1991年8月の上旬に新日本プロレスはヘビー級の強豪選手によるシングルマッチの総当たりリーグ戦が行われた夏の祭典と呼ばれる「G1クライマックス」が開催された。この時の出場選手は日本選手は藤波辰爾、長州力、橋本真也、武藤敬司、蝶野正洋。外人選手はビッグ・バン・ベイダー、スコット・ノートン、クラッシャー・バンバン・ビガロだった。まさにこの頃の新日本プロレスにとっては強豪中の強豪選手ばかりで誰が優勝してもおかしくない程、スケールの大きい企画だった。
しかし、この「G1クライマックス」には新日本プロレスにとっては正念場だった。それは長年、新日本プロレスはスキャンダルや選手の離脱そして外敵というべき「UWF」によって低迷が続いていたのだ。かつて猪木が打ち出した「IWGP構造」もあまりにスケールが大きすぎて思うように行かなくなり1983年の「第1回 IWGPチャンピオンシリーズ」の優勝戦で猪木はハルク・ホーガンのアックスボンバーで失神KO負けを喫し翌年の優勝戦では不本意な結果に観客が暴動を起こすという後味の悪い事態にまで陥られた。
その後も新日本プロレスは次々と企画を持ち出しては上手く行かずファンが離れ前田日明率いる「UWF」の一大ブームによって低迷してしまう。新日本は何とか「UWF」の勢いを止めるべく先制攻撃したのが「東京ドーム初進出」で、それでも「UWF」の勢いは止まらず団体は拡大していった。しかし1990年12月にある問題で「UWF」は分裂したが新日本プロレスは何とか人気を取り戻すべく吉と出るか凶と出るか「G1クライマックス」に全てを掛けたのである。この「G1クライマックス」が失敗したら新日本プロレスには後がない、まさにクライマックスでもあった。
そして「G1クライマックス」は見事に成功した。特に優勝戦は蝶野正洋と武藤敬司による一進一退の攻防戦で、その前に蝶野は橋本真也と優勝戦進出戦も行っていたが、この試合で蝶野は武藤を敗り見事に優勝。武藤、蝶野、橋本の「闘魂三銃士」が活躍し、まさに新日本プロレスの完全復活を物語った。長年、どん底にあえいだ新日本プロレスがやっとの思いで復活を果たし「闘魂三銃士」の若い世代による活躍が新日本プロレスの希望の光となった瞬間だった。
