昨日も真夜中の相談窓口には多数の方から相談/悩みが寄せられ、その対応をしている中、一人の歴史が好きな方と、夜中の2時くらいまで伊藤左千夫や正岡子規など、短歌について話をしながら、当時の文学と、今の文学との比較などについて、お話に花が咲きました。

私は大学時、心理の資格の他に、学芸員の資格を取り、専門がまさに文学であったため、実に彼との話しが楽しくて仕方ありませんでしたよ。

先生は造詣が深い方だと、お褒め頂きましたしね(笑)

なんと言いましょう、和歌や短歌は、心情や情景がダイレクトに来るものもあれば、奥ゆかしさなどもあって、そこに切なさや美しさを感じられて良いんですよね。

学生時分は、万葉集など、読み漁ったものです。

しかし、昨日の男性と話をしていて、共に残念に思っていることがありましてね。

昨日の男性は、塾の講師をされている方で、児童たちをよく見ていると自負されている分、「今の生徒さんを見ていて嫌になるのは、本来の感受性ではなく、歪んだ意味での感受性ばかりが働き、結局は人の気持ちが汲み取れない自己中心的な人を多くさせている。その原因は、今の教育であり、参考書や問題集を見ていると、大事な要素が抜けていると感じ、その分、今の文学や若い子らの流行りを見ても、直接的な言い回しや表現でしか理解できないようにさせられ、ドラマなども思考力を働かす必要がないものしか作らない」と、彼の意見を要約すると、こう嘆かれていたのです。

確かに、今の教育は受験がメインであり、受かるための勉強ですし、コロナ禍により、遅れや差が生まれた分、人間の感受性というのは、本来の意味をなしておらず、どちらかと言えば、マイナス面のイメージを持たれる方もいるほど、時代の変化を感じますから、先生がそうお感じになられるのは無理もないかもしれませんね。

ただ、1つ先生と違う点があるのは、その場の空気を読むことに全集中しているから、思考を働かす必要のないものを求めるようになったのではないかと思うわけで、直接的な言い回しや表現するのは、ある意味、頭を休めるための自己防衛からではないかと思え、つまるところ、現代人は他者との接触する機会が極端に減った分、人類学的な観点から見ても、防衛本能から他者に対する意識が強く働き、落ち着かず、疲労感を感じやすくなっているように思えるのですよ。

しかし、私としてはですね、その場の空気を読むことに全集中しているくらいに、仲間内における距離感等を意識し、他者の気持ちが汲み取れないと嘆くなら、まずは『絵(挿絵等)がないから登場人物が想像できない』、『作者を知らないから読む気にならない』、『本を朗読するアプリがあるからわざわざ読む必要ない』などの理由から本を読む習慣を無くすのではなく、文学に登場する人物の心情や、情景等が浮かぶ和歌や短歌を読み、それらから想像力を養い、人の気持ちが汲み取れる人になれるように訓練すればいいんじゃないかな、と思えるわけですよ。

ただ、今の人は、欲しい情報がすぐに手に入る分、結果しか見れず、努力(プロセス/経過)を嫌う傾向にあるから、本を読む時間=集中力が低下し、無の時間というものに対しても、変に周りを意識し、焦燥感を抱く傾向にあるため、現代人というのは、情緒が欠如し、文字通り、情緒不安定な方が非常に多くなっていると感じる今日この頃。