昭和12年4月9日、東京~ロンドン間16,000キロを94時間で飛行し、スピ-ド世界新記録を樹立した。「神風号」の雄姿です。

高速連絡機として三菱重工で製作された試作2号機を、朝日新聞が使用して速度記録を狙うと共に英国皇帝ジョ-ジ6世の戴冠式に参列し、その報道写真と原稿を持ち帰るという目的で飛行計画が実行されました。

フランス航空省はパリ~東京間100時間以内の飛行記録に対し懸賞金を出していて、過去4回フランス人が挑戦していますが全て失敗しています。

操縦士は飯沼正明、26才、民間のパイロット養成機関「逓信省航空局陸軍委託学生」出身。

航空機関士は塚越賢爾、38才、「逓信省航空局委託機関学生」 出身。母親はイギリス人。二人とも朝日新聞航空部に所属していました。

4月1日、羽田飛行場で皇族・朝日新聞会長・社長以下全社を挙げての出発式が催され、場所を移して滑走路が長い立川飛行場から出発し一路台北を目指しますが、悪天候に見舞われ、通信機も故障してしまいます。

二人は飛行を強行しなければならないというプレッシャ-と戦いながらも勇気を出して引き返します。

二回目の出発は4月6日、香港を通過後、南シナ海では雲中飛行のため海面すれすれをものすごいスピ-ドで脂汗流しながら飛びますが、その時の様子を飯沼氏は手記「征空一万五千メ-トル」に書いています。「海南島沖にかかる頃は霧さえ伴い視界は全くない。海南島沖までの緊張した飛行は全く思っても恐ろしくなる。・・・・汗びっしょりで堪らなく苦しい。体も疲れて来た」

ベトナムのハノイ到着、その後は隣の国ラオスとの国境・安南山脈越えで、今度は悪気流と雷に襲われながらもやっとの思いでラオスの首都ビアンチャンに到着し一日目を終了。二日目の朝出発しインド東部の都市カルカッタに到着、そこで給油し出発しようとしますが、カルカッタ・ダムダム飛行場では当局から滑走路の長さが900mと聞いていたのに、実際眺めてみると700mぐらいしかありません。

そこで積み込んだ燃料を一部おろして離陸しますが、「草が深く横風のため離陸困難、危うく立ち木に翼をかけようとしながら辛くも神風は離陸した。全く恐ろしい一瞬であった。疲れも眠気もすっ飛んで汗びっしょりになってしまった」と手記にあります。

2200キロを飛んでインド大陸を横断しインド西部の都市ジョドプ-ル空港で給油し、当時のインド領カラチに日没と同時に到着、二日目の行程を終了します。

在留邦人の家に一泊し、夜の11頃就眠、朝は3時に起床し朝食は一杯の紅茶のみ、明け方暗いうちに離陸し再び空の上の人となります。この時、宿泊先のご夫妻が見送りに来ていて夫人がその光景について語っています「暗い飛行場で、プロペラがまわり始めると、排気口から火がでるんですね。飛行機というのは、こんなに火がでるものかとおもったんですよ。でもその火がとてもきれいだったことを今でも覚えています。出発のときに、お二人に、お昼の弁当としてお握りを差し上げたんです。お二人とも大変喜ばれましてね」

そのおにぎりをカラチを出発してから6時間後に機上で食べるのですが、その時の事が手記にあります「波光るペルシャ湾三千メ-トルの上空で、握り飯を頬張る。正に天下一品の味である」    

行程三日目、カラチ~バスラ~バクダット~アテネと飛びます。

飯沼氏は「月世界の如しと誰かが喩えたそうであるが、全く望遠鏡で見た月世界の様に不気味なもので、青い草の色など何もない…いつ迄も続く赤土に、時間と距離の観念もうすらいでくるが、神風は相変わらずの健康を保持して、与えられたコ-スを正確に歩んでいる」と感慨深く神風号への愛着をこめて気持ちを綴っています。

