小僧の頃、自他共に認める外道であるが故(ゆえ)、無制限の暴力と云う歪んだ美学を求め、己の生(せい)そのものを卑下(ひげ)することで自らの運命を揶揄(やゆ)し、雷光(らいこう)の如く激しい輝きを放ち散ってやろうと嘯(うそぶ)きながら、心の何処かで美化した死を求め続けた青年期の極道ですら、その想いというものは叶わなかった。
生々流転(せいせいるてん)、「己はもう死んだのだ」と諦めの境地にも似たような心中しかり、「生まれ変わり堅気(かたぎ)として生き直すのだ」と誓うも、現実は想像以上に厳しく、苦汁を嘗(な)めるが如く足掻(あが)いた当初の三年間は、歯を食いしばりすぎて奥歯がガタガタになった。
誰かに嘲笑(ちょうしょう)される度(たび)ヤクザに戻りたいと苦悩した。
己を嗤(わら)う者あらば、そいつの未来を奪ってやろうと夢想した。
「何か可笑(おか)しいか?」
あの頃の私は、微笑みの優しささえも疎(うと)ましく、己の生そのものを笑われている気がして、その優しさを自らが受け入れたら己の何かが壊れてしまいそうで、ただ息をすることさえも苦しかった。
笑いが辛かった頃のお借りしたイメージ画像
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どうしてもボケたい衝動に抗(あらが)えず、しょうもないオチをカマして満足な私は気づいたことがある。
無制限の暴力よりも、無限の坊力(ぼうりょく)の方が制限なく生きれると云うことをだ。
己はなんちゃって坊主(僧侶)ではあるが、毎朝の勤行前に日々欠かさず行っているルーティンがある。
それは軽いランニングを兼ねた筋トレを行うということだ。
離れて暮らす子供たちや、この街の知人からは、「あらっ、お散歩ですか?」と聞かれるのだが、
違う❗️ 断じて違うぞ‼️
お散歩にあらず筋トレは、秋川渓谷の遊歩道を利用しているのだが、ランニングを行う前に私は必ず氏神さんに参拝してから、加齢による足腰の衰え対策と、認知症予防のお散歩を行うことにしているのだ。
実はこの話題から、前回ブログ冒頭のエピソードに少々繋がっていくのだが、あの白蛇が疾風の如く走り去った出来事の翌朝のことだった。
私がこの街に流れてきた約三年前から今に至るまで、ずっと変わらぬ毎朝のルーティン。
参道内の左端を歩き本殿へと近づき、験担(げんかつ)ぎである五円(ご縁)玉を浄財箱に放りこんでから、神道式作法での礼拝。
祈願中の己の心中(しんちゅう)は、僅(わず)かに昨日の不可思議な出来事が気になっていたのであろう。
その刹那(せつな)、私の耳朶(じだ)にあらず意識の中へと、直接の声が聴こえてきた。
「何の戯(たわむ)れか、お主が申したことではないか」
それは半(なか)ば呆れたような物言いで、それでいてその失笑(しっしょう)は卑下した者を嘲笑(あざわら)う所作にあらず、反対に好感を抱き、微笑んでいる如く温かな時間だった。
私は、失念(しつねん)していたのだと云うことを気がついた。
この地そのものを「当所安穏(とうしょあんのん)」と願い、己が勝手に想うこの街の人々の心を、笑顔でいられる当たり前の未来を護って欲しいと、悪天候以外の朝は、三年間毎日毎日繰り返し同じ祈願を申し奉(たてまつ)っていたことを・・。
入ってきた鳥居前まで参道の端を歩いて戻り、振り返り一礼し、再び向き直り歩き出した私は、氏神さんに聴こえんよう微(かす)かな声でひとりごちた。
「三年間、一度も気配すら気づけんかったのに、急にそれが出てきたかて、あらそうですか言うてわかるわけないやろ」
そう悪態をついた私の口角は、きっと上がっていたに違いない。
それもそのはずで、あの白蛇が向かったであろう先、それにエビデンスなど存在しないのだが、救急車で搬送されたお嬢さん、もちろん救急隊員含む医療従事者方々の迅速な処置が幸いしたことが前提なのだが、ケロッと治り大事には至らなかったのだと、後(のち)にその母から報告を受けていたのだ。
ストーリーと関係ありませんが、静岡県に住まうSさん提供の優美な富士山
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もう一つ前回ブログの後半エピソードに繋がる話題がある。
