AWA世界チャンピオン時代のリック・マーテル。

当時は本当にカッコ良かった。


 1984年2月23日、全日本プロレスにおいて歴史的瞬間が訪れた。ジャンボ鶴田がニック・ボックウィンクルを敗り日本人初のAWA世界王座を奪還させた。以前にもブログに書いたことがあったがニック・ボックウィンクルは長きに渡ってAWA世界王座を保持し鶴田も何度となく挑戦したがニックの反則防衛に泣かされ王座奪還には至らなかった。しかし、この日は文句無しのスリーカウントを奪い王座奪還を成し遂げた。

 その後、鶴田は日本、アメリカを往復し防衛を果たしたが奪還して3ヵ月後、思わぬ王座転落が待ち構えていた。そのチャレンジャーの名はリック・マーテル。当時としてはファンの間でもネームバリューはそれ程高くなく若干28歳の若きチャレンジャーだった。しかしリック・マーテルはキャリア的にはニック・ボックウィンクルより浅いが、その若さと持ち前のレスリング仕込みのテクニックはニック以上だった。そのマーテルの長所に恐らく鶴田も敗れたのではないかと思う。

 本来この頃のマーテルは新日本プロレスの「IWGPチャンピオンシリーズ」にカナダ代表として参加する予定であったが思わぬ鶴田からの王座奪還によって全日本プロレスへの参加となった。その夏に全日本プロレスにAWA世界王者として来日し鶴田と王座を掛けて試合をし引き分けに持ち込んだ。リック・マーテルは、その甘いマスクとレスリングセンスにファンからも人気が集中しチャンピオンとしての風格も現れた。まさにこの頃はリック・マーテルもAWA世界チャンピオンそのものも全盛期と言えた。

 翌年の1985年秋、ジャイアント馬場はゴールデンタイム復活を実現させ更に当時NWA世界ヘビー級王者のリック・フレアーとAWA世界ヘビー級王者のリック・マーテルを来日させ両国国技館において史上初のNWA・AWAの世界ダブルタイトルマッチを実現させた。この試合では私はどちらかというとリック・マーテルを応援した。試合においてもリック・マーテルが一方的にリック・フレアーを攻めてリードしていたが、あと一歩というところで両者ドローという結果に終わった。しかしリック・マーテルの全盛期はここで終わった。

 日本において世界ダブルタイトルマッチの僅か2ヵ月後マーテルはスタン・ハンセンに敗れ王座転落となり二度とAWAどころか世界チャンピオンに輝くことはなかった。そしてここからマーテルの転落人生がはじまる。

リック・マーテルとトム・ジンクの二枚目コンビ。

女性の方はどっちが好みかな?

 マーテルは翌年の1986年、全日本プロレスの「世界最強タッグリーグ戦」にトム・ジンクと組んで来日するも活躍らしい活躍には至らず最終戦においては馬場とプロレス入りして間もなくの輪島大士とタッグマッチで激突し敗れている。(パートナーのトム・ジンクが輪島からフォール負け)そして、これがマーテルの全日本プロレス最後の来日となった。その後マーテルはWWF入りし「悪の伊達男」ザ・モデルとしてヒール(悪役)に転向しキャラクターレスラーを演じる。そして1990年WWFの「日米レスリングサミット」東京ドームにおいて久々に来日しカート・へニングと組んでジャンボ鶴田、キング・ハク組と激突し、かつてAWA世界王座を奪った鶴田からフォールを奪われるという皮肉な結果を味わされた。

 そして1992年にはSWSに来日し佐野直喜との試合では、もはやAWA世界チャンピオン時代の面影はなく佐野に敗れてしまった。かつてはNWA世界チャンピオンやAWA世界チャンピオンというプロレス界においては頂点に達した男がここまで転落するのは意外にも珍しいケースではない。リック・マーテルも年齢の限界と時代の流れには勝てなかったと言える。

NWA・AWAダブルタイトルマッチが行なわれた試合。

これがマーテルの「全盛期」最後となった。