どんな人でも一つや二つは苦手な物がある。渉の場合は、高い所が"絶対的に苦手" なんて、程度の物ではなかった。

 お金を何億、目の前に積まれても、死んでもやりたくない仕事が「トビ職」だった。

 

 同じ苦手なものでも「水泳」は、今でも泳げるようになれたらな、と思うし、チャンスがあれば習ってでも泳げるようになりたいと思うが、間違っても高い所が平気になれる様に「訓練」しようとは全く思ってはいない。

 

 

        飛行機が大嫌いな〝空飛ぶモグラ〟

 

  渉には、大の苦手なものがあった。それは飛行機だった。

昔から高いところが大嫌いで、家の二階のベランダ位の高さの、女の子でも普通に渡れる「吊り橋」が渡れない程、高いところが苦手だった。そんな渉にとって、高度一万メートルで飛ぶ旅客機は最大の難敵だった。

 特に離陸が大嫌いで、これから空の彼方へ連れて行かれると思うと、念仏を唱えたくなる心境だった。

 津署は、水平飛行になる迄は、窓から外を見る事が出来なかった。そんな渉が月一~二回、往復八〜十二時間のアジアの国に出張でフライトする事等、武明社長が入社する迄は考えられなかった。まさかパスポートの書き換え前に増刷する寸前になる迄、国際線のお世話になるとは思ってもみなかった。

 

 実際に怖い思いをしたことは何度かあった。 何れもタイ出張の時だった。一度は乱気流に巻き込まれて、マグニチュード7の地震の様に下からズーンと突き上げられる様な状況になり、いきな天井から酸素吸入器がドーンと降りて来た時には、ああこれで一巻の終わりかと思った。

  またある時はスコールで、渉の乗ったユナイテッド航空より30分早く成田を飛び立った、カンタス航空のジャンボが辛うじて着陸出来たが、ユナイテッドは一度着陸をトライしたが降りられず、その後バンコクの上空を何度か旋回した後、2~30キロに感じられるような〝ゆっくり〟としたスピードで何処かへ向かい出した。

 

 暫くして機長から「この飛行機は○○に向かっている」とアナウンスがあったが、知らない地名だった。それから30分も経った頃、飛行機はどこかの空港に着陸した。  

 燃料があまり残ってないからか、エンジンが切られた。それと同時にエアコンもストップし、機内はすぐさま〝蒸し風呂状態〟になった。

 気晴らしに窓の外を見ると夕暮れ時、オレンジ色の光を浴び、遥か彼方に戦闘機らしき機体が逆光を浴びて黒く見えた。どうやらここは軍用飛行場の様だ。

 

 うだるような暑さから解放され、バンコクのドンムアン空港に向かったのはそれから二時間後であった。時刻は夜の9時を過ぎていた。

 

 何と空港の税関を通過するのも、スコールが止んで一遍に多くの飛行機が集中して着陸した為にごったがえしていて、空港のロビーに出て来られたのは、夜中を過ぎていた。

 この一連の事にも驚いたが、それ以上に驚いたのが迎えに来てくれていたヤンさんが6時間も空港で待っていてくれたのであった。

 

 ヤンさんとは初めてバンコクに来た時に、一日がかりで市内の旧所名跡を案内して貰って、お互いの家族構成や子供の事等も片言のタイ語で会話をして気心の知れている仲とは言え、まさかのまさかであった。

 長く待った事等おくびにも出さず、いつもと変わらずニコニコ笑って出迎えてくれたヤンさんの人柄に渉は感服し、そして感激した。そこでヤンさんが勤務しているジュエリーメーカーの社長さんへのお土産で持参したモロゾフのチョコレートの包みを一つ、旅行鞄から出して「5人のお子さんに」と言って差上げたのだった。

 

 そしてとどめのフライトがイタリア出張であった。エールフランス機で日本を飛び立って北回りルートでロシアの上空をずーっと飛び続け、パリの「シャルルドゴール空港」でアリタリア航空にトランジット(乗り換え)する、危険極まりない北回りコースだった。

