今回は信じられない様な事が置き、渉も「ちょっとこの人には付いて行けないな」という見離したくなる様な出来事を話そうと思います。


     初めての入院(筒井さん大暴れ)

 

 しかし、ここからが長かった。〝待てど暮らせど〟メインの病気の結果が出ない。

 まず一つは膠原病内科と血液内科の二つの科に渡って行われた検査結果の判断に時間が掛かった。そしてもう一つは阪大(大阪大学)医学部に送った生検の結果が遅れていた事。

 この二つが重なって結局42日という長い入院になってしまったのだった。郷田会長からも入院してすぐに電話を頂いて

「仕事の事は気にせずにしっかり診て貰って、

 ついでにゆっくり休んで来い」と言われたが、

中々出て来ないので林田総務部長を使いに出し、わざわざ2時間半もかけて本社から見舞いに来させた。

話はちょっと横にそれるが、その時貰って吸ったタバコがどれだけ美味かったか。3週間タバコを吸えなかった苦しみを知っている人なら大方同調してくれるだろう。

 

 もし二週間で退院出来ていたら、これからお話する本当にあった二つの珍事件にも遭遇しなかった。

 

 ある日、筒井さんから、今日は3時頃娘が美味しいおやつを持ってくるので、昼ご飯を全部食べない様にと言われ、何をおやつに持って来てくれるのだろうと楽しみにしていた。

 すると3時を過ぎた頃、どこからとなく蕎麦屋の良い匂いがして来るではないか。やがてその匂いが娘さんと一緒に我々の部屋に入って来た。

 その日、同部屋の岡本さんは、丁度外出許可が下りたので昼前に病院を出て自宅に帰り、もう一人の30代の方は、てんかんの発作が起きて二日前から一時、部屋を移っていて、渉と筒井さんの二人だけであった。

 娘さんが重そうに持ってきた四角いお盆は、どこから見ても蕎麦屋が出前の時に使う盆で、そこに新聞紙で覆った二つの丼ぶりが、おつゆをこぼして乗っていた。

「ええっ、筒井さん。これどうしたの」

「これか、匂いの通り蕎麦だよ」

「蕎麦だよって、これ蕎麦屋の蕎麦じゃん」

「うんそうだよ。この間、七海さんが

 退院したらてんぷら蕎麦が食いたいって

 言ってたから、娘に頼んで、

 病院の前にある「長寿庵」に注文して

 持って来て貰ったんだよ

 まあ、そんな事はどうでもいいから、

 さあ、伸びない内に早く食べよう」と

筒井さんが云っている傍で、娘さんが新聞紙とその下のラップを取ってくれた。

 部屋の外では他の病室のやじ馬患者数人が何か言っている。渉は後ろめたい気持ちと、ここは食べてあげないと筒井さんや娘さんの好意を裏切る事になるという思いもあって、蕎麦に目を移した。

 するとそこには、まるで宝石のように照り輝いて見える香々しき〝天ぷらそば〟があった。

 渉は娘さんに礼を言い、筒井さんに「頂きます」と云って、丼ぶりに向かって手を合わせ、まず深々と頭を垂れ、そうして両手で丼ぶりを持ち上げ、唇を丼ぶりの縁に持って行き、まず汁を啜った。その甘辛い脂ぎった汁が口の中で踊り、食道をわけもなく通過し胃に落ちた。それをもう一回繰り返した。この三週間というもの、塩気の少ない病院食にうんざりして、既にそのピークが来ていた。

その(よろこ)びと消化器の皮膚に蕎麦の汁が()()(さま)は、まさに〝五臓六腑に染み渡る〟という表現がぴったりで、この言葉を最初に言った人に〝大感謝〟して、次に蕎麦を啜る。

「ズズズッー、ズズ、ズッー」

もう無言。でるのは

鼻の穴から蕎麦の匂いをさせながら

「う~ん」と呻るのみ。

さあ次は、汁で衣がふやけた車エビに思いっ切りかぶりつこうと、汁で重くなった車えびの天ぷらを割りばしで持ち上げ、口を大きく開けて、いざ突進というところへ、白いナース服に二本の紺色の線が入ったナース帽を被った膠原病内科の看護婦長が入って来たのが天ぷら越しに見えた。そしてその後ろから筒井さんの担当医が、追いかけるようにして入って来た。

婦長が開口一番、

「筒井さん、何をしているんです!

