四日市営業所から、3年9カ月ぶりに地元に戻り支店長という、営業所より規模の大きな支店の店長として、赤字店の黒字化が出来るか否かを試されることになった。

 しかしそれは3年間にとどまり、渉は、郷田社長の一人息子の武明さんを社長に据えた子会社のD社に転籍する事になった。そこで郷田社長は武明さんと二人三脚で、切磋琢磨して、明日のS社の原動力として渉を鍛え上げようとしたのだった。

 

 

     支店長というポスト

 

一九八四年(昭和五十九年)僕は三十路の入り口に立った、五月の連休前に実家に戻り、D市にある支店の支店長になって連休明けに出社した。この支店は、ここ数年赤字が続いている営業店でその立て直しを任されたのであった。規模は支店長と事務の計八名で、月度の売上目標が25,000千円。

まず、この支店の現状から自分なりにP/L(損益計算書)をチェックし赤字の原因を探った。見えてきたのが、まず古参社員が多いので、人件費が異様に高い事。結論は一人当りの生産性を上げる事。そしてもう一つの重要なポイントは支店長も担当を持ち、生産者になる事だった。

試算上はこの二点が上手く回れば、十月の決算ではトントンになると予想されたが結果は2,500千円の赤字で終わった。

D市の支店では三年間支店長として頑張った。二年目は売上、利益目標とも前年を下回り、三年目は課長が一人辞め、自分で個人事業主になったため、課長が担当していた地域を渉るが引き継いで、

 

    今回も最後まで読んで頂き有難うございました。

本来であれば、この先もこの第四章の冒頭に記しました目次の様に、

12項迄あるのですが、7項の途中で《昭和編》が終了します。

従いまして、残りの第四章の7項~12項迄は《平成編》とし、

第五章の終了後からまた引き続き投稿致します。