つい先日迄、病院に入院していた渉が、今週からは仕事の現場に復帰した様な感じになってしまいましたが、小説を「昭和編」と「平成・令和編」に分ける予定です。
つまり本来の「本」という形にすると多分800頁を越え、読者が私と同年齢の方が多い為、フォント(字のサイズ)からしても二冊(二部構成)にした方が良いだろうという事から、第四章(昭和52年~平成14年)が分断されました。
さあ、ここから暫くは渉の仕事っぷりを読んで頂く訳ですが、あの城山三郎ばりの書き方が出来れば、読者の興味が引けるのですが、まずは各項のタイトルの付け方からその雰囲気を出して行けたらと思います。
子会社への転籍、そして役員へ
渉は、1989年(平成元年)S社から、郷田武明さんが立ち上げたⅮ社へ副長(支店長と同等格)として転籍した。
S社の社長である郷田武夫氏が会長となり、息子の武明氏が社長となった。
その部下としてジュエリー担当:山里加寿夫、アパレル担当:七海渉、総務担当:宮地亮、そして経理担当:中橋均という入社10~12年、S社の中堅社員がリストアップされてD社の中核の社員として配属された。そしてその年の学卒の新入社員の大半がⅮ社に配属されて来た。後はそれ迄、宝石・アパレル事業部に今た社員がD社に配属され、何だかんだ社員数40
名の会社になった。資本金は1000万円。取引先銀行は第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)=S社(親会社)銀行である。
旧態然とした組織販売の売手、リテーラーが限界に近づいて来た感がしてきた矢先に、渉は子会社への転籍を目前にして新たな希望を持った。仕入れ・製造&卸しのホールセーラーという流通部門の仕事に就いて意気揚々としていた。
その時の総務部長から、S社時代の退職金を受け取るか、そのままにして継続するかを尋ねられ、即答で「継続で構いません」と返事をした。が今思えば、その時貰っておけば良かったと思った。なぜなら、渉は48歳でS社を退職するが、色々あったのかどうかは定かではないにしても、退職金は結局貰えなかった。
25年働いて慰労金という名目で100万円を貰っただけだった。少なくてもこの転籍時の退職金は当然だが100万円以上あったと思う。
まあ愚痴はこれ位にして、会長が、これは渉の自惚れかも知れないが、息子の武明さんと渉を将来S社の〝双頭の鷲〟にするつもりで張り合わせようとしていた様だ。
一度、会社の傍の天ぷら屋さんで会長と社長と渉の三人で食事をして帰った時、終電が無くなり、会長宅に泊めて頂いた事があった。
その時、武明社長と先々のD社の方向性の話になり、どんな事で意見が割れたのかは覚えてないが、会長がそれを聞いてて「いいねえ。もっとやれ」と言って嗾けて喜んでいたが、会長がその時話してくれた内容が、S社に纏わるD社の将来の立ち位置が非常に具体的な形で表現されて、僕ら二人と、その同世代に次のS社を作って貰いたいと思っているのが分かって、身が引き締まる思いがしたのを憶えている。
今思うと、バブルがはじけ、世の中が不景気に突入していく傍らで、アパレル産業中心にヨーロッパのデザイナーズブランドは余り落ち込まず、ジュエリーの売上も思ったほど悪化せず、世間が声高に喧伝していた経済の負の恩恵から、D社が携わる商品群は逃れられたように思えた。
しかし、問題はもっと身近なところにあった。それは武明社長の資質を、このS社には正月に前時代的慣習が残っていたことから、武明さんがオシメをしてた頃から知っている役員が、陰で彼を余り良く言わず、さらに僕達S社から転籍した社員にも色々の事を吹き込んだ為、僕らもつい、最初からそういう目で社長を見ていたところがあった。見た目のルックスは今でいう「イケメン」で、商社にいただけあって英語も堪能。父親から「社長帝王学」を学んだだけの事はあり、経営の資質、風格もあった。
この年秋に、イタリアのローカルアパレルブランド「AE社」や、ドイツのジュエリーメーカーブランド「CD社」の日本での販売権を獲得して、ヨーロッパ出張から武明社長は帰って来た。
AE社の商品はソフィア・ローレンと言った女優が着たら似合うようなデザインが多く、ドイツのジュエリーも艶消しのシルバー製品の様なジュエリーで、到底S社の顧客の体型と感性では、双方共受け入れられない要素の商品だった。
