今回は、会長とのやり取りの会話が続く部分が読みどころです。渉が会長をどうやって怒らせない様に、話を繋いでいったのか。

 当時、電話や会長室に呼ばれて、色々と教わった事が懐かしく思い出され、初めて面と向かって会長に自分の気持ちをぶつけたくてもぶつけられない、「渉のふがいなさ」を感じ取って頂けたらと思います。 

 

 

      会長と社長の確執の狭間で

 

 二年目のD社の業績は、S社への商品供給部隊の利益で何とか、P/L(損益計算書)上では黒字で終了した。

 B/S(貸借対照表)では在庫の金額が資産上の大半を占めた。CD社のジュエリーの一部以外は、今後の販売が難しい商品=デッドストックばかりで、資金繰りが初年度からキリキリ舞いの状態となった。

 経理担当の中橋さんは、普段はヒョウヒョウとした感じの人だが、毎月の役員会で会長から「もう金は出さんぞ」と言われ、唯一の助け舟を出してくれるはずのS社銀行から見放されたらどうしたらいいのか、そのときばかりは途方に暮れた顔になった。そこに追い打ちを掛けるように、USドルの先物が円安に振れるとまさに半年先の輸入資金が底を突く有様となった。

 D社自体が、東シナ海に沈みかねない状況になったのだった。

 

 そんな状況でありながら、D社の役員連中は毎晩のように飲み歩いている。それがW大学文学部を卒業して作家になりたかった会長が、終戦後、家族を食わせる為に己の夢を犠牲にして、初めは仕方なく家業の布団屋を継いでは見たものの、負けん気の強さは人一倍で、どうせやるなら一介の布団屋で終わりたくないとの思いが募り、並大抵の苦労では成し得なかった事を、息子を始めとした同年代の役員に、少しでも良いから理解して欲しかったのではないか。

 だから、本当の苦労を知っている会長には、若い我々の行動が許しがたかったのだと思う。

 

 そんな会長から、渉は

「お前さんは、あのじゃじゃ馬の手綱を

もっとしっかりと持って、たしなめて貰わないと困る」。

と電話でそう言って叱られる。

「はあ、済みません」と謝りながら、

(自分で言って下さいよ)と思う。

 

 特に役員会議で会長と社長が言い合い(=親子喧嘩)になると、

「お願いだから何とかして」と、

他の役員がみんな渉の顔を見る。

 

 ある時も、会議の途中で言い合いになると、怒った会長が

「それなら勝手に君たちでやれ」

といって席を立ってしまい、小会議室から社長を含め、皆一旦は退散するしかなかった。

 

そうして、暫く時間を置く。そのうち社長が

七海(なみ)さん、どうする。俺、夕方四時迄には

 成田行きのスカイライナーに乗らないと」と言い出す。

 

仕方なく会長室のドアをノックする為に、5Fの秘書室へ向かう。すると「会長カンカンよ」と秘書。

そうは言っても何とかこの状態を打開しなければと思い、電話で取り次いでもらうと、

 

「どうぞ。ですって」と冷たく秘書。

恐る恐る会長室のドアをノックすると、中から

「はい」とドスの利いた低いしわがれ声で会長が返事をする。そおっとドアを開けて、中に入ろうとした瞬間、

 

「君は一体、何をしに来た」と、(のたま)われた。

一瞬、ビクッとするが、勇気を奮って

「会議が途中で終わってしまったものですから、

続きをお願いしに」と言うと、

「会議を中断させたのはお宅の社長だ」

「わしは中断しろとは言わなかったぞ」と

親父さんは親父さんで駄々っ子のように、暗に息子が悪いと言いたげだ。

「誠に申し訳ありません。社長も申し訳なかったと」と申し上げると

「社長がそんなことを言うか? 言うわけがない。

どうせ、お前さんが頼まれて来たんだろ」

「いいえ、社長はそうおしゃいました」

(実は、社長はそんなことは言ってない)。

「早く会議を終わらせて、夕方から香港出張だ。

 五時迄に成田に着かないと間に合わない」とか何とか、勝手なことを言っている。

 

僕の心の声=(いい加減にしてほしい。この親子のお陰で寿命がドンドン縮まっていく)

 

