4月から続いた「炎の飛龍」藤波辰爾の記事も今回で、いよいよラストとなりました。


 1992年2月、藤波は無気力試合が続きパートナーの越中にまで逆鱗に触れてしまい無期限欠場を言い渡し会場を去った。一部のファンやマスコミからは「藤波の時代は終わった」という冷たい噂まで流れたが、それでも藤波は自分を見つめ直すために海外へ渡りテレビ取材も同行しプロレスラー養成所「モンスターファクトリー」や地下プロレスも体験。そしてボクシングのトレーニングなどにも励み自分が忘れかけた初心の気持ちやプロレスの原点を思い出したという。

 そして1992年7月8日、リチャード・バーンとの異種格闘技戦で復帰し見事に勝利した。その頃、新日本プロレス内では越中詩郎が誠心会館との抗争から選手会と対立し木村健悟、そして抗争で和解した誠心会館の青柳政司と斎藤彰俊も越中と合流し「反選手会」を結成し、それまで脇役的立場だった越中達が本隊を離れ牙を向くという下克上を起こした。かつて長州力がそうしたように・・・。当然かつて「ドラゴンボンバーズ」で盟友だった藤波にも容赦無く攻撃を加えた越中の勢いにファンの支持を集めた。

 反選手会の勢いは新日本内部ばかりとどまらず他団体の「WAR」にも抗争を伸ばし遂に天龍源一郎が本格的に動き2年ぶりに新日本プロレスのリングに上がった。長州力は天龍との一騎打ちが話題になり藤波は天龍よりも格下の石川敬史から対戦要望を受けるも石川では物足りないと思いつつ1993年1月4日、東京ドーム大会のセミファイナルで石川敬史と一騎打ちし石川も善戦するも藤波は格の違いを十分に見せ完全勝利を収めた。

 更に2月には1984年8月26日の「夢のオールスター戦」以来となるザ・グレート・カブキとのシングル戦も実現し勝利する。同年の夏には初のG1クライマックスにも優勝し秋には念願の天龍源一郎とのシングル戦も実現するなど藤波も他団体との交流戦にも拍車を掛けた。

 1994年4月4日には広島で橋本真也を破り2年3ヶ月ぶりIWGPヘビー級王座を奪回させるも5月3日、福岡ドームの初防衛戦で橋本真也の猛攻に僅か6分で完全フォールを奪われ夏のG1クライマックスでも前年の勢いは見られず藤波は徐々に第一戦から退くようになる。     1995年10月に藤波は「古き良き時代のプロレス復活」をテーマに独立興行の『無我』を設立しグランドレスリングを基本に抗争や遺恨など残さずクリーンなファイトで伸び伸び出来る試合を行い、それまで正統テクニックな技を持ち合わせていながら長年ヒール(悪役)のポジションだったヒロ斉藤も参加し自分の持てるテクニックを十分に発揮することが出来たほどであった。(ヒロ斉藤は後日、記事にします)

 その後も藤波は新日本プロレスそして『無我』でも両方ファイトし現在では試合数は減ったが、それでも現役は続行している。長男もプロレスラーとしてデビューを果たし感無量であろう。長年プロレス界を支え少年時代の私も十分楽しませて頂いた藤波辰爾。本当にありがとう。これからも身体に気をつけて自分独自のファイトを続けて下さい。





 いや~遂に終わりましたね。5回に渡り藤波辰爾の記事を月に1度ですが続けることが出来て今回で書き終えることが出来るか?最初は不安に思えました。最近の自分自身の不調も考えると・・・。しかし藤波もプロレス人生は山あり谷ありに思えます。それでも自分らしく長年ファイトをし続ける姿は私自身も「自分らしく生きろ」と教えてもらっているようにも思えます。

 考えてみると私がはじめてプロレスラーからサインを頂いて握手をしたのも藤波辰爾でした。もしかすると何かの縁もあったのかも知れません。