今回の第五章では、渉が日本に1500人しかいない”希少な病である”「キャッスルマン病」に罹って、入院生活の中で起こる「やるせない事」や「泣ける事」等、患者を通して見て来た事を、感じたままに書いた章である。

 この病気は、現代の医学では治せない不治の病の為、数年前に国の「難病指定」となりました。

 症状としては、全身のリンパ腺が腫れ、熱が38℃以上出る病で、特徴的な事と云えば、蕁麻疹が身体中に出て、非常に怠く、治療としてはステロイド剤の投与を中心にした対処療法しかないのが現状です。

 

 また何と言っても患者数が少ない事が要因となり、専用の薬の開発は一切されず、文中にも出て来る「IL6」と云われる、リューウマチと同様のたんぱく質の異常発生による、自己の体に誤って攻撃をしてしまう、自己免疫疾患の病気でもあり・、膠原病の一種とも捉えられる為、渉が入院した大学病院では「血液内科」の先生と見解をともにした治療が続いています。


 この病気で亡くなる事はまずなく、元々一緒にされていた「悪性リンパ腫」や「多発性骨髄腫」という血液の癌に移行して亡くなる事が殆どです。 

 渉の場合は、+アミロイド―シスという心臓、腎臓等にアミロイドタンパク質が付着し、心不全,腎不全発症させて、死に至る病気になる可能性もあるので、定期的なエコー検査も行わなければならない、厄介な病気である事には違いない。

    

 

 

                第五章 キャッスルマン病と幸運

 

《目次》  

難病指定のキャッスルマン病

初めての入院

「ステロイド」という悪役

現役引退は避けられた  

職ナシの世界も捨てたものではなかった

番外編 「難病に打ち勝つ法」

 

 

     難病指定のキャッスルマン病

 

 病というものは、思わぬ時期に思わぬところからやって来るものだ。渉が初めて異変に気が付いたのは37歳の時。上の子の3歳の七五三のお参りの日だったからよーく憶えている。朝、起きて着替えを始めた時、ふと鏡を見ると左胸の上部に「赤い2㎝四方程のちょっと盛り上がった湿疹」を見つけ、思わず近くにいた奥さんに、

「なんか、こんなところに赤い発疹が…」

「エッ、どこ」

「ん?これ」

「あら、ほんとだ。痒い?」

「ううん、痛くも痒くもないけど、何なんだろう?」

「う~ん。分からないけど、オロナインでも塗っといたら?」

とこんな会話があった。

 

 暫くしても発疹は消えるどころか、少しずつ大きくなり、そして増えて行った。掛かり付けの医者に診てもらったが良く分からなかった。「風邪でしょう」と言われ薬を処方してもらった。

 それから凡そ5年が経過した頃、熱が出始めた。それもいつも38度以上の熱だが、少しだるい程度で、寝込むほどではない。そこで毎度の掛かり付けの医者へ。    風土病の可能性があるとも言われたが、でもやっぱりわからないので、先生が大学病院へ紹介状を書いて、予約を取ってくれた。

 

 少し不安がよぎったが、そんな大それた病気ではないだろうと、(たか)(くく)っていた。検診当日、ごった返す受付を済まし、指定された待合の前で待って辺りを見渡すと、実に患者の多い事か。    

 世の中にはこんなにも病気に悩まされている人がいるのかと、その待合の広さとそこに何列にもわたって置いてある、背もたれのない長椅子に腰掛けて待っている人の数に思わず圧倒された。ざっと見ても150~

200人位の初診の患者が、どこから湧いて来たのか思うほど、立錐の余地もない状態で自分の番を待ってい るのだった。

 1時間も待っただろうか。アナウンスで名前を呼ばれて中へ入ると、そこは中待合でそこにも6.7人の患者が待っている。世の中が狂っている絶対におかしい。

 月鼻のウイークデイにこんなに病人がいるなんておかしい。〝おかしい?おかしい?絶対におかしい〟と思った。

 そこでまた1時間近く待たされて、やっと診察室の中へ入った。

 

 もう、その先生の名前は覚えてないが、後に入院し、週一回の内科部長の回診で、病室に回って来て、その部長が検査データか何かを見て

「この人は病気ではない。早く退院させるように」と言った時に、

ベッドを挟んで反対側に居たこの先生が

「いえ、この患者さんはIL6の異常発生による、

 キャッスルマン病の疑いがあります」と譲らず、

ベッドで寝ている僕を横目に、大勢のインターンのいる前で言い争いになり、部長が怒って病室から出て行ってしまう始末。

 渉もその医者同士の危険なやり取りにハラハラドキドキしたが、その先生は

「七海さん。心配する事はないから」と言い残して

後を追うように足早に部屋から出て行った。

 

