Netflixで『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観た。

 

三島由紀夫の人生とその時代背景について、ざっくりと知ったうえでの鑑賞。一通り観終わって、印象に残ったことや感想を残しておく。

 

 

 1番驚いたことは、討論の場の雰囲気。

 

 

討論というと、相反する意見の持ち主同士が激しい議論を交わすために緊張感のあるピリピリとした雰囲気をイメージするけど、

東大駒場地区900番教室で行われた、三島由紀夫vs約1000人の学生という構図の討論は、その正反対。

 

「敵」となる立場である三島のスピーチや発言にも笑いが起き、実に平和的で建設的な議論が行われていた。

 

そもそも、「討論」に対するイメージが覆された。

相反する思想や意見をぶつけあう討論では、相手に敵意剥き出しで挑むのかと思っていたが、三島由紀夫の討論では全く違う。お互いに自分の意見に耳を傾け、自分の考えとは異なる点について質問で議論を深めていく。三島も学生の意見を最後まで聞き、批判や矛盾点の追求をするのではなく、それについて自分の考え方を述べる。

 

最近のひろゆきムーブが議論の強い人と認知されている風潮に嫌気が差していたが、こういう討論はとても良いと感じた。

 

 

 次に驚いたのが、議題の難易度の高さ

 

討論の雰囲気だけでなく、学生が三島に持ちかける議題の難易度の高さにも驚いた。

・三島にとって「他人」とは

・三島にとって「自然」とは

など

 

三島も学生の問いについてわかりやすく答え、その答えに対し学生とともに議論を深めていく。そのレベルがめちゃくちゃ高く、そういった議題について微塵も考えたことのない自分からしたら哲学的な内容にすら思えてくる。

 

三島の答えで印象に残っているのが、「他人」の認識についてだった。

(うろ覚えだから正確ではないが)他人に暴力を振るうことについての中で、三島は「縛られた裸の女が1番欲情を掻き立てる(海外の作家か著名人が言っていたことの引用)」と例を出した。

 

性欲と暴力というのは密な結びつきがあるのでこの例を出し、この縛られている人と自分との関係性の有無で欲情するかどうか(=暴力を振るえるか否か=他人と認識できるか)が異なると言っていたこと。

 

確かに、自分と関係性のないいわゆる「赤の他人」であれば、仮に亡くなったとしても気の毒には思うが、自分にとってのダメージはない。しかしそれが一度でも話したことがあり名前も知っている人だったら「悲しい」という感情が湧く。

 

赤の他人のことは記号的に「人」と捉えているけど、自分と少しでも関係がある人は「他人」ではあるが記号的な「人」とは異なる。

差別したり人に無慈悲な態度を取る人も、自分とは関係のない赤の他人だからそういうことをできるんだろうなと思った。政治家の身内贔屓も、国民=その他大勢の記号的な人でしかなく、本心ではどうでもいい、どうなろうと自分には関係ないと思っているんだろうなぁ。

 

 

 「国の運命と自分の未来」がシンクロするという感覚

 

三島ではないが、映像の解説パートで「10代や20代で戦争を終えた人は、知人や親しい友人を戦争で亡くしたのに自分が生きていることにわだかまりがあったり、国の運命と自分の未来(人生)がシンクロしている感覚があったのでは」と話していた。

三島が憲法改正を訴えていたのも、そのときの高揚感をもう一度取り戻したいという思いや「国のために人生を捧げること」を美学と思っていたのではないかと感じた。

 

そこから、今の歳を取った政治家(官僚)たちがやけに憲法改正を訴えていたり戦争したがるような言動をするのも、そうした思いが関係しているのかな?と思うなど。

そして、もし戦争となっても行動するのは自分ではなく記号的な「人」である赤の他人=国民なので、自分は痛みもないし、と思ったら最近の政治に関する違和感がかなりスッキリした。

スッキリしたくもないんだけど。

 

 

 新しい戦前にはしたくない

 

徹子の部屋で来年はどんな年になると思うかと聞かれたタモリさんが「新しい戦前になるのでは」と答えたことが注目されていたが、本当に「戦争」が身近になってきたと強く感じている。

 

国を守るための防衛費を増やすのは賛成だが、反撃能力(=先制攻撃容認)には反対。憲法改正にも反対だし、戦争にも巻き込まれたくない。

 

50年も前の三島由紀夫vs東大全共闘の討論を聞きながら、現在の自分の生活や情勢などにも通じるものがあったし、いろいろと考えされられた。

でも観てよかったと思った。