HITOTAKEのブログ


 私はプロレスを見始めてから来年で30年になる思い出に残る選手はたくさんに見てきた。その中で印象に残るレスラーの1人に小川良成がいる。


 小川良成は現在「プロレスリング・ノア」で活躍している。私が彼の試合をはじめて見たのは「全日本プロレス」での前座試合の第1試合であった。相手は当時全日本プロレスと業務提携していたジャパンプロレス所属の笹崎選手だった。試合はわずか5分で負けたのを覚えている。

 そして数年後、小川は天龍源一郎率いる「天龍同盟」の一員となったがまだほとんど前座レスラーの身で天龍同盟の一員かさえわからないファンも少なくなかった。そして小川にとって一番の困難だったのが怪我であった。当時小川は肘の怪我で長期欠場が多く、その間に後輩達が着実に成長を遂げていた。

 龍が全日本プロレスを脱退し多くの選手も離脱する中、小川は全日本プロレスに残留した。当時全日本プロレスでは三沢光晴率いる「超世代軍」とジャンボ鶴田率いる「鶴田軍」が抗争を繰り広げられていた。そして小川は当初「鶴田軍」の一員だったマイティー井上に代わって鶴田軍に加わった。

 長期欠場で最初の頃はほとんど良いところが無かった小川にタッグを組んだ鶴田も自分がカットしたのにフォールの体制にもいけないふがいなさに苛ついたのか髪を引っ張りフォールの体制に行かせたり、六人タッグにおいてもタッチをするのに自分のコーナーに行くのにもたついているのを見かねて後ろから鶴田に体を押された事もあった。

 小川は鶴田軍にとっては非力すらファンやマスコミから囁かれ遂には超世代軍で同じジュニア選手で後輩でもある菊地毅からシングルでフォール負けを喫した時、小川はもうダメだと思われた。そして全日本のジュニアは菊地毅の時代到来とも思われた。

 しかし、小川はここで終わらなかった。小川はそれから直実に延びていた。タッグにおいても菊地からフォールを奪い、その後もシングルで菊地からフォールを奪われたがその年の秋、見事菊地からシングルでフォール勝ちを奪った。試合後、敗れた菊地から握手を求め小川もそれに応じた。とても感動の一瞬と言える。

 その後、小川は再び菊地からフォールを奪われ、3勝1敗という成績でやはり菊地がジュニアを背負って立つのかと思われた。しかし、小川は平成7年、遂にダニー・クロファットを破って世界ジュニアヘビー級チャンピオンになった。恐らく小川ファンはこの一瞬をどれだけ待ったのかわからない。

この試合はこの年の感動の名勝負にも輝いた。

 翌年、渕正信に破れ王座は転落し、その渕を菊地が破り今度は菊地が王座についた。そして翌年の1月、小川が挑戦者となり両者の勝負は3勝3敗のイーブンとなっていたため、これで勝負がつくと感じた。そして勝ったのは小川であった。小川は二度目の王者となった上、菊地との決着に勝利したのである。

 更に小川は翌年、信じられない事が起きる。6人タッグマッチでヘビー級選手の秋山からフォール勝ちを奪い、会場のファンが総立ちになったほどで「週刊プロレス」の表紙にまで飾ったのである。そして三沢から小川にコンビを組む指名まで得たのだ。三沢と小川のコンビ「アンタッチャブル(後のWAVE)」となり、年末恒例の「世界最強タッグリーグ戦」にも初出場。翌年には世界タッグ王者にもなった。

 小川がここまでプロレス界で成し遂げたのは誰が予想しただろうか?

そしてその後、三沢が旗揚げした「プロレスリング・ノア」に参戦。

2002年4月、秋山を破りジュニア選手である小川がなんとGHCヘビー級王者に輝いた。その王座は高山に破れ失ったものの三沢のパートナーとしてGHCタッグ王者にもなった。


 小川は派手な大技はなく、一番の大技はバックドロップであとは地味な技が多いが、ファンの評価は決して悪くない。むしろ「ああいう、テクニックで頭がカミソリのように鋭いレスラーは二度と現れないだろう」と言われている。彼は口下手で無骨なところもあり、恋愛も苦手だとも言われ未だ独身である。しかし、彼には焦る気持ちは見えない。何事もマイペースである。

 人間それが一番の生き方なのかも知れない。小川良成・・・

彼は誰もが羨む「いぶし銀ファイター」なのだ。