S社の役員や本部長連中は、遠回しに彼を非難した。当時、武明社長と呑み友達として親しかったS社の碓氷本部長が、一生懸命自分のおひざ元の北関東の展示会に出品してくれたが、S社の顧客の年齢では販売は難しかった。
これらのブランド品は、当然S社の顧客向けに輸入したものではなく、個人経営のブティック向け卸商品として、またジュエリーは大手問屋筋(HD貿易、CZ時計、OS商会他)向けのものとして仕入れたのであって、勉強不足でセンスのカケラもないS社の役員が云っている事は無視出来たが、会長から年二回の大型展示会に「出品しろ」と云われれば、嫌とは云えない。
「腰の曲がったブランドの「ブ」の字も知らないお客に紹介しても意味がない」
「お客も商品も双方とも傷つくだけだ」。武明社長はそう言って悔しがった。
だが、何れの商品も専門家筋の評判も良くなかった。 AE社の婦人服はデザイナーがドイツ人女性の為か、サイズが大きい。色使いが大胆で、生地もジョゼットのような薄いものが多く、身体の線がはっきり出るものが多く、欧米人好み。またカクテルドレス等、パーティーの習慣がない一般の日本人には着て行くところがない。所謂日本女性の「TPO」に合わないプレタポルタだった。
CD社のジュエリーも、元来シルバー製品を得意とするメーカーの為か、金・プラチナを使った商品も高価に見えない。ジュエリーも結局、あてにしていた大手の取引先から、小さなジュエリーの取引先までこまめに回ってみたが、一向に売れないどころか、委託でも借りて貰えないという有様であった。
元々D社は資金力のない子会社の為、そんなに大きな商い(仕入れ)は出来なかったが、売上が積み上がらない代わりに、初年度で在庫の山が積み上がっていった。
これらの商品とは別に、社長が輸入した当時全盛期だったBOOKによる通販向けのバッグ・雑貨・玩具等を、大阪や神戸或いは四国は、香川県高松に本社のある大手通販会社にもプレゼンした。
当然だが、通販会社でも全掲載商品完売とはいかず、S社本社ビル地下二階にあった割烹料理店が閉店して座敷のまんま残っていたスペースを、D社の倉庫として家賃を払って借り受け、そこは通販向け商品の在庫の山、そして非常階段の8階から屋上にかけても在庫品の箱で満載になった。
そんな武明社長にさらなる不幸が。半期決算で600万円。月額100万円の接待費が使われているという報告が、S社の経理部長から会長のもとにあった。社長は海外出張時のみならず、日本にいても毎晩のように気の合う社員や取引先と飲み歩いていた。
しかしそれは、将来の人脈作りの為に酒席を設けていた事の方が多かったことを渉は知っていた。社長の息子さんの誕生日の日に、ドイツからわざわざCD社の
社長夫婦が見えて接待を余儀なくさりたり、ブティックの社長や店長年二回の大形催事の前になると、殆ど
毎日が接待が続いた。
経理部長は、顔に似合わず酒が一滴も飲めない下戸なので、報告書も相当辛辣な言葉でかいたのではないかと想像する。
また、S社上層部からの無言の圧力等で、愚痴をこぼしたくても零す相手もいない。そんな時に相手をしてくれるのが「酒」だった。渉は自分に置き換えて考えても、その気持ちは分からないでもなかった。
会長は毎月の役員会で「東シナ海辺りに600万円が沈んでいる」と。香港に支社を置いていた関係で社長に対し、こんなジョークでたっぷりと皮肉った。
D社は二事業部制を敷いていた。一つは親会社のS社が販売する商品を供給する部隊で、呉服以外の、宝飾、婦人服、毛皮・レザーコート、ハンドバック、寝具、カタログ商品を買い付け、親会社向けに卸しをする部隊。
そしてもう一方が社長が担当の新規事業=外部取引先向け卸し部隊に別れ、それぞれで事業展開をした。 渉は親会社S社の販売商品を仕入れる事業部の責任者であった為、間違いなく数千万円の黒字がでた。初年度はそれで良かった。
しかし、それ迄副長だった三人(山里、七海、中橋)が、二年目にいきなり役員に任命され、部長と言う役職を飛び越して常務となり、三十五歳で年収も一気に200万円以上増え、その翌年には〝夢の大台に乗る〟という経験は、
渉にとって〝アメリカンドリーム〟の様に思えた。
ほんの一瞬ではあったが、これが本当の意味で「
出世」の階段を駆け上るという事なのだと思った。
だが、役員になったという事はD社の経営責任が、報酬額と交換に、一気に圧し掛かって来るという事を意味していた。
本日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
次回は来週の25日(火)です。