日いずる処の天子!仏教公伝の地、大和川 | 春の兆し

日いずる処の天子!仏教公伝の地、大和川

奈良県桜井市に大神(おおみわ)神社がある。
神が神を祀ると言う日本最古の神社だ。
第10代 崇神(すじん)天皇が大物主大神(大国主命の和魂(にぎたま)だと言われる)を祀っている。
三輪山の麓に大神(おおみわ)神社があり、ここを山辺の道が通って直ぐ横を流れる大和川に突き当たる。
この辺りは崇神(すじん)天皇の政庁、磯城瑞籬宮(しきみずかきのみや)と呼ばれる地だ。
ここが西暦538年あるいは556年とも言われる仏教公伝の地だ。
大和川にその顕彰碑がある。
さらには、第21代 雄略天皇の時代(西暦470年頃)には海石榴市(つばいち)と呼ばれる市が開かれた所でもあると言う。初瀬とも呼ばれる繁華な場所だった。

ここには、聖徳太子が開いたと言う平等寺もある。

西暦593年 聖徳太子が第33代 推古天皇(女帝)の摂政となる。

この場所で、聖徳太子の派遣した遣隋使(西暦600年)の歴史が刻まれた!

↓Wikipediaより↓
この派遣第一回 開皇20年(600年)は、『日本書紀』に記載はないが、東アジア諸国では末尾の遣使だった[2]。『隋書』「東夷傳俀國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。

俀王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、より垂下した(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミ又はアメキミで、大王又は天王とされる。『新唐書』では、用明天皇(在位585年-587年)が多利思比孤であるとしているが合わない[4]。開皇20年は、推古天皇8年にあたる。この大王が誰かについては、推古天皇厩戸王蘇我馬子など意見が分かれている[5]

この時派遣された使者に対し、高祖は所司(役人)を通じて俀國の風俗を尋ねさせた。使者は俀王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」で、「天をもって兄とし、日をもって弟とする。いまだ夜が明ける前に出て跏趺して政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる」と述べている。ところが、高祖からみると、俀國の政治のあり方が道理に外れたものだと納得できず、改めるよう訓令したというのである。

これが国辱的な出来事だとして、日本書紀から隋使の事実そのものが、除外されたという。だが、その後603年(推古11年)冠位十二階や、604年十七条憲法の制定など隋風の政治改革が行われ、603年小墾田宮も外交使節の歓待を意識して新造されて、次の遣隋使派遣がされる[5]



↓Web検索より↓シンゴさんより↓
シンゴさんのプロフィール写真

正確には「日出ずるところの国」と書かれた中国の歴史書「隋書」からの言葉が由来で、
現代の「日出ずる国」は天照大御神から始まる太陽信仰から生まれた天皇を中心とした国のための国威発揚を促した言葉であり、日本に友好的な海外の人なども、日本の国のことをそれに習って訳された「Land of the Rising Sun」などが重なって、世界的に認知された日本に対する「敬称」ですね。

「日出ずるところの国」と言うのは、いうまでもなく学校で習った内容で、「遣隋使」である「小野妹子」が国書を携えていましたその内容からです。その後「隋」との外交のなかで、「天皇」という言葉を初めて使用し、その言葉を定着させ、後の中国「唐」の時代より、それまで日本のことを指していた「倭国」から「日本」へと国の名称が変わっていきました。
それは今日の日本の国の在り方の礎を築いたきっかけとなる存在価値の高い
聖徳太子による(※現在は学校の歴史教科書には聖徳太子ではなく、いままでは「聖徳太子」と書かれていたのが、最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子): 山川出版社の『詳説日本史B』より」とカッコつきの表記に変わってきています。)文書だから、今日まで日本国民に受け入れられ、受け継がれた影響によって「日出ずる国」と、より日本の国のアイデンティティを強めた言葉が派生したのだと私は考えます。では、その文書を詳細に語りましょう。

画像の赤線のところを読んで漢文の読み方から現代訳してみます。
まず漢文の読み方です。
【大業3年、其王多利思比孤遣使朝貢(そのおう たりしひこ つかいをつかわしてちょうこうす)。使者曰(いわく)、聞海西の菩薩天子重興佛法(かいせいのぼさつてんし かさねてぶっきょうをおこすときく)。故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法(ゆえにつかわしてちょうはいせしめて かねてしゃもんすうじゅうにんきたりて ぶっぽうをまなぶ)と。其國書曰(そのこくしょにいわく) 日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずるところのてんし 書を 日を没するところのてんしにいたす つつがなきやいなや)】
次に現代訳です。
「大業三年(607)、その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢したようである。使者は『海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ばせるために来ました。』と言ったそうだ。その国書にはこんなことが書かれていた。『日が昇るところの天子が、書を日の沈むところの天子に届けに来ました。病気せず日々元気に送ってますか。云々』