 入院当初からそんな事があり、退院した後も外来で、月に一回お世話になった。すごく親身になってくれた先生だったが、ある時突然、

「七海さん。私、今度開業する事になりまして、病院を辞める事になったんです」と言われ、一瞬思ったのがあの部長との確執で辞める事になったのではと心配したが、その後、担当医になった石川先生にお伺いしたところ、東京の葛飾区の方で開業して頑張っていると聞いて安堵した。

 

 さて話を戻し、診察室に入るとその先生は、掛かりつけ医が書いた病状をじっと読んで、暫くして顔を上げ、腰かけに座った渉に「本日、初診外来を担当しています膠原病内科の○○と言います」と挨拶をして問診が始まった。

 湿疹や熱がいつ頃から出始めたのか、出身地が関西方面ではないかとか、外国へ行ったことはとか。渉は覚えている限りの事を出来るだけ飾らず、そして正確に応えた。

 その後、聴診器を胸、背中に当て、そうして最後に

「ちょっとくすぐったいけど、我慢して」

と言われ、触診で脇の下、首周りを触られ、

表情には出さずに身体を(よじ)るようにして耐えていると、

「ここ、グリグリしているの、分かります?」

と脇の下を触診しながら言われ、そう言われてみればと思い、

「はい」と返事をした。

 

 それから先生は少し考えてから、おもむろにこう言った。

「七海さん。2週間位入院出来ますか?」と。

渉は「えっ」と言ったっきり、目の前で今、何が起きているのかも理解できない程、頭が混乱し狼狽していた。

 自分にとって「入院」とは、別世界にある言葉で、到底自分にその言葉が降り掛かってくるようなことは想像もしてなかったからだ。

 

 何て言葉を返したら良いのかも判らず

「ええその~、仕事が…」とか何とか口の中でしどろもどろ云っていると、

先生が、

「まだはっきりとは申し上げられないのですが、

 私の見立てが正しいかどうか、

 後は検査をしてみないと分からないので」と

言われ、

その頃になると僕の錯乱状態も、現実に戻っていて

「分かりました。では明日から」と言ったら

間髪を入れずに、

「いえ、出来れば今日から」と。強引にもほどがあると思い、

「いや~、会社に一度出て……」と言ったら

「検査の中で週一回しか出来ない検査が今日なので」

「今日ならベッドの空きもあるので」と言われ、

これは神様がそうおっしゃっているのだ。と自分に言い聞かせ、

「分かりました。そうであれば早速、家に戻って」と言ったら

「あと、お帰りになる前に、写真室で

 ちょっと蕁麻疹の撮影をしてから

 お帰り願いたい」と、まあ何とも初対面のこの先生は、間髪を入れず、独りよがりの相当、強引な先生だ

った。

 

 〝蕁麻疹の撮影〟って一体なんだ。

と思ったら、右腕の皮膚の一部(1㎝四方程度)を麻酔をして削ぎ取られ、精密検査にまわされ、後はそれこそびっくりしたのだ。

 写真室と云っても街の写真館にあるようなスペースを想像していたら、その十数倍も大きな、本当にモデルさんが撮られるような写真室で、天井の高さが5m、スタジオの広さが横10m、奥行き7.8mはあろうかという本格的なもので、パラボラアンテナの様な傘をひっくり返したものがいくつもあり、天井・壁・床はオール白。そして天井には黒いカバーのライトが無数。

 まるでレコードのジャケットの写真撮影も出来そうなスタジオで、上半身裸で桜吹雪の様な大き目の蕁麻疹の花が満開の前と後ろ、そして横とを、バチバチと撮られた。

 条件は「顔は写さない」「医学専門書に掲載する」とその他にもいくつか書かれた書類にサインをし、芸能人若しくはミュージシャンのカバー写真よろしくスター並みの撮影に臨んだのであった。

 

 そうして家に戻ったのが午後2時。奥さんには病院から電話を入れ、入院の準備をしておいて貰い、それから昼食を摂り、会社(D社)に電話を入れ、社長にまず話をして、割とすんなり了解を得た。そして会長に繋いで貰おうとお願いしたら、会長は本日接待ゴルフでいないとのこと。そうしてパジャマや歯ブラシなど必要なものを持って奥さんと一緒に家を出たのが3時過ぎであった。

 

 

 今回も最後までお読み頂き、有難うございました。

 

 この第五章の第1項は、昨日早朝に寝床より投稿するも、その時は1名の方の「いいね」が早速つき、これは幸先が良いぞと思っていましたが、その後「いいね」をくれた方が一人もないまま、うっかり「消去」してしまったようです。


 本日再投稿を行いましたので是非お読みください。

第五章は、書いた作者自身も一番好きな章なので、是非多くの方に読んで頂けますと幸です。


次回の投稿は17日(金)に行います。

どうぞ宜しくお願い致します。