徳川幕府成立の陰で、徳川・豊臣の戦いの渦に翻弄された千姫。

モデルは凛とした眼差しが印象的、着物ベストドレッサ-賞も受賞された武井咲さん。

父は後に徳川二代将軍となる徳川秀忠、母は浅井三姉妹の末娘お江。

ここで浅井三姉妹について、その母は織田信長の妹お市の方、父は浅井長政。浅井家は長浜・小谷城の戦いで信長により攻められ陥落し、お市の方と三姉妹は織田方により救出されます。

本能寺の変で信長が亡くなった後、お市の方は三姉妹を伴って柴田勝家に嫁ぎますが、織田家・跡目相続の勢力争いが勃発、柴田勝家は豊臣秀吉と対立し戦うこととなり、この戦いに敗れてしまいます。福井・北ノ庄城の陥落で、勝家とお市の方は自刃、浅井三姉妹は救い出され、手厚く育てられます。

長女茶々・淀君は母を死に追いやった豊臣秀吉の元に嫁ぎ、豊臣家の嫡子となる豊臣秀頼を産み、千姫と深くかかわっていくことに成ります。

秀吉は天下統一を果たしますが、1598年その死期が迫るなか、豊臣家の跡継ぎとなる秀頼がまだ幼いため秀頼の後見人になるように徳川家康に依頼し、徳川と豊臣家の関係を強化するため、6才の秀頼と2才の千姫を婚約させ、その直後亡くなります。

1600年、主を失った豊臣政権内で混乱が生じ関ヶ原の戦いが起き、徳川家康の東軍が勝利、1603年2月徳川家康は征夷大将軍となり徳川幕府を開きます。

1603年7月、淀殿はその勢力拡大を懸念し急ぎ婚儀に踏み切ります。秀頼11才、千姫7才の時です。

二人は仲睦まじく平穏に暮らしていましたが、後見人となったはずの徳川家康が天下取りに動き出します。

1614年豊臣と徳川の戦い・大阪冬の陣が起き、そしてその時1615年5月7日大阪夏の陣で豊臣家は最後を迎えます。城が炎上する中、豊臣家最後の手段として千姫を城から脱出させて秀頼と淀殿の助命嘆願をさせようとします。

千姫は護衛の者と、侍女に付き添われ無事、茶臼山の徳川家康の元に辿り着きますが、家康は千姫の申し入れに対し即答を避け将軍秀忠に再度申し入れ返事をもらうよう告げます。

そこから徳川勢の坂崎出羽守直盛に預けられ、徳川秀忠の元に送られます。

しかし秀忠は受け入れません、それどころか一説によると「何故秀頼と一緒に自刃しなかったのか」と問い詰められもしたとあります。

翌8日、徳川勢の武将の介添えにより淀君と秀頼は自刃します。

さらには秀頼の側室の子で男子、国松8才は大阪城から逃れましたが徳川方に発見され斬殺されています。下の女子7才は千姫が命乞いをして養女としました。

この時、淀君の妹であり千姫の母、お江は江戸にいて大阪城の状況を知らされていました、母お市の方と同じ運命を辿った姉淀君の最後を聞いてどんなに辛い思いをしたでしょう。そんな中でも千姫の命が助かり、母としてどんなにか有難い救われた気持ちになったことでしょう。

千姫はその後、伏見城に入り束の間、傷心の時を過ごし、母お江の待つ江戸へと向います。

江戸へは、伊勢桑名から一度船の旅となりますが、この時桑名で千姫一行をもてなしたのが領主の本田家に嫁いでいた熊姫とその子忠刻でした。

熊姫も千姫と同じく家康の孫にあたり、しかも熊姫の母は織田信長の娘で同じく織田家の血を引いていました。千姫はこの同じ境遇の従妹に会い、辛く今にも押しつぶされそうな胸の内を初めて打ち明け、やっと涙を流すことが出来たのではないでしょうか。

