先日、スーパーストロングマシンこと平田淳嗣が引退を表明し引退セレモニーが行われることが発表されたそうです。

 スーパーストロングマシンについては、まず1984年8月のブラディファイトシリーズ開幕戦の後楽園ホールに突如マネージャーの将軍KYワカマツと共に目出し帽を被ってアメフト用のプロテクターを着用して初登場し週刊プロレスには「キン肉マン」と書かれてあったが後日、自身を「ストロングマシーン」と名乗り新日本プロレスに殴り込みをかけた。同シリーズの福岡県スポーツセンターで早くもアントニオ猪木とシングルの一騎打ちとなり試合前には別のストロングマシーンがワカマツと共にセコンドに着きストロングマシーン1号、ストロングマシーン2号となり親日正規軍のみならず維新軍団とも対立し3軍対抗戦状態となったが維新軍団はシリーズ終了後「ジャパンプロレス」を設立するために新日本プロレスを離脱し全日本プロレスに参戦することになったため次期シリーズの「闘魂シリーズ」では完全に親日正規軍VSマシーン軍団という形となった。

 そして年が明けて「新春黄金シリーズ」になるとストロングマシーンは2人から4人に増殖し更に上田馬之助とヒロ斉藤も軍団入りを果たし軍団抗争はエスカレートしたが次のシリーズで上田と斉藤はワカマツと仲間割れを起こし、あえなく軍団から離脱しストロングマシーン1号も4月に藤波辰巳との一騎打ちの際、ワカマツと仲間割れを起こし軍団から離脱し次のシリーズからストロングマシーン1号からスーパーストロングマシンと名乗りストロングマシーン同士の対決にまで発展する。そして「バーニングスピリットINサマーシリーズ」終了後、ヒロ斉藤、高野俊二を引き連れ新日本プロレスを脱退し「カルガリーハリケーンズ」を結成して全日本プロレスに参戦した。全日本マットでは阿修羅原と組んでアジアタッグ王座を獲得している。ジャンボ鶴田、天龍源一郎、長州力とのシングルマッチで好勝負を展開し、まさにこの頃がスーパーストロングマシンこと平田にとって黄金時代だったように思える。

 1987年、長州力が新日本プロレスにUターンしスーパーストロングマシンも共に新日本プロレスに復帰し直後に藤波、長州、前田日明、木村健吾と共にNEWリーダー軍の一員としてアントニオ猪木、マサ斎藤、坂口征二、藤原喜明、星野勘太郎らのNOWリーダー軍との世代闘争が勃発し新日本プロレスは、これまでにない盛り上がりも見せたが猪木とマサ斎藤との仲間割れから巌流島決戦へと流れ藤波と長州との仲間割れによって世代闘争は終了したため長州軍の一員となって親日正規軍と軍団抗争という形になったが、もはや時代は軍団抗争のマンネリ化によりファンから飽きられ長州軍は解散しマシンはジョージ高野と組んで「烈風隊」というチーム名でIWGPタッグ王座を獲得するも数ヶ月で王座転落し「ブロンドアウトローズ」と共闘し再び正規軍と敵対することになる。「ブロンドアウトローズ」から「レイジングスタッフ」と名を変えたが、その翌年「反選手会同盟」が勢力を挙げたため「レイジングスタッフ」は次第に目立たなくなり解散となってしまう。

 1994年「SGタッグリーグ戦」においてフリーの立場だったマシンがヒールに転向したばかり蝶野正洋と組んで出場するも息が合わず何度も何度も仲間割れの危機に見舞われながら勝利を得て優勝決定戦に進出するが蝶野のタッチ拒否や救援に入ろうとしない態度に業を煮やし遂に仲間割れを起こし試合中に自らマスクを脱ぎ捨て10年間のマスクマン生活に別れを告げ素顔の平田に戻った。

 その後の平田は本名で新日本サイドに復帰し橋本真也と組んでIWGPタッグ王座を獲得し強豪のスコット・スタイナーやホーク・ウォリアーからもタッグながら得意技の魔神風車固めから3カウントを奪っている。平田のレスラー生命は長く地味ながらもプロレス界を支え続けて来た。特に1980年代後半から1990年代は活躍を続け本当に楽しませて頂きました。

 私からスーパーストロングマシンそして平田淳嗣に敬意を評したいです。長い間、本当にお疲れ様でした。そして、ありがとう。