げるような、そんなちょっとしたお手伝いができればと、そのように思います。


寒天の星空の下、凛とした強さを求め

沙門 道薫(どうくん)



☝️結界を意味する壇線で、容疑者の如く目が隠れてるというミラクルが発生(笑)

決めようとイキっても決まらないオジンだと笑って頂ければ幸甚です。