見出し画像 無事、辛うじて大学の推薦枠にもかかり、行きたい学部もなかったので先輩から大学の名簿を借り、男子校だったので、大学生になったら今までのバランスをとるため女子の多い学部で英語がないところを選びました。おかげで女子が8割を占める学部の専攻に行くことになりました。大学に入学すると授業も受けずに、アルバイトに明け暮れる日々が続きました。その中で一番時給がよかったのは、祇園の高級クラブで今でいう黒服のアルバイトでした。ホステスさんが酔って控室で私に抱きついてきたりして結構刺激的で楽しいバイトでした。でも、自分は、お金持ちになってもこういうところには、行かないなぁ。とこの頃に思い、お酒も飲めないことから未だにそういうところには、自分で行こうとは、思いません。


大学2年生に上がる2月だったと思います。後期の試験が終わり、祇園のクラブでアルバイトをしていたため、昼と夜の生活が逆転し、授業もろくに出ず、単位が少ししか取れなかった私に、母の友達から選挙で大学生のアルバイトを探しているところがあるから、お宅の息子ブラブラしているのだったら行かせたら。ということで、友達3人と選挙のアルバイトに行くことになったのです。私の近所の建設会社の社長が、その地方議員と同級生で応援しており、そこがアルバイト代をだすからということで昭和58年の統一地方選挙で、その地方議員の選挙の運動員をすることになりました。その地方議員の事務所にはじめて行った時は、まだ、事前活動中で事務所の設置の用意とポスター貼りが主でした。自民党も社会党も共産党もわからない私が、何も考えずに、すんなりこのアルバイトをしたのは、選挙のアルバイトは、時給がいい。という噂だけでやっただけで、なんとなく外回りや事務所の中で喋りながら作業をしているのが楽しかったというのが初めて選挙に関わった印象でした。


統一地方選挙は、勝ち選挙でした。幸先のよいスタートでした。また、たくさんの人が集まってお祭りのような感じで楽しかったので、この議員の事務所にちょくちょく顔を出すようになりました。その頃に私の転機が訪れました。大学2年生の夏の前期の試験が終わった時です。1年生の時に、散々単位を落とした私は、真面目に授業に出るようになってました。試験が終わって夏休みに入るので、そろそろ遊ぼうか?と思っていたらその議員から家に、電話が入ったのです。その内容は、衆議院議員の補欠選挙があるから直ぐに、指定する事務所に行ってくれないか?ということでした。夏休みに何も予定もなかったので、いいアルバイトが入った。と思い指定された選挙事務所に行くことになりました。その事務所は、のち私が、秘書として仕える議員の事務所でした。とりあえず、事務所に行くと。既に、アルバイトの学生含め50人ぐらいの人が、うじゃうじゃいたのを覚えてます。学生アルバイトのトップ、アルバイト頭というのですが、その人と簡単な面接と自分のアルバイトに入れる予定を用紙に記入し、時給を提示されました。なんと時給650円!祇園のクラブの時期が600円。昼間でこの金額は、最高と喜び。みっちり入ることにしました。地方議員の選挙しか、まだ経験がなかったので、指示されたことはなんでもすること。と思っていたところ、衆議院議員選挙ほどの大所帯の事務所になると担当も細分化され、一番年下だった私は、個人演説会の設営部隊にまわされました。夜に個人演説会をするため昼頃に選挙事務所に行って用意をして、弁当を持って会場に行き、演説会が出来るように、会場設営をする仕事でした。ある日、事務所で用意をしていると。手伝いに来ている人から立ち会い演説会に学生アルバイトが数人行って会場で桜をするように言われたのです。それに加わって立ち会い演説会の会場に行きました。立ち会い演説会とは、今は選挙のときには、やらないですが、その頃公職選挙法も改正されておらず、各党の候補者が一つの会場に集まって政見放送のように演説をする。という公職選挙法上定められたものでした。そこで初めて私が秘書で仕える野中広務先生の演説を聞いたのです。その演説は、迫力があり、始めの出だしから衝撃を受けました。また、今までの野中先生の経歴を知って、単純な私は、自分の身体一つで資本金なしに出来る仕事は、これだ。と思い、政治家になろうとこの時に考えたのです。また、この補欠選挙は、夏の暑い最中、長丁場の選挙で欠員の2議席を争う壮絶な選挙戦でした。この時の印象が強烈に頭に残り、秘書になりたい一心で大学生時代の大半んを選挙のアルバイトで過ごすことになったのです。


大学4年生の時には、アルバイト頭にもなり、大学の卒業式も知事選挙の最中にあったので、選挙活動を抜け出して卒業式に行くような始末でした。しかし、秘書になる壁は、厚かったのです。秘書になることを目指して就職もせずに、卒業してしまった私は、知事選挙が終わるとすることもなく、地方議員の事務所に遊びに行ったりして、ふらふらしてました。するとその議員が、こんなぶらぶらしてどうするのか?聞かれて、野中先生の秘書になりたい。他の事務所ならする気がないことを正直に話をしました。その議員が動いてくださったのですが、野中事務所の返事は、秘書が14人いるので今はいらない。ということでした。仕方ないので、この年は、参議院議員選挙もあるから、選挙のアルバイトをしながら、野中事務所に欠員が出来るまで待ちます。ということで、毎日、家にいるのも体裁が悪く、アルバイトを探そうとしてました。昭和61年の419日に、野中事務所の秘書から一本の電話がかかってきました。

それは、「オヤジから電話が昨晩あって選挙があるから、お前がぶらぶらしているから明日からでも事務所に来させておけ。と言ってる。」という連絡でした。二つ返事であくる日からアルバイトの時のような格好ではなく

スーツを着て事務所へ出勤したのです。


以上が、私が秘書になるまでの経緯です。

はじめは、地元勤務の秘書からでした。


今後は、自分が経験した政治関連のことや実務を書いていこうと思います。今後ともよろしくお願い申し上げます。