江戸に到着して、豊臣家に嫁いでから十数年ぶりの母お江との再会、深い悲しみの中でも、どんなにか懐かしい思いで時を過ごしたことでしょう。

その後、千姫の再嫁の話が進みます。

家康は坂崎出羽守に公家との縁談を依頼しますが、未だに失意の中体調もすぐれない千姫、慣れない公家社会に溶け込むのも大変でしょう、気が進みません。

そんな中、江戸に来る途中世話をしてくれた本田忠刻との縁談が持ち込まれます。

従妹の熊姫が熱心に忠時と千姫を夫婦にすることを働きかけ、家康に進言します。

千姫の嫁ぎ先としては家格も相応で、何よりその相手が熊姫の息子ということもあって家康は承諾します。

千姫はまだ秀頼夫人としての立場は保たれています、この時代は縁切寺で三年間修行した後に離婚が成立することになっていました、そこで徳川家ゆかりの寺、上州(群馬県太田市)満徳寺に千姫身代わりの乳母が尼として入り、この時は三年を待たずして嫁ぐことと成りました。

家康は1616年4月に亡くなります、千姫の婚儀はその後、程なくして9月に行われ、この時千姫20才、忠刻21才でした。

いよいよ婚儀に向けて準備も整い、千姫一行は9月11日に忠刻、熊姫の待つ桑名に向けて江戸を立つ予定となりました。

しかしここで坂崎出羽の守が千姫一行を襲うという計画が発覚します。

家康から千姫の嫁ぎ先を探すことを依頼され、奔走した挙句に突然、本田家との婚姻を知らされた出羽の守は逆上します。輿入れの道中を襲い千姫と刺し違えることで面目を保とうと思い、部下にその準備を命じます。

しかしその計画が徳川方に漏れることと成り、出羽守は藩の取り潰しを恐れた家老たちに殺害されたか、それとも自害させられたか、どちらか不明ですが事件は未然に防がれ、坂崎藩は幕府から領地没収、お家断絶が申し渡されました。

千姫一行はこの騒動で二日遅れての出発となりました。

翌1617年9月、本田家は石高を加増され桑名から姫路へと国替えとなり、姫路に入国しました。

翌年、千姫は長女・勝姫を、その次の年には長男・幸千代を産み、優しい人達にも囲まれて、穏やかで落ち着いた日々を過ごします。

しかし幸千代が3才で夭逝し、忠刻が1626年・31才の若さで亡くなります。

忠刻の亡くなった日は大阪城が落城したのと同じ5月7日でした。

さらには同じ年の8月に姑の熊姫も、11月に母・お江もその後を追うように亡くなってしまいます。

忠刻と一緒に結婚生活を過ごしたのは僅か10年程、大阪城落城の心の傷を癒す間もありませんでした。

千姫は、幸千代が亡くなった後、姫路城から眺められる小高い山、男山に千姫天満宮を祀り、毎朝拝みました。

また、豊臣秀頼に許しを請う願文を書き、観音像と供に奉納もしています。

その年、30才になった千姫は勝姫を連れて11月に江戸に戻ります。

しかしそこには、愛する人達を次々と奪われ打ちひしがれた千姫を慰めてくれる母はいません、落飾し仏門に入り天樹院となります。

愛する夫・忠刻、息子・幸千代、悲しくも自刃に追い込まれた秀頼、お市の方、淀殿、近くに居て優しくしてくれた従妹・勝姫、いつも遠くで見守ってくれた母・お江、その人たちを偲び、弔い、唯一人残った心の支え・勝姫が嫁ぐことになるまで一緒に暮らし、静寂の中で時を過ごします。

千姫は一人娘が嫁いだ後、その身を心配して度々書状を送っています。

大阪城が落城した時、千姫が養女として助けた秀頼の息女は7才で鎌倉・東慶寺に入り天秀尼となります。

東慶寺は女性擁護のお寺となり、天秀尼が尽力して当時離縁が出来ないで苦しんでいた女性を助け、千姫も多大な援助をしています。

今では縁切り寺としても有名になっています。

優しい性格で周りの人たちに可愛がられ、父秀忠が亡くなった後も、弟の第三代将軍家光に守られて穏やかに、祈りの日々を過ごしました。

千姫が亡くなったのは1666年2月、享年70才でした。


現存する千姫姿絵です。

千姫の墓所、茨城県常総市にある弘教寺(ぐぎょうじ)に収められているもので。作者や製作された年代は不明で、その構図などから江戸時代初期に描かれたものとされています。