いつもと違う朝のこと、新規クライアントとの面談予定が入っている日の事だった。

いつもと違うことはそれに限らず、私が今住まう街で暮らし始めるようになった、およそ三年程前から懇意にさせてもらっているRさんから入電があったことだ。

その理由(わけ)とはどうやら、離れて暮らしている独り立ちしたお嬢さんが、急な体調不良という不測の事態が発生したことで、Rさん本人はどうしたら良いものかと、自らの心を落ち着かせることが目的の電話だったようだ。


救急車の搬送をRさんが依頼し、そんな自身はすぐにお嬢さんの住まうアパートに向かうと意を決したRさんとの電話を終え、私はいつも通りの作法で、いつもの如く仏さまに礼拝し自らの加行(けぎょう)を重ねた。


今の己は、謂わば比丘(びく)と沙弥(しゃみ)の中間のような僧ではあるのだが、しかるべく時にしかるべく何者かに、何事かを教示されることもあるようだ。


行を終えた後の私は作法を神道式に改め、この心身(しんみ)は僧侶のまま、今住まう土地の氏神札に礼拝。


「祓え給い、清め給え、神(かむ)ながら守り給い、幸(さきわ)え給え」


そう唱え一礼の頭(こうべ)を垂れた時、何者かの声が驚く程はっきりと聴こえた。


「承(うけたまわ)った」


己の耳朶(じだ)に非(あら)ず心でその声を捉えたのだが、確かにそう聴こえたその刹那の出来事だった。


一瞬の出来事でそれは後ろ姿しか見えなかったのだが、真っ白な誇り高き大蛇が南方へと疾風の如く走り去って行ったのだ。




違うからオレの馬鹿ぁ💢

全然以上ではないからっ❗️




外出の支度を整えた私は、愛車の運転席、つまりドライバーズシートに少しだけ乱暴に乗り込み、そしてわざと荒々しくセルを回しエンジンに火を入れた。


この日、1件目のアポイントが入っている六本木に向かうべく、私は愛車のマニュアルシフトをローギアへと放り込み、中央自動車道の八王子ICに向かい走り出した。


ユーミンの歌にも出てくる中央フリーウェイ、そのハイウェイを走るミッドシップエンジンが獣(ケダモノ)の如く咆哮(ほうこう)を上げる。


お借りした画像、私の愛車であるミッドシップエンジンのワイルドなイメージ👇


首都高速環状線内回りを抜け、外苑(がいえん)出口から一般道へとアクセス。


ナビを使用していない(持っていない)私は、奥多摩地区で農園を営む知人から頂いた針金を曲げ自作したダウジング棒を巧みに操り、目的地である六本木residence(タワーマンション)に一番近いコインパーキングに到着し車を停めた。


セキュリティのしっかりしたマンションはインフォメーションに女性が居るものだが、私がその女性にカタコトの日本語でアートネー◯ャー相談室への行き方を尋ねていると、新規クライアントというのは名ばかりで、実は数年来の友人である今回のクライアントがエレベーターホールからその姿を現した。




日本で生まれ育った友人は、今を遡ること長くシンガポールで暮らしていたのだが、この度のコロナ禍で思うことあった様で自らの居を日本に移し、不退転の覚悟で自社ブランドの創業を志したことで私にオファーしてきた、ということの次第なのだ。


一般的なNDA契約の締結、つまり守秘義務契約を結んだ案件に臨む経営コンサルの性質上、その詳細は明かせぬ類いのものなのだが、グローバル金融、則ち世界の経済を股にかけた金融界にその身を投じ、その過去というものは時に自らの命を危険に晒しながらも財を成し、その結果セミリタイヤを遂げた男の、だからこそわかる、志よりも人の哀しみに目を向けることを知った男の、もう一度自らの中のなにか闘うと意を決した男の、今後の捲土重来(けんどちょうらい)という未来が楽しみでならない。



ランチミーティングを終え、次のアポである新橋へと移動した私は、通い慣れたいつものコインパーキングに自らの車を停めた。


私が車から降りたその時、背後から強い視線を感じ振り返ったのだが、そこには人の気配などは微塵(みじん)もなく、当然の如くそこには誰も居なかった。


どうもこの日は朝から不可思議なことが起こるものだと、私はブツブツと不審者のように呟きながらコインパーキングの裏手へと向かい、接道(せつどう)する通りの路地へと歩き出した。


そんな私の眼前に、ほどなく寂れた鳥居が姿を現し、己の中で何かが腑(ふ)に落ちて私はひとりごちた。


「素通りせんと、挨拶してから行かんかいアホンダラっちゅうことか」




友人Tさんのオフィスに到着し、今しがたの経緯(いきさつ)を私が話すと、友人Tさんが私の話を若干かぶせ気味でそれに応えた。


「不思議ですねえ、今買ってきたこのお茶(ペットボトル)は、その神社がある一郭(いっかく)で営業してるローソンで買ったんです。

いつもなら、オフィスから一番近くにあるセブンイレブンで買ってくるんですけどねえ」



公式HP👇



独眼竜政宗でお馴染みの、伊達家が奉納した土地であると記録されている、塩釜公園の一郭に鎮守する塩釜神社ご祀神の名は、塩土老翁(しおつちのおきな)と云うそうだ。


その名の冠するが如く、塩造りに纏(まつ)わる神とのことであるのだが、人生という果てしない大海原を航海する旅人を導かんとする、謂わば先導(せんどう)の神でもある、ということらしい。




