いきなり決めたんですが、11/3に池袋のイベントに出ます。ニャンモです。

 出ますっつっても、ご存じの通り模型展示です。しかし、ツイッター仲間であり、「砲雷撃戦」でも一緒に展示している友人と一緒に展示する予定の為、明日の模型展示スペース(長テーブル4つ分)は我々2名で2テーブル分は占拠させていただくことになりそうです。なんせ私は1/2000スケールを100隻、そして友人は1/700で10隻以上ですから、それはもう・・・・・。


 さて。今回ご紹介するのは、先週ご紹介した戦艦「摂津」の近代化改修バージョンです。実際にはワシントン条約締結後に解体された「準弩級戦艦」でしたが、もし万が一「摂津」がそのまま生き残り、そして1940年代まで戦艦として運用されていたら・・・という設定です。完全なる架空艦になりますが、取敢えずそれっぽいこじつけを付けてみた結果、こうなりました。まずは先に写真をお見せします。その後に、架空設定と艦の大改装内容をツラツラ述べていきます。

 そんな架空設定興味ねぇよという方への配慮でございますので、ご了承ください。

 まずは、史実の戦艦「摂津」がこちら






 そして、妄想の結果生まれた、大改装後の戦艦「摂津」がこちらです。

艦橋はパゴタマストだが、砲戦距離から9階建てと小さい

1枚目の写真と見比べると判りますが、副砲は可動式にしました。

旧主砲弾薬庫位置には、高角砲が移植設置されている。

10m延長された艦尾には、水偵2機を搭載可能。




 そしてここからはIF設定の内容になります。興味ない方はお戻りください。



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 英国代表の提案は実に奇妙であったが、日本を封じ込めるという意味合いでは実に効果的であった。

 ワシントン軍縮条約で、英・米・日はその保有比率で対立した。対米7割を主張する日本に対して、米英は譲らなかった。そして大日本帝国の戦艦「陸奥」の保有は絶対に認められるものではなかった。そこで英国側が提案した内容は、あまりに奇妙であった。

 ①日本の戦艦「陸奥」を未完成とする代わりに、アメリカの持つ40センチ砲搭載戦艦である「コロラド」級を2隻解体、英国は1隻だけ40センチ砲搭載艦を建造することで、各国が1隻づつ40センチ砲艦を保有する事とする。

 ②その代りに、沿岸警備用に30.5センチ砲搭載の1920年以前に建造した弩級戦艦を1隻づつ、各国の保有トン数内で保有することとした。この弩級艦は沿岸警備様であるために、主砲は最大3基9門までとして、練習戦艦としても改修の後使用できるとした。

 ③改修で許される増加排水量は現排水量から3000tまでとし、条約発効から10年後には解体可能とし、その解体した艦の排水量は各国の保有艦艇の総排水量に加えても良い。特別条項として、英国は40センチ艦を保有していないため、弩級艦の改装で浮いた排水量は新造する戦艦の排水量に充てることが可能とする。


 この条約によって、日本の対米英保有比率を7割に近づけることが出来た上に、2万1133トンの排水量は、後に建造する巡洋艦・空母の排水量に充てることが出来るという条件は、帝国海軍にとっては実に興味深い物だった。40センチ砲搭載艦は各国1隻づつで10年間は新規建造不可・現状維持される事が決定していた上に、米国側が大幅譲歩したので帝国側としてはこれ以上文句を言う事は出来なかった。

 この結果、イギリスは「コロッサス」、米国は「ユタ」、日本は「摂津」を残すこととなったが、「陸奥」を失った事は非常に大きな損失であった。


 さてこの結果、全く利用価値の無い戦艦を保有する事となった帝国海軍だが、条約は条約である。「摂津」は早速改修にかかる。しかし主砲塔数最大3基という条項は、「摂津」の主砲配置を考慮したうえで設定されていたため、ユタやコロッサスはその構造上3基残しても両舷に向けての砲戦が可能だったが、「摂津」は中央に構造物があったので、3基残す必要性は全く無くなってしまった。

 そして1925年の摂津は、練習戦艦としての改装を受けた。その結果機関は減らされ、前部マスト下にあった1番煙突は撤去された。主砲は中央前後にあった50口径30センチ砲4門のみとなり、日露戦争時の戦艦と何ら変わらない姿となってしまった。更に質が悪かったのは、ボイラーの撤去と主砲4基を下したため総排水量は大幅に減ってしまい、後に加算できる総排水量は一気に3000tも減少した18100tとなってしまった。

1928年当時の練習戦艦「摂津」



 そして、8年後にはロンドン軍縮で追い打ちをかけるように、10年間の新規戦艦建造の禁止、また空母・巡洋艦・駆逐艦に至るまで保有量が制限されてしまった。更に、今まで保有してきた弩級艦は廃棄しても排水量に加算されるという条約は消され、そのまま保有を続けるという条項さえ加わってしまった。

 日本からすれば完全に計算が外れた結果であった。これにより空母「鳳翔」と「摂津」を廃棄し、航空母艦の保有総排水量を3万8千トンとして、1万9千トン級空母2隻を建造するという計画は大幅に見直され、排水量1万50トンで2隻の中型空母を建造する(後の飛龍・蒼龍)計画となってしまった。


 保有が義務化された事は誤算であったが、ロンドン条約では弩級艦の保有義務化と、主砲直径・口径拡大不可以外に、特に厳しく変更された条項は無かった。更に良かった事としては、36センチ以上の口径搭載艦には適応された水平防御の制限枠が無かった事もある。


