Pのブログ

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憎しみによって批判しすぎれば、それだけ、失敗が怖くなり試行錯誤が怖くなり、努力が怖くなります。
批判が妥当かどうかという、善悪に関係なくそれは起こります。
反面教師に出来れば、恐怖はつのらないかもしれませんが、慢心の危険は高まるかも知れない。

ある一定の域までは善悪に関係なく、
「自らの常々考えている事」が現実化する。
それが心の力のキモなんだと思います。
憎しみによって批判しない事は、自らの成功の為でもあるのではないでしょうか。


本当に失敗するまで、追い込まれるまで、他人を害さない限り、周囲を気にせず何でもやってみれば良かった。
不満があるなら、現実の場でそれを相手にぶつけてみれば良かった。
それを出来ないのが、足る事を知る事や忍耐を美徳とする、宗教的性格の人間なのかも知れないですが…。
本当は、他人の評価に囚われていて、表面的な対立が怖かったのかも?それは、本当の足る事でも忍耐でも無いのは確かですね。

極端無くして中道無し。
ですが、極端かも知れない自分をさらす相手はすり替えられた相手でなく、自分を認めなかった親や自分を傷つけた本人、が望ましいはずだと思います。

生き方が違うので一緒にはやれないが、あの生き方も有りかも知れない、
と思わせるまで自分を貫いた事もなく、
他人に関係なく、自分が建設的だと信じる事を貫く人を評価した事も、また無かった様に思います。



私は、理性的というか知識的にしか反省しようとしてこなかったので、結局

「理想を描けない人の反省は、自己卑下になる」
というワナにはまり、
心を変えようと焦っても、行動さえ変えられないまま、
いつしか、後悔の念も忘れて同じ失敗を繰り返し、
気が付いた時には慢心そのものになっている自分に、
愕然としたりあきらめたりという事を
やはり繰り返してきたようです。


まず宗教的な知識が、反省には絶対必用なのですが、
次に、代案・返し技としての理想を腑に落とすには、まずはそれを具体的に言葉にして、何度も紙に書いたり見返したり、
自分に言い聞かせる事が、必用だったのでしょう。


最近、引き寄せの法則などでも、
失敗しないようにする、愚かでなくなる、という目標設定は本質的でない。
潜在意識になんら具体的な目的を与えないのみでなく、失敗を引き寄せさえする。
成功するように、賢くなるように目標設定するのが本質的だ、と言われてはいますね。

反省とは悩む事、自分をいじめることと理解しているのは、
因果律を体感していないか、苦しめば悟れると思っている一種の貪欲か、苦しまなければ自分が許せないという自我力、だったのかも知れません。


人間が神の子であるとするなら
「あれしちゃ駄目これしちゃ駄目」
「ここで無責任だった」
「あそこで人を傷付けた」
「傷付けた相手を許せない。自分は絶対悪くない」
だけでは、本質的な力は湧いてこない。
その上、失敗とは逆の行動や逆の思い、神の子として振る舞う勇気も湧かないならば、
自分が神の子だと信じられるまで、
自分を説得しましょうか。

その自分の説得の仕方には、宗教的(少なくとも心理学的)な知識はどうしても必用ですよね。アドラーとか。

客観的にどの様な思いと行動が間違っており、逆の思いと行動とは何なのか?
何が真に理想的なのか?

そして
愛が無いと思って、それが湧いてこないなら責任ある者になろう、感謝出来る者になろう、という、
自分を段階的に説得出来る知識は、どうしても必用でしょう。

(霊的で無い?タイプ、原理主義的?なタイプが、心をコントロールする理想を持ち続けられないのは、
適度な距離、鼻先に人参をぶら下げる距離に、具体的理想を設定出来ないから、
というのがひとつの理由だろうと思いました)


その次に
心を変えたければ(変えられないならば)
行動を変えよう。
行動を変えたければ(変えられないならば)、
自他に語りかける、言葉を変えよう。
という事でしょうか?

心が変えられないと言っては、反省に挫折し
行動を変えられないと言っては、また挫折し
しかし、常々、自分の意識にインプットする言葉には、無自覚だったんですね。
(流行りの言い方をするならば、マインドセットの技術という事でしょうか)

やや自分の心境と解離があっても、定型化した祈りの言葉は長期的には効果がありますね。やはり暗記しておくべきなんでしょう。
漢訳のお経であれば、意味を理解していればこそマインドセットの効果がある、ということになりますね。

悲観的・性悪的・破壊的なことを考えてしまったら「ナンチャッテ」とつぶやくと良いとか、
「どうせ/所詮」などの言葉が出たら
「ワタシハアイサレテルシ」「アイツモアイサレテルシ」「ジブンハツイテルシ」など、
心と言葉の解離を埋めつつ、楽観的・性善的・建設的な方向に導くことを、勧めている方もおられますね。


なぜ、こんな簡単なことに気づかなかったのか?と不思議な気持ちにもなりますが。
結局、自分の境涯がどの程度のものか分かるまで(正見?)
そんな単純な事にすら、本気で取り組めなかったのでしょう。(正信?)

本気で、
理想を描こうとしなかったから、反省出来ないんだろうというのが
今のところの結論ですね。


「自己犠牲的でもなく他人も害さない、しかも自らの可能性も限定しない、そんな理想を描かなければ」
などと、目標を吟味する事だけで疲れてしまうのは、
因果律や心の力を体感する為の、肩の力を抜いた試行錯誤 自体を、難しいものと感じさせる部分もありますね。

もし自分が無力感や恐怖心、罪の意識や恨み心にさいなまれ、溺れていると自覚したなら、
多少、お気楽だったり自分に都合よかったり、無責任だったりお花畑だったり、即物的だったり上っすべりだったり、したとしても
「自分や他人、世界を良いものと信じられる」ような
マインドセットによって、早急に浮かび上がる事も必用なんでしょう。
(短期的には躁鬱にもなりそうですが)

別に、お題目を唱えれば救われると言いたいのではなく、
反省が、善意の第三者・神仏の如き良心による、失敗の分析(とその対策)であるとするなら、
恐怖心と渇愛(その派生である無力感・罪の意識・恨み心、貪嗔癡慢疑)
に囚われていたら、反省は無理でしょう。

恐怖と渇愛が、生物としては当たり前の反応だと受け入れ、それは戦うべき相手でなく、生命力・生かしめる力の別名だと、感謝出来れば良いのかも知れません。
そうなれば、善意の第三者召還の準備OK(笑)ということなのかも。
それが、認知の歪みの快復につながる様に思われます。


さっき急に思い出しましたが、自分に必用な考え方を必死で書籍から書き抜き、何ヵ月も練ってシンプルな言葉に纏め、
かなり網羅的に仕上げたメモを、親父に捨てられたことがww
ある種の人にとって、心理掘り下げた文が気味悪いというww
親不孝の代償けっこう払ってるなww
だからこそ、それが大切だったんだろ俺バカww










自らを振り返ってみるに
自分に対しても
他人に対しても
口にせずとも
いつまでも、批判ばかりしていて代案を示していませんでした。
代案を自ら体現すれば
それは、無言での批判となる。近親憎悪からも嫉妬心からも自由になる。
それで、先ずは充分なのでしょう。


自他に反省を促す積もりなら
いつまでも、地獄に落ちるなどと繰り返すのは無意味なんでしょう。

それは、自己卑下に落ちてしまう方を段階的に導くことが出来ず、
「あなたが悪いのだから反省しなさい」とのたまって
「これだから宗教は」
と反発されるのと、同種の態度 行動なのだと思います。

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