この項は途中で消えてなくなってしまった為、本来順番からすると「四日市時代」(第四章  第5項)より一つ前の項であるが、敢えてこの項を今一度投稿し直すことにした。

 

     全国城めぐりと「織田信長」

     

 渉が学生時代、妹がテレビに出た。「現代のお姫様」とか何とかいうタイトルで今は亡き高橋恵三さんが司会のTBSの番組だった。

番組の内容はともかくとして、それに触発されて、山岡荘八の「徳川家康」全26巻を制覇し、その後も同じ山岡荘八が書いた「織田信長」「豊臣秀吉」を続けて読破した。そうこうしている内に、今度は城に興味が湧き、新人物往来社が出版した「日本城郭大系」全20巻(一冊6800円)を全巻購入。それは今でも渉の書籍ライブラリー中でも、一番費用の掛かった購入品であった。

 

 そうして渉は本格的に全国の城を見に出掛けた。北から弘前城、盛岡城、仙台(青葉)城、会津若松城、高崎城、安中城址、江戸城址、小田原城、武田氏館跡、松本城、上田城、高島城、小諸城、大垣城、岐阜城、岡崎城、犬山城、小牧山城、掛川城、浜松城、駿府城址、名古屋城、伊賀上野城、津城、安土城趾、彦根城、二条城、大坂城、小倉城、熊本城など30カ所の城に出向いた。  

 このうちの大多数はS社に入社して最初の2年で制覇した。あと現存の十二城で行っていないのは中国地方と四国地方の城を中心に、姫路城、備中松山城、松江城、丸岡城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城の8城であり、その中でも姫路城は最低3日は掛けて見に行きたいと思っている。

 

 特に今迄に行った城郭や城址で一番良かったのは「安土城址」だ。

戦国武将で渉が一番好きな「織田信長」が建てた城で天守閣を居城(住まい)にした本格的な城郭であった。ここを訪れたのは1980年(昭和55年)の1月。野面積みの石垣だけが残る城跡だが、うっそうとした木立の中で深呼吸をすると、「ああ、僕は今信長と同じ空気を吸っている」と思い、400年前の時代にタイムスリップしたような気がして、燃え(たぎ)る城を想像して逃げ惑う女官や子供達の声まで聞こえてきそうな位、リアルな情景が瞼に浮かぶ。ここに残る石垣の石の中には焼けたと思われる赤み帯びた石もある。

 信長はこの時、既にこの世のものにあらず、安土城消失の13日前に京都の本能寺で明智光秀に夜襲を掛けられ、焚け狂う火の海の中で自害している。信長は「本能寺の変」で誰が首謀者なのかを問い、小姓の森蘭丸が「明智光秀でござる」と応えると、信長は「是非に及ばず」と一言発し、つまり信長は謀反の首謀者が光秀と聞いて、これは相手が光秀では、「脱出」は不可能と察し、奥へ下がって部屋に火を放ちその中で切腹した。これは本当の話である。  

 天下を収める日がもう目の前まで来ていたのに悔やんでも悔やみきれない「無念」が残るのが普通だが、そんな事は意に介さず、後腐れなく「さっと、自ら命を絶ってしまう」。そうした死に方迄もが「カッコいい(=(いさぎよ)い)」のである。

 信長をリスペクトする理由はまだまだ沢山あるが、いま思い付いたものだけでもここに挙げておきたい。

 まず第一に、彼は本当の政治家だったという事。社会科の授業でも習った「楽市楽座」を考案し、それを実際に城下で行い、安土の町を発展させた。そして街道の幅を広くして人々の往来を増やし、自然と多くの人が集まり、住み着くようになり、町は益々栄えた。信長の事を悪く言えば「新しモン好き」、良く言えば「発想が豊か」という事か。

 そうして、外国という存在を知って、顔つきや目の色、髪の毛の色の違う人とも平気で交わった。どこぞの屏風絵には黒人が描かれている。また南蛮渡来の物を好んで身に付けた。ビロードのコートや地球儀等の品物を真っ先に取り入れたのも信長である。