 そこで帝国海軍は、1934年に摂津へ大改装を決定し、適度に使える近海防衛用戦艦として大改装する事を決定した。しかし、1932年に入ると第一次上海事変などの勃発で中国戦線での陸軍の動きが活発化。東シナ海周辺の防御の強化が叫ばれた。また、陸軍の上陸援助の為に上陸地点への艦砲射撃なども行われたが、更に奥地への艦砲射撃が出来れば、敵陣の防衛陣地を直接降攻撃できる上に、輸送船の建造が盛んになった。

 これの影響をモロに受けたのが「摂津」であり、大改装への計画は1年遅れた。しかしこの結果、扶桑・伊勢型の近代化改装で得られたデータを基に、長門型大改装へのテストケースとしての改装が行われる事となった。


 1934年12月に横須賀ドックに入った摂津は、ここから3年かけての大改装を行う事となった。


 まずは機関を総取り換えを行い、出力は2万5千馬力から5万2千馬力へ向上し、煙突は2番煙突の位置に太く大きな1本の煙突に改められた。更に、研究の一環として採用された小型の球状船首(バルバスバウ)を設置。船体尾部を10m程伸ばしたことで、最大速力は21ノットから24.6ノットへ向上した。

 兵装は主砲口径長が制限されていた為、50口径30.5センチ砲しか使えなかったが、最大3基9門という条約を守る為に、新型の四三式50口径30.5センチ砲を3連装として3基設置することとした。1・3番は従来の1番6番に設置されたが、2番主砲は元後部艦橋のあった位置へ移設され、後部のみ背負い式とされた。副砲は15センチから14センチ砲10門へ転換し速射性を高めたが、艦首・艦尾に設置されていた12センチ副砲は全て撤去された。

 艦橋は長門型のテストモデルのため若干ずっしりとした形状となったが、30センチ砲の砲戦距離が23000m前後であったこともあり、若干小型の8層式とされた。後部艦橋は煙突後ろに設置され、煙突と後部艦橋の間には探照灯や対空用の測距儀などが設置された。艦の中央部に設置されていた4基の45口径主砲があった位置には12.7センチ連装高角砲を4基設置し、対空強化を行った。

 延長された艦尾部分にはカタパルトを1基設置し、2基の水上偵察機を搭載できるようにした。また、船体中央部にはバルジを追加し、浮力確保と魚雷対策に当てた。条約の合間を縫った改装であったため、元来認められていた3000tと、主砲撤去とボイラー撤去によって浮いた6000t分の余裕を持って、大改装へ臨むことが出来た。

 改装は予想以上に順調に進み、1937年の11月には改装を完成し、12月17日には復帰、支那方面艦隊へ転入された。

 1938年1月の第2次上海事変ではその主砲を早くも活用し、陸軍の上陸を強力に援護した。1941年10月までは支那方面艦隊から本土へ帰還。1941年12月以降は、戦艦として南方資源地帯確保の為に船団護衛に従事し、ウェーク島攻略作戦やバリ島攻略に従事した。バタビア沖海戦でも、単艦砲撃を続けパースを炎上させ、水雷部隊の援護を行っている。

1942年 トラック泊地にて。


 第2次ソロモン海海戦で、輸送船団の護衛中にエンタープライズ機の空襲を一手に引き受け中破し、内地へ修理に戻るも、輸送船団の護衛には成功した。

 修理を終えた「摂津」だったが、昭和18年は内地と支那方面とを行き来し、11月ごろからトラック泊地を中心として輸送作戦に従事していた。


 昭和19年6月8日のビアク島への輸送作戦で「摂津」と5隻の駆逐艦で物資・兵員輸送中に、米海軍の重巡1・軽巡2・駆逐14という艦隊と遭遇。得意の夜戦で応戦するも、その速力の遅さ故に囲まれて集中砲火を受ける。重巡洋艦の20センチ主砲では、いくら老いた旧式戦艦であってもその垂直防御には弾き返されたが、艦上構造物は徹底的に破壊され、遂には炎上した。その火をターゲットとして、米駆逐艦からの雷撃が2本右舷に命中し、大量の浸水を受けた。しかし腐っても戦艦である。その30センチ砲は、軽巡「ボイシ」と駆逐艦1を撃沈する。水雷戦隊の反撃もあり駆逐艦5隻は脱出に成功するも、第3次ソロモンの比叡と同じように砲弾を徹底的に叩き込まれた「摂津」は、その老朽化故に合板の継ぎ目が緩み、機関室に浸水。その場で動けなくなってしまった。

 元来老艦であった「摂津」は息を吹き返すことなく、その場で自沈する事となり、32年に及ぶその歴史を、南方の海に沈めた。




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   如何だったでしょうか?輸送船団護衛が軽視され続けていた帝国海軍が、わざわざ護衛に戦艦を充てるとは思えないが、低速・小型で攻撃力に劣る旧式戦艦ならば、使い道はこれくらいしかなかったであろう。それでも、無駄な妄想程面白い物は無いですから、またこういう感じで架空戦記物を作るかもしれません。まぁ、今の所は特にありませんけどねww


 明日のイベントでは、「艦これ」での扶桑改二を記念して、原作絵に沿って作った「扶桑改二バージョン」をお披露目します。しかし出来栄え的には、以前に作成した「扶桑 航空戦艦Ver」の方が出来がよく、ちょっと不完全燃焼気味な物になってしまいました。

 まぁ、どういう反応を受けるかは、明日現地でのお楽しみという事になりそうですね。


 次週の内容は・・・・・ちょっと未定です。来週は忙しい事もあり、もしかすると更新すら出来ないかもしれません。明日は明日の風が吹くですかね・・・・。



 それではまた。ノシ