震災直後から津波で被害にあった方のご遺体を捜している団体があるというのを耳にはしていましたが、

代表の上野敬幸さんとは私は少し距離をおいていました。

福島放送の高橋ディレクターが上野さんのことも追いかけていて、

よく噂では聞いていたのですが、あえて距離をおいていたのが、ようやく会話するようになったのが最近です。


彼の自宅は我々の通称名で「表萱浜」

移民でいらした方々の最初の集団移転先が南(表)の萱浜(かいはま)で、

私の先祖が加賀から移民してきたのはその後で、北(裏)にあたります。



震災の翌日の原町第三小学校体育館で、従姉の長男Tに会いました。

私の父の兄である伯父、伯母、従姉、お嫁さん、孫の5人が津波にあい

会社にいた従姉の亭主と息子のTが生き残りました。




Tとごった返す体育館で再会したとき、私は何も言わずにTを抱きしめました。

気丈に振舞わないと、自分を保てなかったのでしょう。

Tは私に「さっちゃん、オレ大丈夫だから。大丈夫だから・・・・」を繰り返しました。




後日、あの時のことをTは覚えていないと言います。

それほど頭の中が混乱していたと思います。

・・・「なんで家の先祖は、あんな海の近くに家を建てたのかな?・・・」と口走ったこともありました。


そんな混乱極まりない時から、上野さんは立ち上がっていたと聞きました。

彼のパワーの原動力は何なのか・・・苦しんでのた打ち回っているTを見ていて、私は密かに上野さんの不思議さに脱帽していました。

が、対面してあの時のことを話すのが怖かったように思います。

ですから距離を置かせてもらった4年間だったと思います。




彼が花火を始めても、私は鎮魂の花火を見る気にはなれませんでした。

辛すぎて・・・・です。

彼は自分の傷口に塩を塗るような自傷行為をしながら、天に召されたご両親やお子様たちに

「忘れてないぞ!!!」と空に向かって叫んでいるように感じるのです。



つい先日、上野さんとのメールのやり取りの中で、

Tの話になりました。

Tも波があると思う・・・オレもそうだから・・・

と仰いました。


初めて、上野さんの人間らしい部分に触れた気がしました。




photo:熱田譲氏


上野さんの自傷行為のような花火大会。

今年2000発上がったようです。

無念に散った多くの犠牲者の魂に、あの鎮魂の花火は届いたでしょうか?

そして上野さんのご両親様やお子様には上野さんの気持ちが届いたでしょうか?


私は今年も見に行くことはできませんでしたが、

上野さんに敬意を表し、私のブログを読んでくださる方に、上野敬幸氏をご紹介したいと思います。