 当時の時世が殺伐とし、さらに寺社仏閣が一向一揆に武士や軍師を雇い込み、武士に戦を挑んだりで酩酊していた。特に比叡山延暦寺の僧は自らが兵士となり戦い、信長はその一揆に手を焼いていた。

 

 そう言う中で信長からすると、ポルトガル人が持ってきた「まつりごと」から距離を置く「キリスト教」に対して彼は寛大であったし、ルイス・フロイスというポルトガル人を召し抱え、南蛮の事や貿易に興味を示し、外国の事を良く尋ねた。

 また、ルイス・フロイスが信長の日常や戦に出る前の作法などを細かく日記にして残した「日本史」は、当時の信長という人物を「素のまま」に書いた、彼の行動や所作・そして言動といった一連の行動を見た通り、飾る事をせずに書いた書物は、歴史書物としても非常に信用性の高い一級品とされている。

 信長は柴田勝家や明智光秀等の側近の家来衆には厳しかったが、草履取から出世をして来た羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に対しては「サル、猿」と言って徴用した。また、一般の人に対しても優しかったように思う。相撲が好きで「御前相撲」を城下の民衆の集まる所で取らして、自身も民に変身してその相撲を見る等、庶民に対して何気ない労わりの気持ちがあったのではないかと感じ、本来の信長は案外「人心掌握」の上手な人だったのではないかと思ったりもする。

 

 信長は幼い頃、腰蓑にひょうたんで作った水筒を腰にぶら下げ、野山を馬で駆け巡っていた。「(きち)法師(ほうし)」と呼ばれ、尾張一の「うつけ(=馬鹿、阿呆)者」と言われ、父信秀の葬儀に、そのままのいで立ちで現れ、改名の書いてある位牌めがけて、焼香の粉「抹香」を位牌にぶち投げて退散したというエピソードが今に伝えられているが、指南役を命じられていた平手長政はその後責任を感じて自刃している。      

 その時、信長は「爺―ッ、なぜ死んだ」と大声で泣きながら、その死に仮借の念をむき出しにして悲しんだという。信長にしてみれば、周りが何と言おうが父信秀はいつも信長の味方だった。また普段は口うるさい平手の爺も唯一信長の事を信じてくれていた。その二人が死んでしまって、信長は本当に悲しかったのだと思う。只、信長は悲しいという表現が上手く出来なかった為に、誤解を受けたのだと思う。

 結果的に野山を駆け巡っていたからこそ、桶狭間の戦いに今川軍25000基に対し、たった3000人の兵力で勝てた。それは桶狭間の地形を知っていたからこその事だし、その後の彼の戦に於いても必ず相手をやり込めるアイデアを以って戦っていた。信長という男は三国志で言う曹操と諸葛孔明を一人でこなした英傑なのだと思う。

 京都に入ってからも、信長の清貧な気持ちを表す出来事があった。それは天皇の御所の改修工事をしている時だった。ある職人が傍を通った女性に何か下品な振る舞い(今なら「よう、姉ちゃんオイちょっと顔を見せろや」というようなことを言って揶揄(からか)った)をした時、たまたま傍にいた信長の耳に入り、その場で一刀両断にその職人は信長に首をはねられた、そうな。

 

 このように信長が行った行為をいくつか並べただけでも「杞憂の天才政治家」であり「戦上手な軍師」でもあり、さらにその性格たるや「清貧」そのものであったという事は間違いない事実であると思いたい。僕はそんな信長が今でも大好きだし、相当のリスペクトを以って語ったつもりだ。

 城巡りをしていると‶現実逃避〟が出来、普段の猥雑な事柄から逃れられて、常にリセットが出来たので大好きになり、今でも旅行などで知らない城や、城址等を見附けると、忙しい時こそ、城内に入りたくなり、暫くそこで腰を落ち着けてしまう事がある。

 

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。