僧侶として大切な法具は沢山あるのだが、その中でも念珠は欠かすことのできぬものの一つだ。
私は、得度する(仏門に入る)前からずっと使い続けている、思い入れのある念珠をリフォームするべく、東京を離れ山梨県を走る中央高速河口湖ICから一般道にアクセスし、そこからやや走ったところにある知人の店に打合せを兼ねて伺った帰路、時刻は逢魔時ということもあるのだが、あたり一面が薄闇に包まれ始めた山容(さんよう)に、抗うが如くライトアップされた荘厳(そうごん)な鳥居を偶然目にしたのだ。
何と云う神社なのであるかを調べる為、土地の名称をキーワードにし、買った当初は最新機種だった私のiPhone 6sの、Siriと云う便利な機能を使い検索してみた。
なんちゃって僧侶
「へいSiri❗️どこぞの貸元か調べんかいっ‼️」
iPhoneの尻
「ちょっと何言ってるかわらないんですけど」
茶番劇はさておき、私は日を改め新倉(あらくら)浅間神社に参拝してきたのだ。
公式サイト👇
鳥居の向こう側に富士山が見えます。
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長い階段か、その脇の舗装された道路を歩いて行くと立派な五重の塔を拝めます。
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そして去年? 完成したばかりだと言う展望台から見渡す景色は絶景です。
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降りは階段で戻ったのですが、長い長い階段の脇に植樹されているのは、おそらく全て桜なのではないかと、開花の時期は素晴らしい光景になるのではないかと思われます。
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あっ、階段から撮影したはずの桜の木々が
フェンダーインしてませんでしたね💦
そして駐車場から境内に入ってきたエリアに戻ると、また一つ鳥居があることに気がついた私👇
ここが前回ブログ後半のエピソードに繋がるところなのだ。
通い慣れたはずの、T社長オフィス近くのコインパーキングにいつもの如く車を停めた私、そして背後から誰かに見られていたように感じた強い視線のようなもの・・。
ずっと気づかなかったその場所には、塩釜神社が鎮守されていたのだ。
公式HP👇
T社長の本業は貿易業であり、一時は帝国データバンクの業種別ランキングに名を連ねていた実績もあるのだが、近年は側近などの裏切りや数々の不運に苛まれ苦悩を続けている。
しかし、T社長の魅力はその人間力であり、他愚(たぐ)を誹(そし)るのではなく、自らの不徳を戒めることのできる強さなのだ。
塩土翁(しおつちのおきな)という御祀神は文字通り塩造りの神であるのだが、もう一つ先導という、つまり航海にて迷わぬよう導きを示す神でもある。
東京から離れた地で塩釜神社に参拝させて頂くのも奇妙な縁であるが、それが必然でも偶然でもそこに己の興味はなく、ただT社長が報われる未来を強く想い、作法し礼拝させて頂いた。
昨今、神通力の如く類で人を導かんと活動されている方の中に、ごく一部ではあるが邪(よこしま)を感じることがある。
潜在意識を磨き、高め、それを基に目には見えぬものを経て、自らの幸福を得んとすることそのものに関して、どうのこうのと己は意を示す立場にはない。
しかし、SNSなどを用いて悪戯(いたずら)に他愚(たぐ)を誹(そし)ることで自ら正当性を示そうとするのは、いかがなものかも思わざるえない。
もちろん、そういったことの根っこにあるものが、自分以外の誰かを幸せにしたいという、至って浄らかな欲求を感じることも事実なのだが、それを表す言葉の刃物というものは、ブーメランの如く特性があるのだと是非気づいてほしいものだ。
そして目には見えぬ神通力の類いであるが、潜在意識の中の第八識、則ち阿頼耶識(あらやしき)という善いことも悪いことも全て貯蔵された深層意識の蔵というものは、中途半端なやり方で扉を開こうとすると、そこは扉に非(あら)ず、開いたというそれは錯覚であり、実際には蔵の壁が破れて穴が開いてしまっているケースが大半を占めているように思う。