 もうそれはある意味、「地獄のフライト」であり、渉にとっては、社長の虐めとしか言いようのないものだった。行ったら移住する事にでもならない限り、必ず帰って来なければならず、泳げない渉は、せめて帰りは船で帰って来たいものだ。とも云えず、出発寸前まで悪あがきをして何とか誰かに代わって貰おうと画策したが駄目だった。

 

 仕方なく諦めて秘書から受け取っとたチケットを見てまた心が暗く成る始末。そのチケットは夜の便で、まさに暗黒の世界であった。ロシアの国土は真っ暗で何も見えず、だから余計に怖い。みんな笑うかもしれないが、ロシアのレーダーが旧式で軍用機に間違えられて撃ち落されるのではないかという恐怖があった。バイカル湖がある上空を通過した時、湖の周りにほんの少し明りが見えた時は、そこでロシアの人達が生活しているんだと思ったらちょっとだけ落ち着けた。その後は目を瞑り、暫く寝る事に徹した。

 次に目が覚めたのは、まわりの乗客から「ウワーッ」と歓声が起きた時だった。みんな窓の外を見ていた。そこにはパリの街が明るい光で照らし出されている情景が飛行機両側の窓一杯に広がり、まるで光の海の様に渉の足元に一枚の絵となって光り輝いていた。

そして今そこにエールフランスの飛行機がランディングしようとしているのだった。飛行機が左右の翼を上下させて飛行機の向きを変えながら降りて行くと、身体に大きな「G」が掛かるが、それが逆に心地よく感じ、最高に至福の時だった。

 やがて飛行機はフワッと夜のシャルルドゴール空港に降り立った。さすがフランスのパイロットの操縦は淑女をエスコートするように優しいと感じたのは渉だけだったろうか。

 そこからアリタリア航空の100人乗り位のイタリア語が飛び交う満員の飛行機でミラノの「リナーテ空港」に着いた時もまだ宵闇に暮れていて、日本と全く違う景色に「なるほど、これがヨーロッパか」と思った。

 日本や香港では当たり前の「電飾で飾られた看板」は全くなく、12月だというのに市街地に入る迄、クリスマスの飾りつけもなく、真夜中に到着したローカルの空港宜しく、明るいのは空港から外へ出る通路の両脇に数枚あったアパレルブランドの電飾の看板位で、空港前のロータリーも狭く、タクシーもいつでも乗れる程お客も少ない。 

 タクシーから見える街も暗―い感じの街並みがずっーと続き、反面こんな夜更けにオペラかカンツォーネを今にも歌いだしそうな元気でテンションの高い、よく喋るタクシーの運転手のイタリア語の洗礼を受けて、渉はホテルに入ったのだった。

 

 

 それが36歳の時で、それからの仕事は、アジアのタイ、台湾、シンガポール、そして支社のある香港と日本を毎月行ったり来たり,約5年。まるで商社マンの様な環境で仕事をし、最後は成田の飛行場が見えてくると「あーぁ、明日からまたウサギ小屋の自宅と会社を満員電車に揺られて行ったり来たりするのかと思うとウンザリ」という心境になるのだから「慣れ」とは、恐ろしいものである。

 

 〝空飛ぶモグラ〟にとって飛行機は最後まで慣れる事はなかったが、生活習慣というものはおそろしいもので、毎日ベンツでホテルと会社の間を送り迎えされ、食事も接待で毎日おいしい物を食べ、きれいな女性のいるBARでお酒を飲む。なんてことが続いたら、それはそれは日本にいて、居酒屋でお酒を飲みながら夕飯を食い、その後で新宿や錦糸町界隈の薄暗い店内できれいなのか、ブスなのかが良く分からない女の子がいる安いクラブで、締めて1万円なんて言うシミッタレた生活はもう嫌だと思わせるほど、魅力的な海外での仕事。「これぞ世界を股にかける」という生活は一度嵌まると中々抜け出せない。

 

 

 イタリア出張から一年が経った頃、渉の体に異変が起きたのだった。37歳の時、胸のあたりに比較的大きな発疹を見た。この頃から首から下に発疹が出て、毎日38度越えの熱が出て、その後大学病院に検査入院で42日間の拘束受けるのである。

 

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次回の投稿は来週の火曜日になります。

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