中学1年生の時の担任の先生は

本当に良くしてくれました。


入学式後、すぐ家庭訪問をしてくれたり、

緘黙症について本を読んだり、ネットで調べて

詳しく知ろうとしてくれました。


次女は中学入学前には

「部活何にしようかな〜?」とか

「誰と一緒のクラスになるかな?」とか

「髪の毛はくくらんとあかんのかな?」など

ワクワクしている感じでした。






でも現実は違ったようです。

次女の通う中学校は、次女の母校である小学校と

あと他の2校から集まってきます。

当然同じクラスになった中には

全く知らない子もいます。


そんな状況にすぐに順応できませんでした。


新しいクラスになれば自己紹介があります。

先生に相談して、喋れない次女は名前や趣味や

頑張りたいことを紙に書いて、友達に代弁してもらいました。


その頃私は、胃がんを患い自宅で緩和ケアすることになった実父のために、二週間ほど実家に帰る必要がありました。

入学式を終え、土日を挟み、月曜から通学です。

「いってらっしゃい!」

次女の後ろ姿を見送り、そのまま実家に向かいました。


今思えば、新しい環境で不安な中、側に居てあげられなかったことが悔やまれます。


そして桜が咲き誇る4月某日、日曜日だったので

遊びに来ていた長女と次女、そして私の目の前で

父は息を引き取りました。

それまでは相当苦しみました。

人の最期というのは、こんなにも壮絶なものなのか。

その場から逃げ出したいと思ったこともありました。

でも闘っている父のためにも、逃げるわけには

いかなかった。


人の命の尊さを身をもって教えてくれました。


私の介護生活も終わりを迎え、通常の生活に戻りました。

私が帰ったことで甘えが出たのか?

その頃から次女の行き渋りが始まりました。


でも、試験の前には勉強をし、

中学生になって初めての一大イベントである

ホームルーム合宿も、ワクワクした様子で

用意をしていました。


そして、5月下旬のホームルーム合宿を終え

しばらくして全く行けなくなりました。


布団を引っ剥がし、ノロノロといつまでも着替えない様子に腹を立てて、首根っこを掴んで

玄関の外へ放り出したこともあります。

しばらくして玄関の外を覗くと、

うずくまってシクシク泣いている次女が。


またある日は

「お腹が痛い」と言ってトイレへ。

4時間出てきませんでした。


そんな次女に私は、絶対に言ってはいけない

言葉を浴びせ続けました。


真新しい制服も体操服も、全部ゴミ袋に入れて

捨てようとしたこともあります。





毎朝こんなやり取りが続いて

お互いを傷つける事しかできなかった。


学校に行くのが当たり前。

学校に行けないなんて恥ずかしい。

何で普通の子と違うの?

うちの子に限って…

◯まなれば良かった。

私の育て方が悪かった。


そんな思いでいっぱいでした。


周りからも

「甘やかしすぎなんちゃう?」

「引っ張ってでも学校連れて行かなアカンよ」

「怠けてるだけやねん」

などなど、いろいろ言われました。



「もう学校に行かなくていいよ」



この一言がなかなか言えなかった。

これを言ってしまったら、次女は絶対に

学校に行かなくなる。

でも、これ以上お互い傷つけ合って、

ボロボロになってまで学校に行かさないとアカンの?


とことん話し合いました。

イジメはないけど、何で喋られへんの?と

聞かれたり、授業やその他で発言しないと

いけないことが小学校の頃より増えて辛いとか、

休み時間にトイレに行きたいけど、廊下を塞いでいる子たちに声をかけられないとか、

緘黙症ならではの苦労が多いと。


普通に話せる子にとってはなんでもないことが、

次女には本当に大変で、毎日が戦場のようで

独りで闘わないといけない。

それでもそれが経験となり、

いずれは社会に出た時の糧となる。


でも私は、次女の心を守りたかった。

毎日我慢して頑張って行ったとしても、

いつかその心がプツンと切れてしまうのでないか。

学校に行かないという選択肢もあるんではないか。


ようやく私は

「もう学校に行かなくていいよ」

と言うことができました。