母を亡くして二ケ月。

このブログを書く為の灯火を失った。

 

辛く苦しい思いをさせてしまったという思いは消えない。

 

四十九日が過ぎ、母の身の回りの物を少しずつ片付けている。

悲しみと共に、愛しみながら整理をしている。

それ以外、自分のことには手が付けられない。

心では泣いていても目から涙は流れない。

 

それでも、今の自分を支えてくれる言葉を探している。

 

若松英輔氏の著作に出会った。

 

 死別は悲しく、耐え難い。だが、別れを経験し、涙が涸れるほどに悲しまなくてはならないほどに人を思う人生がどうして虚しいはずがあるだろう。死者はどこにも過ぎ去らない。いつも私たちの傍らにいる。死者にとって、生者を守護することは、比すべきものなき誇り高い使命である。深い悲しみに涸れ果てた不可視な涙は、寄り添う死者たちへのもっとも高貴な捧げものである。 

(涙のしずくに洗われて咲きいづるもの より)

 

 

 人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているのかもしれない。単に、悲しみを忌む(いまわしむ)ものとしか見ない者は、それを背負って歩く者に勇者の魂が宿っていることにも気がつくまい。

(悲しみの秘儀 より)

 

批評家である若松氏の文章は、私にとって難解な箇所も多い。

それでも、私の傷ついた魂に直接流れ込こむ言霊がちりばめられていると感じる。

 

 誰かの言葉であっても書き写すことによってそれらは、表現しようとする意図から離れ、純化されたまま引かれた言葉は、かえってその人の心にあるものを、はっきりと照らし出すことがある。

引用は、人生の裏打ちがあるとき、高貴なる沈黙の創造になる。そこに刻まれた言葉は、人がこの世に残しえる、もっとも美しいものにすらなり得る。

(悲しみの秘儀 より)

 

悲しみで鈍化したと思っていた自分の感情だが、若松氏の言葉が私の心にあるものを照らし出してくれる。

 

しばらくは、若松氏の言葉を書き写しながら

私が撮りだめた写真を添えて

母に捧げていきたい。