つづきです
兄の生死感を泳ぐ
4時過ぎから7時まで話しをした。
後半2時間くらいは、兄の生死感、宗教観、今までに感じてきたことなんかを聴いた。それは時々、突拍子も無かったりしたけれど、なにも思わず、ただただ聴いた。興味が湧いたら質問したりして、たくさん話しを聴いた。兄の生死感のなかに自分を置いてみた。穏やかだった。
わたしたち兄弟はわりと良好な関係である。だけど、こんなに穏やかに静かにたくさん話しをしたことは最近は無かったかも知れない。
話しを聴きながら、目の前の兄の手を見てふと、もう何十年、肌に触れてないかな?と思ったりした。
9月6日は、そんな日だった。
子どもみたいに泣きたい理由
喫茶店を出ると、雨はすっかり上がっていた。
駅で別れて、独り暮らしの兄が暗い部屋に戻ってどんな風に気持ちを持てあますのだろうか?考えても答えはでず、胸が詰まった。
雨、上がらないほうがマシだと思った。時間は過ぎて変化するってことを、この時は感じたくなかった。
54歳という若さの無念を呟いた兄
早い、早い、と何度も繰り返した声
離れて暮らす子どもが心配だと吐いたため息
小さい頃からすべて一人でこなし、耐えて気遣うことばかりだった兄は、今さら自由になれるのだろうか。甘え方を知らない。お兄ちゃん、わがままで良いんだよ。
それから、勝手に涙が溢れたりするのだ。
ほんとうは声を上げて大泣きしたいのだと思う。
だけど私は、家族の前ではそんな風に泣けない。
どうしようもなく子どもっぽく泣きたい。
そんな感情が時折、繰り返される。
そして、兄も大泣きしたいと感じてくれていたら、そんな風に感情が自由だったら良いなと思った。
こんなことがあって、ほんとうはまったく別のことを書くつもりのブログ記事が、ポエムみたいになってしまったという訳です。失礼しました。
(く)