HITOTAKEのブログ


 1987年1月、クラッシャー・バンバン・ビガロは突如来日しマネジャーのラリー・シャープがセコンドだった。物凄い巨漢にあの刺青を見ただけで凄みがあるのに6人タッグマッチにおいてはビガロ1人で3人を倒してしまったような試合ぶりに新日本プロレスに新たな強豪外人レスラーの登場を感じた。

 そして次に来日した時にはシリーズ名にビガロの名前が記され、そのシリーズで藤波と前田がそれぞれビガロにシングルマッチで挑むも10分足らずでフォール負けを喫し完全にこのシリーズはビガロが主役と化した。しかし8月の両国大会で猪木とのシングル戦で猪木がビガロとのシングル戦で猪木が延髄斬りでビガロからフォールを奪い、ビガロも日本で初のフォール負けを喫した。この後ビガロはWWF入りを果たし一時来日を途絶えてしまう。

 1年後、再び日本に来日をした時、この時の新日本の外人エースはビッグ・バン・ベイダーであった。そのベイダーとシングル戦で挑み、両者暴走しての引き分けが多い中、両雄の抗争は次第にファンから受け入れなくなり今度は両者がコンビを組む方向となった。この頃、新日本は前田率いる「新生UWF」の団体に押されまくり危機的状況であった。

 そのUWF対抗策として新日本はロシア(当時ソ連)のレスリング軍団を招聘し東京ドーム初進出させた。ビガロはドームのセミファイナルでロシア代表のサルマン・ハシミコフと対戦。ハシミコフに3分足らずでフォール負けを喫してしまう。この辺りからビガロは脇役扱いにされたが人気は決して落ちなかった。ビガロは、それなりのレスリングセンスを持ち合わせているため時には「見せるプロレス」を発揮しファンを楽しませたからだ。

 実際2度目の東京ドーム大会でも北尾光司のデビュー戦の相手もつとめ、北尾が勝ったが北尾の中途半端な試合振りにファンから「帰れコール」の野次を飛ばされ逆に北尾に最後までプロレスの凄さを見せたビガロに声援が送られた。ファンはそれだけビガロの実力を認めているからだ。

 このようにビガロは、新日本を支え続け1992年「SGタッグリーグ戦」を最後に新日本を離脱。様々な団体に参加し独自のプロレスを発揮し続けた。彼も多くのファンに愛された外人レスラーである。

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