先週のことなのだが、私が居を置くところの東京都において、その組長である都知事が感染症対策に纏わるその意を示したようだ。

以前の私が自らの意思で棲んでいた、無制限の暴力を美学とする歪んだ認知の修羅世界では、上意下達こそがその全てであり、
「えー、マジそうゆうの無理だし」
とか、
「てゆうかそれ、おかしくね?」
などと迷ったり苦悩することはその世界で生きることの死を意味する。

広域指定暴力団と呼称されるような組織であれば、組長と称される者でも上には上がいて、

「待機」などの命(めい)が下れば、その後は自らがいついかなる時においても、

「殺れ」の合図に従う態勢で待てとの不文律なのだ。

しかし、今の私は組長でなければ修羅世界に棲まう住人でもない。

今のぼくは・・、




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ネットで拾った今のぼくのイメージ画像

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しょうもないボケを一発かまし、私の気が済んだので閑話休題




まん防の発令により、ひと月以上前から楽しみにしていた尺八JAZZのライブが中止になりはしないかと、私は些か憂鬱な気分でいた先週だった。


その尺八JAZZという異色のカッコ良さをご教示くださった方で、そのMさんから吉報が届いた時、私はiPhoneを放り投げ狂喜乱舞してしまったw


吉報内の要所としては、ライブ会場の時短営業に倣い、ライブ開演時間を一時間早めて行うとのことだった。


実は私とMさんとの縁は日が浅いもので、去る師走の某日に都内の某ヒーリングルーム吉祥で主催された講話会に、Mさんご夫婦が参加されていたことが起点となっている。


ご本人に許可を得ていないので一部伏せ字で記すのだが、講話会主催者である◯仙先生とは、ヒーリングルーム吉祥の主宰であり、かつ阿闍梨として大元吉祥堂の堂主でもある正◯先生と、Mさんご夫妻は短からぬ縁であると、正仙◯生ご本人から以前より私は拝聴していた。






ライブ当日、正仙先◯はお勤めの関係で来場できぬことが残念だったのだが、私はMさんのご厚意で贈って頂いたCDを聴いた時、一撃で尺八JAZZという音楽に惚れてしまい、横浜で行われるこの日のライブを楽しみに心待ちしていたのだ。





ライブ当日、東京といっても私の暮らす場所は端っこで、普通に猿とか鹿とか暮らしているその奥多摩地区からでも、楽々開演時間に間に合う刻限に私は車で出発した。


しかし途中、ドラマがあった。


先ず、牛乳飲んだら己はどうなるかわかっているのに、コンビニの棚に陳列された美味しそうな牛乳に心奪われた私は、自らの過去の事例に寸分違わず、バカだね僕はね、ポンポン痛い痛いだね!になった。


その問題を解決後、横浜に向かう道中で、流行りの逆あおり運転というものなのだろうか?


法定規制速度50kmのところを、僅か30kmで走行しているオジサンと出会った。


Google先生から借りたイメージ画像

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おじさんをやり過ごした後、私は急いだ。


もちろん、道路交通法を遵守し、その範囲内で全力で急いだ。


Yahoo先生から借りたイメージ画像

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結果、なんとか間に合った。


開演時間の僅か10分前の到着だった。






このライブに誘って頂いたMさんご夫婦は先に到着されていた。


この日は投げ銭方式のライブということで、ドリンクを注文してからライブ開演を待った。


注文から素早くテーブルに置かれたレモネードは、私が注文したドリンクだ。


私は、それを一口飲んで面食らった。


店名を見てあなどっていたわけではないのだが、このお店の自家製レモネードは絶品だ。


その味に驚き、私がアホヅラした刹那、尺八とバイオリンのセッションJAZZライブが始まった。


(許可を得て撮影の画像です)

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五感の一つである耳朶で捉えるその音というよりも、聴く者の心ダイレクトに響くような、いわば音の楽しさそのものではあるまいか


無意識に上がってしまった自らの口角に気づいた私は、そのように思えてならなかった。


そしてふと、昔の記憶が呼び起こされた。


あれはまだ己が不良をしていた頃、ある街のネオン街、当時店内で生バンドが演奏している、今でいうところのクラブで、その演者がMC時に放った言葉だ。


「若者が中心のヒップホップと呼ばれるジャンルの音楽がありますが、一説によるとその発祥はJAZZであるという説もあるんです」


なるほど、時に勝者の凱歌(がいか)に聴こえるメロディも、同時に敗者の非歌であるようにも感じる。


そして尺八という和の音色そのものが醸し出す雅やかさというものが、なんとも言えぬ心地良さを与えてくれるのだから不思議だ。


演奏の合間、つまり奏者の休憩時間なのだが、改めてこの素敵な時間を体感する機会を、この尺八JAZZライブに誘ってくださったお礼をMさんにお伝えした。


しかし私は、そこであることが気になった。


Mさんの奥方はずいぶんとお若い方のように見えるのだが・・・


私はその事で少しの間、Mさんからの話が全然頭に入ってこなかったのだが、Mさんの職業である映像ディレクター、つまりその過去にMさんが関わった作品の名を聞いて目が覚めた。

(超有名作品です)





知力が小学生以下の私は、興味の対象がMさんの職業という生き方なるものに移動し、またうっかりMさんの意識の奥底にある、記憶の片鱗のようなものを覗いてしまった。


映像ディレクターとは、いわば映像における監督そのものであり、その信義という責そのものが自らの矜持であると


物語を、俳優という名の演者を通じて魅せる映像というものは、その全てが造ることではなく関わる全ての人の想いで創っているのだと


Mさんの穏やかな風貌からは微塵も想像がつかぬ程に、まるで一切の魔を赦さぬ不動明王の火焔の如く、胸の奥に熱き何かを秘めている方だった。


Mさんの話も尺八JAZZライブも魅力的で、後ろ髪引かれる思いだったのだが、リアルに引かれると私のカツラがずれてしまうので、私はこの夜に泣きを入れてきたクライアントの急なニーズに応えるため、この日の終演を体感することなく横浜を後にした。


そしてその日の夜遅く、Mさんからのメッセージを知らせる、iPhoneの少しばかり無機質に感じてしまう電子音が鳴った。


そのメッセージに貼付されていた画像は、撮影したMさんのお人柄だけでなく、JAZZアーティストである小林鈴勘さん、バイオリニストの北床宗太郎さんとの間柄を感じられるような、心温まるものだった。




今の世の、インフルエンザを含む人の口から放たれる飛沫や、特定の誰かを口撃するような、その者の我意を満たす為の悪しき類であるSNSの流行の如くには流されず、自らの無意識から生じる悪意というものは、その自らが意識することによって誰かのための施しとなるのではあるまいか


尺八JAZZの奏でる音色そのものは、渇いた大地を潤す慈雨の如くもあり、それでいて自らの功利損得という感情をモノサシとしたジャッジで白黒つけてしまうような、人の心の弱さそのものに己の意志で抗えと、そう優しく語り掛けながら奏でていてくれたことを、今も耳朶の奥にはっきりと記憶している。


Mさん、貴重な経験をさせて頂いたこと、この場を借りて御礼申し上げます。


奏者であるJAZZアーティストのお二方、今後益々のご活躍を祈念し、また機会あればLIVE会場に足を運ばせて頂きたいと思います。


ありがとうございました。


合掌