他にも「神風と共に我らは元気旺盛」「神風を加えて三人、汗を落とし、お化粧をし八日早朝出発の予定」と、神風号はこの記録挑戦飛行を戦う友の一人となっています。

そして神風号はついに地中海に到達、三日目の終着地アテネ到着寸前「我らは欧州に入れり」と機上のメモ用紙に記しています。

アテネの山腹のホテルに泊まり身支度をして、翌日4月9日朝5時半離陸、四日目の最終行程となります。

イタリア空軍戦闘機の誘導でロ-マ、リットリオ空港に着陸。次にフランス、ル・ブル-ジュ空港に着陸し大勢の人達の大歓迎を受けます。

最終目的地イギリス、クロイドン空港には午後3時30分到着。

6000人以上の人達に迎えられ、最初のメッセ-ジを伝えます「I AM GLAD TO BE HERE」

イギリスでの神風の称号「DIVINE WIND」 所要94時間、実質飛行51時間の記録が樹立されました。

二人は色々な歓迎を受けますが、一番の感激に浸ったのは、ヴァチカン大学で神学を勉強に来ている留学生たちの歌う、神風号声援歌「桜は匂う日東の…」を聞いた時でした。「飛行の準備をしていた時のことを思うと、知らず知らずに泣けて来る。何くそっと力んでも涙が滂沱と溢れてくる。どうも恥ずかしかったが、二人とも挨拶さえ出来なかった」と述懐しています。

当時、朝日新聞に宮本武蔵を連載中だった吉川英治が「美貌なれ国家」というタイトルで寄稿しています。「政治や軍備では施し得ない無言の国威を、神風は、美貌な日本人をもって、欧州人の脳裏にふかく印象せしめたに違ひない」

事実、神風号もこの二人も美貌なる容姿でした。

日本に戻ったのは5月21日、大阪、城東練兵場に雨の中到着。そして日本中の大歓迎を受けます。

二人の次の目標は、東京~ニュ-ヨ-ク間無着陸飛行で、昭和15年にその機体A26製作計画が発表され、朝日新聞社内での開発の中心を二人が担っていきます。

設計主務は帝大航空研究所・木村秀政氏、製作は立川飛行機。

しかし程なく、昭和16年秋に陸軍によりA26製作中止が決定され、そして太平洋戦争へと突入して行きます。朝日新聞航空部は軍に徴用され、軍用定期便が始まり、二人はその仕事に従事するようになります。

神風号を含め、全てがこの戦争の渦に引き込まれ、そして散っていきました。

神風号は昭和13年に他の乗務員が大刀洗で着陸事故で大破。 

神風号操縦士・飯沼正明は昭和16年12月9日、11日と連日サイゴン・プノンペン間の軍用連絡に就いていましたが、11日昼過ぎプノンペン飛行場にて事故に遭い死を遂げています。

昭和17年4月、ド-リットルがB25を使って空母から発艦し初の日本本土空襲を行い、その報復が計画され、長距離機A26の製作が再開します。

航空機関士・塚越賢爾は昭和18年7月7日、このA26にてベルリン向けの連絡飛行にシンガポ-ルのカラン飛行場から少数の関係者の見送りを受けて飛び立ちます。

ベルリンでは8日に到着を待っていましたが、何の連絡もなく3日が経過し、燃料が尽きている時が過ぎても連絡は入らず消息を絶ってしまいました。

 

この戦争さえなければ、A26は西では無く、東の空に向けて飛び立ち、二人は摩天楼の景色を感慨深く眺め、アメリカの人達に迎えられて再び脚光を浴びていたでしょう。

 

所沢陸軍飛行学校跡地は現在、所沢航空記念公園となっていてC-46Aが展示されています。飯沼氏が大いなる夢を抱いて操縦の訓練を行ったところです

 

 

旧陸軍航空整備学校内に建立されていた少年航空兵像

 

航空公園駅前のYS11、A26と同様木村秀政氏が設計に関わりました

 

参考文献

「美貌なれ昭和・諏訪根自子と神風号の男たち」 

                     文芸春秋社刊 深田祐介著