「紙の上に書かれた思想は、道を歩いた人が砂の上に残した足跡に過ぎません。その人が辿った道を知ることはできます。しかし、その人が途上で何を見たかを知るには、自分の目と足を用いなければなりません」


 上記の言葉は、『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)の作者で知られるドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーの言葉ですが、個人的に、今の学生さんにまさにこのことを考えてほしいと思います。 


 今はネットが当たり前にあり、学校では答えの付いた夏休みの宿題が渡され、学ぶ機会は塾となりながらも、塾では受験だけの勉強でしかなく、そのことから過程(プロセス)を嫌い、結果(アンサー)のみになっている下の世代を見ていると、その場の勢いに身を任せたり、衝動的な行動が目立つだけに、短絡的な思考回路に駆られやすくなっていると、強く感じます。


 そんな中、少し前に哲学科のいつもの学生さんから、「アポリアが成立する内容ではありますが、児童心理をされている先生にお尋ねしたいことがあり、連絡してます」という連絡を受け、学生さんから質問を聴くと、「人間の『欲求』と人間の『悪意』とは、どちらが罪の比重が重いと思いますか?もしくは感じますか?」という質問を投げかけられ、4時間ばかし、彼女と議論/討論をしました。


 掻い摘んで要約すると、彼女の主訴としては、「モノに溢れた現代社会において、善意、それさえも悪と成り果て、そこには己が欲求が潜み、それゆえに自己活動をSNSに載せ、周囲に認知させることへの意識の比重ばかりが重く乗り、真(まこと)としての本質から実在へと自らを堕落させてしまっていると、感じる反面、『欲求』=『悪意』ないしは、『悪意』≒『欲求』という単純なことでは人の心理的な面は測れないと感じているので、臨床がお好きな先生なら、どう答えてくれるか興味があった」という感じです。 


 なんというのか、患者さんからの相談において、カルト(新興宗教)やネットワークビジネス等への勧誘、SNSからの知らぬ間の犯罪関与/恐喝なども増えていると感じ、そのことから、社会には『悪意』というモノがそこら中に散らばっていて、成功者という人の講演などを真に受け、沈思黙考することもなく短絡的な行動で、取り返しのつかないところまで追い詰められ、人を傷付けたり、精神的疲労/身体的疲労を抱えてしまう人もいる中、SNS等の情報から、自分もそうなりたいという『欲求』が、強く働いている分、『欲求』と『悪意』、どちらが罪深いかの判断は難しいですね。


しかし、それだけに今、ショーペンハウアーの言葉が生きるのではないかと感じる今日この頃。


 まぁ、砂の上の足跡も風や波にさらわれ、自然に風化してゆくのだけれどね…。