この年の11月に中曽根内閣から竹下内閣が発足した。野中先生が衆議院議員に出るきっかけになったのは、青年団の時から付き合いがあり、いろいろとご縁の深かった竹下登先生が国会に出てくるように野中先生にアプローチされた経緯があった。その竹下先生が、経世会としても念願であった総理に就任されたので大変喜ばれていた。
 それとは対象に事務所内では、東京、京都とも秘書同士の不協和音が出ていた。私は、1番下の秘書だったので毎日が息苦しかった。野中事務所は、地元は地域別に担当の秘書がある程度決められており、また、企業や団体の依頼については、所長と第一秘書が担当していた。また、東京では、秘書同士がそれぞれの省庁を割り振って担当していた。野中先生を頂点にして、それぞれの秘書に担当の範囲が縦割りに与えられており、横の連携がないためお互い何をやっているかわからないので秘書同士が疑心暗鬼になっていく。これは良い意味では、競い合いの原理が働いて自分の受け持っている担当のもので結果を出せるといろいろな方からの評価に繋がる。
 地元の秘書では結果を出すのは選挙の時に受け持っている地域の得票数が評価になる。また、東京の秘書は、各自治体から受けた要望について補助金などが要望額通りに採択されるかどうかで結果が出るのでこちらで評価される。それぞれが結果を出すにはある程度の時間がかかる。その間に秘書同士がお互い何をしているのかわからずに仲が悪くなっていく。最終的には、秘書は野中広務という看板でやっているので野中先生が有権者から評価されることになるのではあるが、事務所内では秘書同士の小競り合いがあった。
後援者には、戸惑いを感じさせていたのかも知れない。しかし、これがよかった部分もあった。秘書同士お互いが結果を出すのに競い合っていたというところもあった。揉めたりすると最後は、野中先生が直接、要望を聞いて処理して収めるという場面があった。正直私は、地元事務所のこの状況に辟易していた。休みはないし、先輩秘書から降りてくる雑用もたくさんあったし、誰を立てて誰の言うことを聞けばいいのか。その都度慎重に自分で判断しないといけない。はっきり言って地元事務所から一日も早く抜け出したかった。東京に行けば土曜日は半ドン、日曜日は休めるので東京で秘書をやりたいと言う想いがこの頃から強くなった。しかし、東京事務所に欠員が出ない限り東京で勤務できる訳ではないし、欠員が出たとしても東京在住の若者の誰かが入って補充されると可能性はなくなる。私が東京で秘書をするなんて到底無理な希望であった。
この事務所の状態を理解してもらっていたのは、現在、善光寺の貫主をされている栢木寛照先生だった。栢木先生は、野中先生の初回の選挙から応援弁士などをされていて、栢木先生の送迎を私は、よくさせてもらっていたので運転しながら持って行き場のない泣き言を吐露した。その度に親身になって聞いていただき人とはどうあるべきかということなどを説いていただいた。
また、たまに里帰りのように息抜きに行ったのが、学生の時に初めて選挙を経験した私を野中事務所に押し込んでもらった府議会議員の西村宏先生の事務所にも行った。西村先生には、秘書とはどうあるべきということをご指導いただいた。
このような状況で丸2年が過ぎていった。
この頃には、野中先生は、当選3回では異例の衆議院建設常任委員会理事に就かれていた。理事に就かれたのは、浜田幸一建設委員長が、建設常任委員会の委員だった野中先生が、委員会開会中一度も抜け出すことなく委員として全うされていたので、委員長権限で野中先生を理事にされたのである。京都は、道路事情も悪く遅れていたのと地下鉄整備や京都国体なども控えていたことなどから建設常任委員会理事のポストは取りたいと思われていた。また、理事になることによって建設省の方とお付き合いが出来、繋がりを作れるというのも大きなメリットであった。建設常任委員会に所属すると自民党の政務調査会でも自動的に建設部会に入ることが出来、理事になれると部会の役員にもなれるのでさらに建設省との繋がりが深くなる。国直轄事業などでも建設省に配慮してもらっていた。これには竹下内閣だったということもプラス作用が働いてこの頃課題であった整備事業も進んでいった。
 話はそれたが、私は、国会議員の秘書の仕事はやり甲斐があり面白いと思っている。秘書は、あくまでも表立つことはなく陰の存在であり、議員の看板で仕事をさせてもらっており、人に不快な思いをさせてはならないし、偉ぶってはいけない。また、同じ事務所内で小競り合いをすると後援者が困り、離れていく。その結果、落選させてしまう。ということにもなりかねない。しかし、私の場合は、野中先生が求心力を持たれていたのでそのような経験をするようなことがなかったことは、秘書として幸せ者であると思う。いろいろと秘書について書いたが、国会議員の秘書とはどうあるべきかは、私が言うのも生意気かもしれないが、また、別の機会に記そうと思う。