2015年6月26日に勝俣範之先生を番來舎にお招きします。

勝俣先生はあの忌まわしいサリン事件の被害者でもあります。


初めて勝俣先生のブログを拝読しましたとき、この先生と繋がりたいと思いました。

実は未だお会いしたこともありません。


密かに思いが膨らみ、直訴いたしましたら、ご快諾いただけました。驚!

図々しいばんばに愛の手を差しのべてくださってありがとうござます。

勝俣先生のブログを下に再掲載しておきますのでお読みください。


ぜひ、勝俣範之先生に直接会いにいらしてください。

私も初めてお目にかかるのを楽しみにしております。



2015
03.18

僕はサリンサバイバー


今年は、地下鉄サリン事件20周年になります。毎年この時期になると、テレビなどでもサリン事件について報道されます。いまだにサリンの後遺症で悩む人や、PTSD(心的外傷後ストレス障害)で苦しんでいる方もいらっしゃいます。我々はこの事件を忘れてはいけないし、あのようなテロを許してはならないと思います。

私は、実はサリンの被害者であり、重症で入院していました。20年経った今、当時のことについて記しておきたいと思います。

1995年3月20日その日は月曜日でした。当時、私は国立がんセンター中央病院のレジデントであり、通常はバイク通勤をしていたのが、前日に千葉の病院で当直のアルバイトがあったので、千葉から電車での通勤となりました。総武線秋葉原駅で日比谷線に乗り換えて、築地にある国立がんセンターに向かう途中でした。

8時を過ぎたあたりでしょうか、電車が八丁堀駅で突然止まりました。しばらくすると、車内放送で、
「ホームで病人が倒れています。医療関係者のかたがいらっしゃいましたら、お願いいたします。」
医師の免許をもらってから、このような場面に遭遇することはしばしばあり、救急病院での経験もあったので、ホームに降りてみました。すると、ホームの真ん中あたりで、人だかりができており、そこに50歳代くらいの女性が泡をふいて倒れていました。既に心肺停止している状況でありましたが、瞳孔は縮瞳している状況でした(瞳孔が開いていると、脳神経機能がなくなっている状態)ので、まだ助かる可能性があると思い、その場で、人工呼吸(マウスツーマウス)と、心臓マッサージを始めました。

しばらくすると、
「私も手伝います」
と30歳代くらいの看護師というかたが、手伝ってくれました。
15分くらいしてからでしょうか。救急隊が来たので、患者さんを救急隊にまかせました。
実は、二人で蘇生術をしている際にも、周囲で人がばたばたと倒れていきました。何か過激派の爆破でもあったのかと思っていましたが、それにしては、何の匂いも、煙などもなく、変だと思っていました。

私は、蘇生術を終え、救急隊に患者さんをまかせた後、立ち上がろうとしましたが、足に力が入らず、立ち上がって歩くことができなくなりました。そうこうしていると、目の前がだんだん暗くなっていくのに気が付きました。立つことも歩くこともできないので、近くの人に、
「救急車を呼んでください」
と言い、その後、私は、救急隊の担架に乗せられて、救急搬送されることになりました。
幸い何とか意識があったので、私は救急隊の人に、
「国立がんセンター中央病院に運んでください」
と言いました。本来なら、このような状況でしたら、総合病院である八丁堀駅から最も近隣である聖路加病院に搬送されるのが良いとは思います。しかし、当時、私の周りでも何人もの人たちが、救急車に乗せられている状況であり、聖路加病院はパニックになっている状況であることが簡単に想像できましたので、あえて、私は、自分の勤務先である国立がんセンターへの搬送をお願いしました。

実際、聖路加病院は大変なことになっており、数百人が入院。入院できる場所がなくて、礼拝堂にもベッドをつくったといいます。国立がんセンター中央病院でも私を含めて、約40名が入院しました。普段は、がん以外の患者さんが入院するなどはあり得ないことですが、緊急事態ですから、しょうがありません。

私の症状としては、目が見えにくい(全体が暗い)と、手足のしびれ、吐き気がありました。幸いにして、呼吸がしにくいとか、意識が薄れるとかの症状はありませんでした。サリン中毒としては、軽症の部類には入るかと思いますが、国立がんセンター中央病院に入院した中では、2番目に重症でした。コリンエステラーゼ(ChE)の値で重症度がわかりますが、私のコリンエステラーゼの値は、40IU/Lしかありませんでした(参考正常値234-493IU/L)。サリンは、神経毒ですから、アセチルコリンをブロックして、呼吸筋を麻痺させ、死に至らしめるという毒物です。国立がんセンター中央病院で最も重症なかたは、ICU(集中治療室)に入院されました。
私は、八丁堀駅に倒れていた患者さんの心肺蘇生をしている最中に患者さんのからだや、衣服についていたサリンを吸ったことによる中毒症状だったのですが、それでも、コリンエステラーゼが40IU/Lであったということは、サリンがどれだけ猛毒かということがわかると思います。
林泰男(死刑囚)がサリンをまいた列車は、築地駅に止まったことから、私が乗っていた列車の一本前だったことがわかりました。私が介抱した患者さんは、林死刑囚がサリンをまいた列車に乗っていて、八丁堀で降りたところ、駅の構内で倒れてしまったのだと思います。私もちょっとの差で、サリン電車に乗っていたら、今頃はこのようにしていられなかったと思います。