現代訳を補足しますと…
・ 最初の開皇二十年(600)の遣使は、隋の始祖、楊堅(文帝)の時代でした。この大業三年(607)は二代目、煬帝の三年目でありまして、歴史上では二回目の遣隋使派遣です。中国を統一した強大な国である「隋」に対して、日本に朝貢を強いてくる前に対等な関係を築いた上で、日本としてまた日本から影響を及ぼしている「百済」を主とした朝鮮の国の保護を目的に、隋の国の動きを見据え先手を打った外交ではないかと私は見ています。

・「隋書」に書かれている其王多利思比孤なる「その王タリシヒコ」は謎の人物で男性と記されているところから、以前の解釈では、当時の推古天皇を指して言ったとする説でしたが、推古天皇は日本史に出てくる初めての女性天皇であることと矛盾するので、最近では聖徳太子を指すとした説、推古天皇より先代の男性天皇を指す説、同時代に存在した九州の王朝から隋の国へ使者を派遣した九州の男性の王を指す説などいろいろありますが、私は聖徳太子説を支持します。でも私の独創的な聖徳太子像を起点にしています。それは後ほど説明いたします。

・日出處天子致書日沒處天子
「日出ずるところの天子 書を 日を没するところの天子にいたす 」
この文章内容から、隋の煬帝は激怒したと「隋書」に書いてありますが、その後の煬帝の態度と外交指示からみますと、歴史書における態度とは違い、本当は日本の国書の文書全体の内容を読んでから、激怒はせず煬帝は日本に対して大いに興味関心を持ったのではないかと思うのです。では何故煬帝がそんな態度をしたというエピソードになったかといえば、理由は二つ考えられ、
一つは、中国史上における煬帝は、「暴君」と評され、暴君らしい態度にしたためられたためか、
もう一つは、当時強大な隋の皇帝が、格下の日本に説き伏せられるのは、中国にとって恥ずかしいことだから、歴史書は皇帝の権威を示す態度の内容に色づけしたか
などの可能性が考えられます。
よく、歴史解説では、皇帝を意味する天子はこの世で一人しか存在しない中華思想、中国史観で、日本がそれを名乗ったからだということなのですが、隋が他の国(突厥)との外交のやりとりのなかでも、相手の国が天子と名乗っていたらしく、それを気にする様子もなかったことから
(*注)、私はやはり都合合わせに意図的に歴史を塗り替えているのではないかと考えます。

・無恙(つつがなきや)
恙 ( つつが ) とは、本来病気や災難を意味する言葉ですが、その言葉の由来が興味深いです。一説によれば  ツツガムシ に由来する説もあります。


↓歴史人より↓

日本古代史の謎と「空白の4世紀」に挑む! 古墳、大和王権、聖徳太子……etc. 歴史学びと楽しさのススメ

歴史人

日本古代史の謎と「空白の4世紀」に挑む! 古墳、大和王権、聖徳太子……etc. 歴史学びと楽しさのススメ
写真・図表:歴史人

連載100回目を機に古代歴史についての考察を振り返りつつ、どのように歴史の世界を楽しむのか? についてお話ししておきます。私の場合は最新の研究による状況証拠や物的証拠も取り入れ、古代人と現代人に共通する基本感情の機微を大切にして考察推理し、合理性を以って「人間的に理解する」というのが基本です。皆さんに問題を提起しますので一緒に考えてみませんか?

■定型化された前方後円墳の普及と大和王権の広がりに対する素朴な疑問

 大和王権が急速に広がる「空白の4世紀」と呼ばれる約150年間にどんなことがあったのかを理解するには、前方後円墳の広がりと、きめ細かい調査報告をヒントにして推理するのが有効でしょう。

 古墳の築造年代や編年を知るのは出土数の多い円筒埴輪が便利ですし、もちろん副葬品の研究と各地の伝承を参考にしますが、墓誌や金石文(きんせきぶん)などが出土すれば大きなヒントになります。

 弥生時代の墓は地方や時代によって様々な特徴を見せるものですが、ほぼ全国に広がる前方後円墳という特殊な墳形は定型化されているという不思議な状況を示します。約400年に及ぶ前方後円墳築造の期間、基本の形は変わりません。同時に築造される陪冢(ばいちょう)は、円墳・方墳・小型の前方後円墳などと墳形も大きさもバラエティに富むので、主墳と陪冢の関係からは、被葬者の地位や政治体制、埋葬習慣、さらには当時の階級制度や精神世界までが見えてきます。

 前方後円墳型に込められた死生観や思想もまだ解明されていませんので、そこはさまざまな推理や想像を逞しくして研究するべきなのでしょう。

 わが国創造の礎となった3世紀後半から5世紀はじめの150年間を謎のままにせず、真摯な研究をするためにも宮内庁の姿勢を改めてもらう必要がありますが、皆さんも自由に推理をしてください。

