2011年3月11日から、私は私ではなくなっていたように思います。

 

 

私はただの田舎の学習塾の経営者で、

毎日毎日子どもたちの声に耳を傾け

保護者の悩みを聴き、

新しい教材の研究に勤しみ

どうやったらその子が伸びていくのか・・・

そんな事ばかりを考える経営者でした。

 

 

365日中、私は360日は働く日々を過ごしていました。

趣味もなく、さしたる特技もなく、

南相馬に出戻ってから、友人との付き合いもさほどなく、

 

ただ密やかに、自分が思う教育を、

朝から夜中まで教室に詰めて仕事三昧の日々をおくっていた訳です。

 

 

 

あの日の朝まで、私のところに在籍していた生徒は114名。

 

不幸にも津波で命を落とした子も何人かいます。

 

 

 

南相馬が、地震と津波と、そして原発事故の三重の被害を被り、

丁度1週間前が誕生日で、なりたてほやほやの50歳は考えたのでした。

 

子どもも成人し、介護する親もいない。

私たち50代が一番動きやすいんじゃないか・・・と。

 

 

定款でのベテランママの会発足日は、2011年4月1日になっています。

私たちが動くのは早かった。

早すぎて、理解してもらえないこともしばしば。。。

 

 

 

 

若いママたちからの相談は相次ぎました。

生徒たちからもメールが途絶えることはありませんでした。

 

若いご夫婦が避難の道を選択し、独り暮らしの高齢者の寂しいお話しも聴いて差し上げました。津波にあわれた壮絶な体験談もお聴きしました。

買い物にいけないおばあちゃんに食料を届けてあげることもしばしば。。。。

そんな細々した地道な活動でした。

 

 

 

 

 

そんな活動が、いつの間にか、

放射線の勉強会を坪倉先生と行うことになり、

私までが福島の現状のお話しをして欲しいとこわれて、全国各地へ出かけても行きました。

 

 

私はかつて自分で「モグラ」か「ナメクジ」と自分を比喩していました。

それくらい外にはほとんど出ず、教室の中に籠もって仕事ばーーーーーっかりしていたのです。でも楽しかった。悩みもなかった。

 

 

 

 

卒業生たちから

震災後、先生変わったね・・・・

いつ教室に行ってもいない・・・・

と言われることも増えました。

 

 

震災後に出会ったミカリンさんと、

私たち、頭おかしくなっているよね・・・・

こんなに動き回っても、疲れをしらない。

と言いあったことがありましたっけ。

 

ハイの状態が続いていたようです。

 

 

自分らしい動きではないので疲れが出てきたように思います。

基本、私はインドア派。

小学生の時から茶道と華道をたしなむ子で

これは母から習うように勧められたのではなく、

うちの近所に池坊の華道の先生が住んでいらして

花包みを抱えて路地から出てくるお姉さんに憧れて、

先生のところを訪ねるようになりました。

和服姿でいつもきちんとしていらした穏やかな先生が

「さっちゃんもやってみる?」

それから私は一番小さな門下生になりました。

 

 

茶道は、同級生のお母さんがお師匠さんでした。

その同級生は、男の子2人兄弟で、お母さんはお茶を教える子がいないと不満そうでした。

遊びに行くたび、お茶巾のたたみ方から、お茶碗の扱い方、お茶の飲み方

そんなことを伝授されていきました。

 

書道は小学1年生から。

学校のそばのお寺さんで習いだしたのがスタートです。

 

 

 

カラオケやゲームや、ウインドウショッピングも、

疲れるので行きません。(笑)

つまらない人間なんです。

 

 

こういう仕事をしていますので、私は口を堅く

人の噂話もしないようにしていました。

だから信用や人望が厚く、口コミで生徒も集まったと思います。

 

 

最近、私を「社会活動家」と呼ぶお方がいらっしゃいました。

私は社会活動家ではないですね。

 

 

先日、今までママの好きなようにお金も使っていいし、好きなことをやればいい。

と言ってくれていた娘から

もう充分皆様に尽くしたんじゃないの?

もう自分の幸せも考えたら?

と声を掛けられました。

 

 

私は何か勘違いしていたのかも。

使命感に酔って、私が代弁しなきゃ!なんて矢面に立って嫌な役を引き受けていたけれど

私でなくてもやれる人はいるんじゃないか?

私が身を粉にしなくてもいいんじゃないのか・・・?

なんて、ふと思ってしまったんですね。

 

 

震災前の、本当の番場さち子に戻ります。

今日はそのご報告。

 

2017年5月20日  旧 番場さち子