入院当初は、サリンが原因とはわかりませんでしたので、全身浴やら、強制利尿やらをされました。午後になり、サリンが原因とわかり、硫酸アトロピンの持続点滴が始まりました。唯一の解毒剤とされるのは、PAM(解毒剤であるプラリドキシムヨウ化メチル)ですが、主に聖路加病院や都立墨東病院に入院した患者さんに使われたそうで、私にまでまわってきませんでした。
警察のかたが来られて、着ていた衣服から、かばん、めがねまで全て調査のためにと、没収となりました。その際に、かばんの中に、マッキントッシュのコンピュータが入っていましたが、それだけは私が、「どうしても持って行かないでほしい」と懇願したので、没収を免れました。当時、私はマッキントッシュが大好きで、一日たりとも離すことがなかったからです。
この日、妻は生後8ヶ月の長男と実家に帰省しており、知らせを受けて、病院に向かったのですが、東京じゅうがパニック状態で、電車はすべてストップ。タクシーで江東区から築地に向かったのですが、交通規制だらけで、タクシーもなかなか動けず、かなりの時間をかけて、やっと病院にたどりついたとのことでした。  

私は、当時の国立がんセンター中央病院の10階病棟の個室に入院しました。昼間は、警察のかたがたやら、地下鉄の人やら、院長先生やら、お見舞いの人やら、たくさんの人が面会に来て、にぎやかだったのですが、夜になると一人ぼっちになりました。妻も幼子がいるため、夕方には家に帰りました。
サリンと聞いても、当時は、その9ヶ月前くらいに松本サリン事件が起きましたが、事件の真相もわかっておらず、医学的な知識はまったくありませんでした。有機リンに似た毒ガスの一種くらいの情報しかなく、全貌は明らかではありませんでした。
あまりに急なことでもありましたから、妻には、「もしものことがあったら、息子を頼むな」としか言えませんでした。

夜になり、一人になると、得体の知れない恐怖が襲ってきました。
もう自分は明日には死ぬかもしれない
まだ、自分は31歳なのにもう死ぬのか
なぜ自分だけがこんな目にあわなければいけないのか
死んだらどうなるのか
体が消滅しても魂は本当に残るのか

真っ暗な天井を眺めていたら、本当に恐くなりました。このまま自分の体が消滅してしまうことが恐怖でした。
その日はほとんど眠れませんでした。
夜には、看護師さんが定期的に巡回してきてくださるのですが、それが本当に癒しを与えてくれました。
「どうですか?」
という単純な言葉ですが、この優しく語りかけてくれる言葉に、患者さんは本当に癒やされるのだということを知りました。
看護師さんが、血圧を測り、検温をし、出て行こうとするときに、「もっとずっといてほしい」と思いました。

私は、がんの診療医であり、私が入院した同じ部屋で患者さんを何人も見送ってきました。
この部屋に入院した患者さんも、自分と同じような思いをしているのだとしたら、がん患者さんたちは、もっと長い間入院して、毎日この恐怖と闘っているのだと思ったら、涙が出てきました。

自分は、病気と闘う患者さんたちの心を少しでも理解しようとしてきたのか?
明日をも知れないがん患者さんの気持ちに少しでも寄り添おうとする気持ちはあったのか?
自分は、その患者さんたちを少しでも癒すことができたのだろうか?

私は、クリスチャンであり、神様を信じてはいましたが、
神様に祈りました。
『神様、この災いからお救いください。もし、この災いが不治であるものなら、受け入れる勇気をください』と。

幸い、私のサリンの急性毒性は1週間ほどで改善し、復帰することができました。後遺症やPTSDなどもなく、今日まで過ごさせていただいています。

短期間の入院ではありましたが、色々なことを学びました。自分が普通に生きていることも奇跡的なことです。一時は死を覚悟しましたが、今は、生きている、というより、生かされていることに感謝をしています。
そして、サリンの被害者とはなりましたが、入院することで、患者さんの思いを少しでも理解するきっかけとなったことは自分にとって、大変良かったことと思っています。
 
 サリン被害に会ったことも人生の一大事でありますが
 がん患者さんにとっても同じで、がんになることは人生の一大事です。
ヒポクラテスの言葉のように、我々医療者は、単に治療をする者ではなく、いつも患者さんを支え、慰めることのできる存在でありたいと思っています。