前回、シャーロックホームズの兄マイクロフトが、シャーロックの推理を手助けする場面について考えた。 推理力、洞察力の優れたシャーロックに対し、 物事を「俯瞰する」考えにより、新たな観点を助言できたと理解した。 「俯瞰」とは情報を全体的に把握し、 個々の情報の重要度を見極め、単純化して整理する思考法と考えて良いだろう。
この考え方を基に、古代史のヤマト王権への適用を試みた。 前回では、2世紀まで弥生時代の文明先進地域であった北九州から、3世紀古墳時代に入ると、突然辺境の地大和にヤマト王権が誕生することの違和感に関する考察が宿題とされた。
では古墳時代を「俯瞰する」とどうなるのだろうか。 九州から東北まで10万基とも言われる古墳が存在する。 大小様々な、そして円墳、方墳、前方後円墳など多様な形の古墳である。 このことは、どこでも誰でも経済力さえあれば古墳を築造できることを示している。 この分布状態から、古墳が権威の象徴として考えることは可能なのか。
このブログにおいて昨年8月7日付の記事で、巨大前方後円墳の工期算出を試みた。
成務天皇陵とされている佐紀石塚山古墳が天皇陵に指定されている古墳の中で、大きさは第10位となる。 ところが前方後円墳全体で比べると、第24位となり、14基の古墳が政務天皇陵より大きい。
ヤマト王権において権威があるとされる天皇の古墳より大きい古墳に、14名の天皇以外の人物が葬られていることになる。 この中には岡山県(吉備国)に2基、群馬県 (上野国)に1基の巨大古墳がある。 これらの情報を「俯瞰的」に見ると、古墳を政治的な権威や権力の象徴と想定するよりも、全国的に共通した葬送文化の広がりと説明した方が適切ではないだろうか。
奈良県にある箸墓古墳が現存する最古の前方後円墳とみなされている。 これが古墳時代、ヤマト王権の存在を証明する大きな根拠となっている。 しかし最古というのは「今のところそう考えられている」との但し書きがつく。 未発見の、あるいは破壊された古墳の中に最古のものがあるかもしれない。
別の観点から前方後円墳を考えた場合、1人のデザイナーが前方後円形を発案した というより、連続的な変化の結果と言えるのではないだろうか。 例えば周溝に囲まれた円墳では、葬儀は周溝の外で行われる。 しかし被葬者の近くで見送りたいと希望する遺族により、円墳の一部に葬儀を行うために、ホタテの貝殻の形になった。 最近話題になった蛇行剣や盾型銅鏡が出土した富雄丸山古墳がこの形であった。 さらに葬儀に参列する人数が増えると方形部分が拡大し、前方後円墳へと変化したと考えることもできる。 最古の前方後円墳という見かけの表現や古墳の大きさにこだわるあまりに、古代の迷路に誘い込まれない方が良いだろう。
また漢字文化を「俯瞰」した時に、倭国に漢字が伝えられた史実を「日本書紀」に記された百済の王仁が「論語」や「千字文」を伝えたことをもって漢字伝来の初伝としている。 全くのナンセンスだ。 「漢倭奴国王」の金印とそれに付属するであろう書簡が史実における漢字の初伝だ。 その後「親魏倭王」の金印が卑弥呼に下賜されている。 倭の五王は、漢字の意味を理解した漢字一字名を名乗った。
このような漢字文化が大和地方で開花していたとは考えにくい。 古墳時代より200年以上後の飛鳥時代に編纂された「日本書紀」において、漢字の訓読みに注釈をつける訓注を必要とするほど、漢字の普及は遅れていた。 また拙著「いにしえの散歩道」にも書いたが、「王」を乱発する使用法も漢字の意味を理解していなかったといえる。
古墳時代を「俯瞰する」と、葬送文化や漢字文化において大和地方は決して先進地域とは認められない。 ヤマト王権という架空の統治権力を考えることにより、古代史を迷路に誘い込んでいる。