久しぶりにプロレスラー個人の記事になりますが本当にいつ以来か、もはやわからなくなりました。とにかくブログをはじめた頃の気持ちに戻った気がします。以前から書こうと思っていたレスラーが「ドクターデス(殺人医師)」と異名されたスティーブ・ウィリアムスです。

 かつて新日本プロレス、全日本プロレスにおいて、その実力を存分に発揮し人気を得た強豪外人レスラーの一人だった。1986年7月、新日本プロレスの「バーニング・スピリット・イン・サマー」シリーズに初来日し早くもケタ外れの強さを発揮しアントニオ猪木とのシングルマッチでの対戦でも互角以上の実力を発揮したが後に参戦したクラッシャー・バンバン・ビガロやビッグ・バン・ベイダーのインパクトにやや隠れがちとなり実力はあったものの3番手の降格を余儀無くされた。

 新日本プロレスにおいて、そうした状態が続き1990年2月に全日本プロレスに参戦しテリー・ゴディのパートナーとして「殺人魚雷コンビ」を結成。最終戦の日本武道館においては世界タッグ選手権で天龍源一郎、スタン・ハンセン組を破り世界タッグ王者のベルトを奪還した。その時期シリーズの開幕戦の後楽園ホールで私は、はじめてスティーブ・ウィリアムスの試合を生で見ることになった。対戦相手は当時ジャンボ鶴田とのパートナーだった谷津嘉章でセミファイナルで行なわれた。谷津はスティーブ・ウィリアムスを相手に善戦するも得意技のオクラホマ・スタンピート(相手の体を右肩にうつ伏せの状態で担いで相手に体を浴びせかけるように前のめりに倒れこみ相手の背中をマットに叩きつける殺人技)でフォール負けし更にその技を掛けられた際、背中の打ち所が悪かったのか谷津は肋骨を負傷し、そのシリーズと時期シリーズの欠場となってしまった。もしかするとこの試合がきっかけとなって谷津は、その年に全日本プロレスを脱退し新団体「SWS」に移籍したことも一因だったかも知れない。

 こうしてスティーブ・ウィリアムスは全日本プロレスでシングルにおいても「殺人魚雷コンビ」のタッグマッチにおいても水を得た魚の如く新日本プロレスの頃以上にその実力を十分に発揮し、1990年と1991年の「世界最強タッグリーグ戦」では2年連続の優勝を果たす。まさにこの頃が「殺人魚雷コンビ」の全盛期と言えたが1993年の夏にテリー・ゴディが体調不良となり長期欠場になったため、それまでテリー・ゴディのパートナーで支えたスティーブ・ウィリアムスがシングルプレーヤーとして飛躍し1994年7月に三沢光晴を破って三冠統一ヘビー級王座を獲得。外人レスラーのトップの座に輝いたかに見えたが翌年の「チャンピオンカーニバル」シリーズ直前に「家庭の事情」の名目で来日キャンセル(別の理由があったらしい)し翌年、1年ぶりに復帰を果たすも以前よりも技のキレがなくなったことを指摘されたりパンチを多用し始めたことも批判の対象となった。

 その後もスティーブ・ウィリアムスは全日本プロレスで強豪外人レスラーとして参戦し2003年にIWAジャパンを主戦場に2004年には総合格闘技にも挑戦するが、この頃には癌を告知され、その年の7月にIWAジャパンの来日の際、自分が癌である事を公表した。一時は危篤状態に陥ったものの手術は成功し健康状態は一旦回復した。体重は20㎏ほど減ったが時折、無理しない程度にプロレスの試合にも出場しながら闘病を続けたが2009年12月29日に49歳で亡くなった。

 スティーブ・ウィリアムスの試合は何度も生で観戦したが特に私が生で観戦した中でのベストバウトは1990年9月1日、日本武道館におけるスタン・ハンセンとの三冠統一ヘビー級選手権試合だった。あの試合はメインのジャンボ鶴田VS三沢光晴と勝るとも劣らぬ良い試合だった。そしてスティーブ・ウィリアムスのサイン色紙は私の宝の一つです。


 長年、日本の強豪外人レスラーとしてプロレス界を支え続けたスティーブ・ウィリアムスに敬意を評したと思います。   ありがとう☆