小学校低学年から少しづつ、運動が楽しくなってきた。
それでも、とろい💦
私は足が遅くて、マラソン大会でもいつもビリで、肥満気味の私は周囲の人に
拍手で迎えられる、大体そんなものだと思うけれど、先にゴールした友達や保護者に迎えられ、
新たにゴールテープを切るという、本当に本当にとろい💦💦運動神経って、どこにあるんですか???
って子でした。
お友達も多いし、友人からの信頼も抜群でしたが、とにかくてとろくて…本気でもう、運動は辞めようと・・・
決意したこともあったんです。
小学生低学年の頃に地域で行われる、ふっとベースボール大会で球技を知り、
姉が細身で格好良くピッチャーをしている姿をみて、『あぁ…いつか、あんなふうにスポーツ出来たらなぁ・・・』
と憧れて見ていたのです。細身で男の子にモテモテで、女の子も味方につける姉は、ある意味憧れでした。
だけど、私がレギュラーになれる年齢よりも早くにレギュラーに選ばれ、ライト前と言うポジションで
男の子が私の顔面目掛けて蹴るボールでも、安々キャッチできるので、「ん?私球技得意???」
と勘違いして、それからスポーツ出来るかも!球技得意かも・・・で、ドッジボール大会でも頭角を現し、
あ、やっぱ、私運動得意だ!!とこれまた勘違いして、球技スポーツにハマっていったのです。
それから小学4年生になり、
肥満脱出の為始めたのが、ミニバスケットボール。。。が、こちらは万年補欠でただ背が高いだけで、いつも監督コーチに
ゴール下に行けと言われていた・・・・まぁ、このくらいまではスポーツをダイエットと思ってやっていました。
水泳は夏休みの児童開放には、必ず行くほど水の中が好きで、泳ぎは海でもプールでも、どちらでも泳げて
得意でした。中学に入ってから、始めたバレーボール。小学校からしている人がいなくて、背が高いだけで
先生から期待され、あまりジャンプができなくても、面白いほど決まるので、キャプテンを任され
市内の大会では負けなしだった。
高校は当時山口県では名門の一つで、香川高等学園に特待生で入学が決まり、親に余計な負担をかけたくない
私はそのままバレーボールの道に進むのでした。
中学生の時にモデルの仕事をしたくて、オーディションに応募するも、変な写真で落選し、ちょうどその頃に
「あ、東京へ行こう」とCMの様なセリフが浮かんだ。
なんとなく、山口では窮屈だし、なんとなく、ここではない・・・という想いがあった。
ここではない、ここはちがう、ここにはいない・・・。なんとなくそう思っていた。
あ、やっぱ、東京だ・・・!と💡思っていた。
高校では全国大会クラスの名門だったので、この頃は親を大会に連れていく事が出来、
日本全国どこにでも、大会があれば保護者が来ていたので、どこの親も喜んで見に来てくれていた。
高校のバレーボールでは韓国にある名門チームと練習試合を兼ねて2年3年と、遠征した。
韓国の焼肉は今も覚えているけれど、美味しいかった。初めての海外遠征だった。
山口放送のニュースでは、その遠征に行く姿が撮影されていて、私が写っていたと記憶している。
最初はフェリーで次はアシアナ航空でした。韓国の球友達とも交友関係になり楽しい日々を送りました。
うちの学校は女子部と男子部があって、男子部はトップクラスの成績が無いと入れない学力では名門の
高校で、女子部は学力は誰でも、名前が書ければ入れる?そんな高校だったのだけど、スポーツでは
ちょっと名の知れた高校でした。高校でも、韓国でも、私は宝塚の男役くらい人気があり?
お菓子をもらったり、チョコをもらったり、落とした弁当のコロッケを食べさされたり、無茶苦茶でした。(笑
そんな、高校生活は親元を離れ完全寮生活で、この時確か15歳に親元を離れバレー仲間と寮で暮らす経験を
しました。
因みにポジションはライトアタッカーで、正直ここでも少しトロイ感じでした。
3年間の高校生活は宝塚の男役のトップスターの様な、女の子にモテモテの3年間を過ごすのでした。
先輩にも後輩にもファンがいて、私と会うと顔を赤らめて逃げるのを見て、何で?って思っていた。
そのまま社会人偏に続く・・・。