「何なら社長抜きで会議をしてもいいんだぞ。

 どうせ、奴さんは香港に行きたいんだろ」と会長。

「いえ、社長抜きでは外部販売の売上計画が・・・・・」

「お前さんが分かっているんだろうから

 君が社長に変わって発表すればいいじゃないか」

「いや会長、それでは議決が取れません」

「社長は自分が作った計画書だ。 

 賛成に決まっている」

「しかし、議事録に社長の発言が一言もなしでは

 議決したとは書けませんし、それは通りません」

 

 この物言いは、会長が常日頃から言っている常套句だった。話している内に、これが会長の気持ちを軟化させる武器だと思い、その時のタイミングでどこかで使おうと考えていたが、やはりこの「議事録は正確に偽りなく作成すること」という会長の言葉を、会長自ら放棄する事は出来まい。フフンどうだ。参ったか。

 これは効いた。会長の気持ちを会議続行の気持ちに傾けさせたと感じた。まさに図星の大当たりだった。と思った矢先にまた駄々を捏ねられた。

 

「会議をしてくれと言ったのは社長だ。

私は別に今日どうしてもということはないぞ」

「一体、君は私にどうしろと言うんだ。

 椅子を蹴って出ていったのは君らだぞ」

 

僕の心の声=

(「こんな気分で会議を続けることは、不愉快極ま

 りない」と言って席を立ったのは、会長じゃない

 ですか)。そして次にこうも思った。

(こりゃ無理だ。さっさと戻って社長に「会長はご立腹です」と言おう)と。

その後も話し合いはギクシャクしたが、

「・・・・・・・・」。

「・・・・・・・・」。しばらくの沈黙があった。

 

「分かった。今回は、

 お前さんの顔を立てて会議に出席しよう。

 但し、時間はエンドレスだ。

 たとえ、香港行きの飛行機に

 間に合わなくなっても、  

 終わるまでは誰も中途退室は認めない」

(ほっとしたと思ったら、また意地悪な難題をぶつけ てきた。親子良く似てひねくれ者同志だ)と思ったが、とにかく会議が再開される。

 

「ありがとうございます。

 では、早速戻って皆に伝えます」

「もう、昼飯の時間だ。

 午後一時の集合でいいだろう」

「いえ会長。食事しながらでお願いします」

(ここで香港出張を持ち出したら元の木阿弥だ。

 そこで、もう一つの「掛け」に出た。)

「会長、この間のカレーライスに 

 されたらいかがですか。

 食べてみたいとおっしゃっていた。

 今日は間違いなくやっているはずです。」

「おお、そうだそうだ、それが良い。

 そうしよう。秘書にいって買って来て貰おう。

 全部で六つ?七つ?」

「私と、秘書で買ってきますから。

 それでは行ってきます。ありがとうございます!」

「皆に食事をせずに、会議室に入るよう

 秘書に電話するように伝えなさい」

 

やっと一件落着。もう本当に疲れる。どうしてこんな風に親子の間を取り持たなければならなくなったのだろう。結局、悪いのは自分。渉は〝八方美人的な性格〟。故に道化師のような役割を演じていた。会長と社長の中を取り持って。

 

 

 同期入社のジュエル担当の山里は、会長にも、武明社長にもハッキリ物申すタイプで、一度やはり会議で会長が言った言わないで山里と言い合いになって、周りがハラハラしたが、結局会長は、「そうだったけかなぁ。でも山里君が云うならきっとそうなんだろう」と軍配は完璧に山里に上がったということがあった。その山里は転籍から3年目に、自身でやりたいことがあると云ってあっという間に、退社してしまったのだった。渉は山里と比べると、やはり、会長の事を尊敬していて、会長が「こう」と云えば、それ以上は何も言わなかった。

 そういう意味では、信長のお側役の平手長政のようだ。

(平手には理由が諸説あって不明だが自刃している。俺もそうなるのだろか?)と思った。今のまま外部販売の売上が上がらないようであれば、片棒を担いでいる役員としては自刃せざるを得ないであろう。

 

 D社で約7年、渉はある意味「耐える事」を教わった。それは、若い頃は信長に睨まれ、その後秀吉が亡くなる迄、じっとがまんして「耐えて、耐えて、ホトトギスが鳴くまで待った」家康の様であった。

 

 

本日も最後まで読んで頂き、有難うございます。

次回は今週の金曜日、28日です。

どうぞ宜しくお願い致します。