新橋での打合せを終え、首都高を経由しながら帰宅したタイミングで、私は広域指定?宅配集団である黒猫団員の方と鉢合わせしたのだった。




箱を開封し、先ほどまで力強く自らの生(せい)を育んでいたであろう、色とりどりのトマトを見て、私はYさんのあの笑顔が脳裏に浮かんだ。


Yさんとは、この一つ前のブログに記させて頂いた方で、お野菜を育む立派なお仕事をされている女性のことだ。


生きとし生けるものとは、なにも動き回るものだけが生(せい)あるものではない。


植物や穀物も力強く自らの生を育み、その生を慈しみ、そしてその育成に関わる人こそがYさんのような方であるのだ。


仏教には、十善戒という十悪(じゅうあく)を敢えて否定形にした戒めの教えがあるのだか、その文句の初めに唱える不殺生(ふせっしょう)とは、人として行ってはならぬ行為を指している教えだ。


修羅の如く、我意(がい)を満たさんが為に手段を選ばぬは人として下(げ)であろうと思う。


もちろん、自ら望み長らくその修羅世界に棲んでいた己も、下と云う同義であることは己の過去を恥じつつも隠さざる事実だ。


動物の如く動き回らぬ植物や穀物の命を、それを敬(うやま)わず生(せい)ではないと軽ろんじ、そんな自らは人と云う浄らかな存在であるのだと、根拠のない儚(はかな)き夢想の如く幻想を抱き、動物などの生(せい)以外の命を粗末に扱ったとしても、それは殺生に非(あら)ずと錯覚している人の姿を借りている偽りの生者(せいじゃ)であるのならば、それはもしや、人として下の下なのではあるまいか


諸行無常の如く、生あるものは例外なくその終焉を迎えるのだが、その生というものが未来の何者か若しくは何事かの育みに紡(つむ)いでいける摂理であるのならば、それは命のバトンを渡すが如く、浮き世と呼称される此岸(しがん)である我々が生を育む社会である、この世の発展というものなのであろうと、それは疑いなく思えるはずだ。


我々の暮らす現代の文明社会、目のつけどころを変えた表現をすれば、経済社会いうコミュニティで生きて行くには、「金」と云う名の通貨を得てそれを行使せねば、文明人としての暮らしがままならぬという現実に直面する。


では、そもそもその「通貨」の正体とは、いったいなんなのであろうか?


それは我が国の主言語である、表音文字ならぬ表意文字の特性に抗わず解釈であれば、通貨とはそれそのものが何かを得る為の道具なのであると云うことが理解できる。


その道具の役割りというものの本質は、その呼称である「金」そのものを追いかけたり、若しくは集めてそれを繰り返し数え「これではまだ己は満たされぬ」と嘯(うそぶ)く、食事した事実を忘れてしまうような認知症の如く、謂わば餓鬼界の住人になってしまうことや、道具であるそれそのものを己が全てコントロールしたいが欲求に抗えず、隠したりするという魔性のような個性があるといえる。


では、道具である通貨とは、その通貨と云う道具であるはずの「金」の本性とは、いったいなんなのであろうか?


それは、その本性を一言で表すのならば、「金」の本性はこの世を廻ることなのであろう。


その「金」という文化を造り出した人間と云う生き物の本性は、善くも悪くも「欲」と云う本性であり、その欲そのものがが正しい正しくないと云う基準で人間と人間とが争っているのではないかと、元修羅世界に棲まう権利を行使していた、菩薩にはなれぬ鬼である己は、そのように思えてならない。


ならば、「金」を廻せば人は幸せになれるのではないか?


そのように想った時の政(まつりごと=政治)を行ってきた先達(せんだつ)の為政者(せいじか)が、苦悩し歴史の狭間(はざま)に破れ去った世の理(ことわり)なるものは、人の口から放たれるその人の我意、その情報にソースやエビデンスなきインテリジェンス(うわさ)なのではあるまいか


幸せになりたいと想う心願は、人間が人間であるが故に美しい欲求であると疑いなくそう思う。


ならばそれを叶えるは、その手段こそが精進(しょうじん)という動詞が示す所作であるはずだ。


私は幸せになりたい! でもどうするべきかわからないと喘ぐ雅やかな人あらば、その時は自らではなく、「他」に施すことで報われる。


魔法や呪術の類に非ず、これは自然の摂理だと断言しよう。


多くの人がその名を知っている先達が、その理(ことわり)が真実であると、後世を生きる我々に遺してくれている。


「人の為と書いて、偽ると読むんだねえ」

相田みつを