事実、コーチ業などのアドバザリー行為を行なっている指導者の中で、その本人自体が時に迷子そのものになっている状況を見かけることも、決して稀(まれ)だとは言い難いのだ。
簡略にそのことを記すと、破れた穴から繋がり得る神通力の類いというものは、鬼神やキツネや蛇、または餓鬼道の住人(繋がっている本人は浄らかな神と錯覚)であったりするもので、特に鬼神というものは、願主の想いを叶えるという特性があるので、勘違いを起こす人がいることはある意味致し方ないのであろうと思う部分もある。
但し、綺麗事ではないのだが、自らの幸福を得る為に、誰かの人間関係を換金していく手法などに、無意識とはいえ加担してしまうことや、またそれを主導して行っている本人は注意してほしいのだが、神の意識レベル(人間の心の状態)、則ち前向きで集中力があり成功した状態というものは、自らふとした時に感じるその迷いこそが真実であり、すなわち自らの中に清らかな仏性(ぶっしょう=仏心)と云う存在があり、そしてその砂上の楼閣(ろうかく)の如く完成している意識そのものが、崩壊という未来を不安視する意識と隣り合わせである、と自ら気づき踏みとどまってほしいものだ。
私の知る限りではあるが、鬼神のチカラを用いた神通力の使い手は、どこぞの未来で自らの完成された潜在意識、つまりフィルターバブル(精神医学の専門用語)が崩壊してしまう。
縁とは育むものであり、換金していく性質のものではないのだ。
そして人間は、もちろん私の如く人に非ず類いも含めて当然なのだが、誤ちを犯さないで生きている人などは存在しないのだという現実から目を逸らさず、日日是好日、一日一生の如く自らを大切にしてほしいと心から想う。
決して大げさではなく、自らの至らぬことを、昨日を含めた過去の懺悔という大切な基礎を、日々積み重ねることで心の大地を強化し、自得(じとく)を賛じるのではなく、自我(じが)を戒めることで心の柱というものを築き、水面が凪ぐ如く穏やかな心を育てる忍耐という日々の勉強を重ねるからこそ、精進という気づきである、知恵そのものを得て、自らが大切にしたいものの正体がはっきりと分かるはずなのだ。
それ故に、誰かの為という名の、施しという行いを基にする事で、自らの持戒という(地)を経るから、自らの心の安寧(水)を得、だからこそ知恵という明かり(火)で、自らの心の視野が広がりを見せることで、(風)を感じることができる地球での生(せい)という有限のものを育めるのではあるまいか
そしてその知恵を得るからこそ、(空)という宇宙の如く広く大きな心になるよう、心そのものを磨くことができるのであろう。
地・水・火・風・空という教科書の如く建造物(五重の塔やお塔婆)など、先達(せんだつ)が後世を生きる我々に紡いでくださった過去の歴史は、貴殿方々(先達)から見た未来(現代)もしっかり育み続けていますと、いつか私も冥府の住人となった時、直接に感謝を告げたいと秘かに思っている。
けれど、己は今生積み重ねすぎた過去の悪行の多さ故に、穢れ多き私の場合などは、地獄の牛頭馬頭と鬼ごっこするのが長く掛かりそうな予感もするので、自ら幸せになりたいと願い、その為に自らが想う他人を笑顔をさせたいと、日々大切に生きている人にその役を担ってもらえれば、我(われ)は幸せなのであろう(笑)
懐(ふところ)を深く、善を育んで行けば、自(おの)ずと幸福の扉というものは、しかるべく適した時に開くものだ。
「それはいつだ?」との声が聞こえてきそうであるが、それをもし人間如きが知ってしまったら、きっと精進などしないのでは?笑
密教、修験道や陰陽道では手印を組んで作法することで知られているが、越法(おっぽう)にならない程度にそれを用いて記そう。
布施(たなごころ)を基(もと)に、
持戒(地指)
↓
忍耐(水指)
↓
精進(火指)
↓
解脱(風指)
↓
解脱知見(空指)なり。
※五重の塔やお塔婆を下から順(記したものは天地が逆)に矢印の如く重ねていくと、このようになります。
日々重ねていく善い行いを、薫重(くんじゅう)と云います。
貴女(貴方)だけの香りが、貴女の想う誰かの心地良さの如く薫るようになれたら、きっとそれは幸せということなのでしょう。
合掌