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全盛時代、馬場と死闘を展開したサンマルチノ


  かつてジャイアント馬場の最大のライバルとして「人間発電所」と異名を持ったレスラー、ブルーノ・サンマルチノ。馬場とはライバルでもあったが、無二の親友としてその名を残した。

 私がブルーノ・サンマルチノを生で見たのは1990年9月1日、日本武道館において馬場のデビュー30周年を祝福しに来日した。当時、全日本プロレスは天龍をはじめとする新団体「SWS」を設立に当たり、選手大量離脱がその前シリーズまで起きてしまい、全日本設立以来最大の危機を迎えた。そんな親友の馬場を励ましに来日したサンマルチノはリングに上がり、馬場のデビュー30周年を祝福した。

 馬場にとって、この時ほど心強い親友を持って本当に良かったと思った事だろう。馬場とサンマルチノとの友情は実に長い。詳しい事はよくわからないが、馬場がアメリカ修行時代、「東洋の悪魔」と呼ばれ現地のファンからは当時はまだ日本の真珠湾攻撃の恨みもあったため、馬場は連日連夜 野次を飛ばされ物まで投げられたらしく孤独な日々が続いたという。

 そんな時、ブルーノ・サンマルチノと出会い、激しい試合を展開。サンマルチノは馬場と将来のプロレス界を誓い合った。やがて馬場は力道山の死後、日本プロレス界のエースとなり数々の強豪レスラーを撃破し続けた。しかし、ある男が頭から離れなかった。その男こそブルーノ・サンマルチノだった。サンマルチノも当時は既にWWWF(現WWF)世界チャンピオンとなっており、不動の実力者となっていた。

 馬場は自らサンマルチノを日本に招き、彼に勝って自分の気持ちに決着をつけようとした。試合は激戦の末、時間切れ引き分けに終わった。試合後、両者は握手を交わした。やがて馬場は「全日本プロレス」を設立。プロモーターとして1年生だった馬場は外人レスラーを招くため、アメリカに渡りサンマルチノの元を尋ねるとサンマルチノは協力を引き受け子分を引き連れ来日して旗揚げ戦で馬場と激戦を展開し旗揚げを成功させた。

 そして10年後、全日本プロレス創立10周年記念大会で馬場と最初で最後のタッグを組んだ。馬場にとっては親友であるがゆえ、もっと早く そしてもっと多くサンマルチノとタッグを組みたかったと思っていたのではないかと思う。

 このようにライバルとして、親友として時には厳しく見つめあい、時には助け合い、

お互いの良い出来事は喜び、悪い事は悲しむ。このような人間関係は、どれ程あるのだろうか?ジャイアント馬場、ブルーノ・サンマルチノ 二人の偉大なレスラーのライバル心と友情を学ぶべきではないかと思う。




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