■聖徳太子の十七条憲法・冠位十二階と遣隋使の関係

 『日本書紀』にも『古事記』にも一切の記述が無い第1回遣隋使の記録が『隋書』に残されています。それは西暦600年のことで、倭国の使者が大国「隋」と国交を結ぶために海を越えて訪れています。しかし当時の最先進国である隋は、倭国が官僚制度も法律も無い旧態依然とした未開の地であると断定し追い返すのです。

 年表を見ると、587年に蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)の建立を発願しています。また四天王寺は593年の創建と伝わっています。先進国の証である大寺院を建立し得たことで、大和は勇んで遣隋使を派遣しますが、国家の根本を整備できていなかったために、600年の国交樹立に大失敗を喫するのです。

 年表に戻ると、603年に「冠位十二階」、その翌年に「十七条憲法」が定められ、607年に小野妹子を正使とした遣隋使を派遣しています。『隋書』に従えば2度目の遣隋使となります。607年には法隆寺も完工していたとされていますので、本格的大寺院が次々に創建されているわけです。

 隋に追い返されて大失敗した国交樹立をリベンジしようとした聖徳太子は、着工していた大寺院の充実や完成を急がせて、十二段階の官僚制度を創り、法治国家の体裁を整えるために仏教思想を深く織り込んだ十七条の規定法を創ったのでしょう。

 隋国答礼使の裴世清(はいせいせい)が飛鳥の都に到着するルートを見てみましょう。長い旅を続けてきた船が入港する大阪湾に到着するころ裴世清たちの目に映ったのは、上町台地という小高い丘の上に、南北に長く大伽藍と五重塔の甍を輝かせた四天王寺だったでしょう。

 古墳時代には巨大な大王墓を海岸付近に築造してその権威を見せつけていましたが、この時代には大寺院がその役割を担います。裴世清一行は野蛮な国に世界の秩序を教育しようとしてやって来たにもかかわらず、その雄大さと文化の高さに驚いたことでしょう。

 難波津(なにわづ)に上陸すると、迎賓館で大歓迎の儀式と宴が何日も続きます。そして大和川を遡って法隆寺を左手に見ます。その後、上陸して山田寺方面の高台を60頭もの飾り馬に揺られて、広大な方形の法興寺を見下ろします。ますます倭国の文化の高さを実感したでしょう。大歓迎の式典の後、引っ越ししたばかりの推古天皇の新築宮殿である小懇田宮(おはりだのみや)に案内されたようです。

 私には「これでもか!」というほど隋国の正使一行に倭国の文化度の高さを見せつける演出力のすごさを感じます。そして世界情勢の後押しもあり、隋と対等の国交を開くことに成功したのだと思います。

 蘇我氏の皇子である聖徳太子らの推古政権は、馬子ルートの豊富な海外情報を手にしていたことが分かりますし、その抜かりの無い万全の準備を感じます。

 聖徳太子という人はどんな人だったのでしょう?また、当時の仏教文化とはどれほど文化の高さを示すものだったのでしょうか?

■白村江の大敗と藤原鎌足の正体

 蘇我氏本宗家を瞬時に滅ぼして政権を奪取した中大兄皇子と中臣鎌子(藤原鎌足)は、「大化の改新」を実行したといわれていますが、それほど本気で改革していたのかというと、私にはその気配はあまり感じられません。むしろ当時の最先端の文化を内包した仏教を積極的に取り入れ、朝鮮三国を飛び越えて隋国と直接国交を開いた蘇我政権の方が近代化の熱意を強く感じさせます。

 つまり中大兄皇子(天智天皇)を旗頭にした藤原鎌足主導のグループが政権を奪取した目的が、滅亡に瀕した百済の救援だったとしか私には思えないのです。

 まるで百済の復興に大和軍を動員することに最大の目的があったのではないかとさえ思えます。そして白村江まで出撃した大和軍は全滅しますが、鎌足は都を近江に遷して最高位の大織冠(たいしょくかん)をかぶり、藤原の姓を受けて死んでいきます。

 鎌子・鎌足というのは本名でしょうか?もしかすると彼には百済の名があったのではなかったでしょうか?

蘇我本宗家を瞬時に滅ぼした板蓋宮(いたぶきのみや)と甘樫丘(あまかしのおか)を舞台にした乙巳の変(いっしのへん)が実行される頃、蘇我氏先代の大臣馬子が大勢の百済遺民を明日香に受け入れて住まわせていましたので、その集団は相当な人数と勢力になっていたと思われます。その中でも特に過激派の一団が、血筋に申し分のない中大兄皇子を旗頭にクーデターを断行したのではなかったかと、私は考えています。そう考えると、近江朝廷の実態や壬申の乱の真の動機も理解できると私は思っています。

 定説といわれている歴史のストーリーはどんどん覆されています。これからはますます真摯な調査研究と大胆な推理が必要とされるでしょう。歴史ファンは自由に大胆に想像豊かに謎解きにチャレンジして楽しみましょう!

柏木 宏之

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知るは楽しみなり❗

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↓大神(おおみわ)神社↓背後の三輪山を祀る↓