貴方がやっている事、分かってるんですか!」

と前のめりの激しい口調で云い、そして

「どういうことなのか、説明して下さい」とさらに強い口調で云った。

その頃になると、部屋の外の通路にはやじ馬患者が十数人、中の様子を覗っている。

すると筒井さんは

「てんぷらそばが無性に食べたいなと

思ったから、看護婦に食べて良いか」って聞いたら、

「外出は出来ません。と言われたから、

 出前を頼んで娘に持って来て貰ったんだよ。

 それの何が悪いんだよ」と

筒井さんが婦長にからんだ。すると婦長が、

「ここは病室です。病室にお蕎麦屋さんの

 蕎麦を持って来させるという常識を逸脱した

 貴方の考え方が理解できません!

 何れにしても病室で勝手な行動をとる事は

 他の患者さんの迷惑になりますし、

 病院としての統制も取れなくなりますので

 そのお蕎麦没収します。いいですね!」と言われ、

それに対して筒井さんも反撃した。

「他の部屋で、お昼にカップ麺を

 病室で食べている奴がいて

 注意されず、なぜ出前の蕎麦はいけないんだよ?

 そっちこそ、それをきちんと説明してくれよ」と。

それに対して、こんどは担当医が

「筒井さん。貴方の言う通りだ。

 だけど、病院の正面玄関からここ迄約200m、

 病院中にずうーっと蕎麦の匂いをさせながら

 来たら、その匂いを嗅いだ人はどう思うだろね

 あっ、蕎麦の匂いがする。蕎麦食べたいな

 で終わらないでしょ。

 いいですか。筒井さん。ここは病院です。

 街中ではありません。

 病院の中は、蕎麦の匂いも、鰻の匂いも

 しないんです。いいですね」と。

多少説得力のある説明で、筒井さんも謝る寸前まで気持ちが動ていたのに、次の一言で筒井さんは娘さんがそこに居る事すら忘れ、猛獣の様に吠え、そしてぶち切れた。

「筒井さん、子供じゃないんだから

 勝手な事はしない様にして下さい。

 もし、もう一度このような事をやったら、

 次回は即、退院して貰います。いいですね。

 今回は特べ」担当医がそこ迄言った時、

突然筒井さんが

「ふざけんじゃねえ!

 このやぶ医者が偉そうに。

 退院?いつでもこんなへぼ病院

 退院してやらぁ!

 蕎麦食った位でガタガタぬかしやがって!

 食事制限はありませんといったのは、   

 どこのどいつだ。この野郎!

 嘘つき野郎のへぼ医者がぁー!」と、

遂に言ってはいけない、禁句の領域に入り込んでしまった筒井さんは、もう後戻り出来ないという窮地に追い込まれ、まだほとんど手をつけていない天ぷらそばの丼ぶりを、担当医の足元に投げつけたものだから、丼ぶりの破片と天ぷらそばの汁や残骸が、辺り一面に飛び散った。

 次の瞬間、白衣の前面に汁が飛び散った担当医と、一緒に来ていたインターンの様な若い先生に、筒井さんは抑えられ暴れられない様、羽交い絞めにされて部屋を出され、その後ろを娘さんが悲鳴の様な声を上げながら付いて行った。

 外の野次馬連中が、面白がって不謹慎な事を言っている事等は無視して、

 後に残された婦長は、「ふぅー」と溜息をついて

「七海さんも、

 なぜそんなことをしたの?」というから

「すみません」とだけ、謝った。

 

 もう何もしゃべりたくなかった。そうして筒井さんの投げた丼ぶりの破片を集め出したら、婦長が

「七海さん。片付けるのはいいわよ。

 清掃をお願いするから、暫く外へ出てて」と云って

足を重そうにしてナースセンターの方へ戻って行った。

 

 渉は婦長が入って来る前の、沸き立つような湯気と温かい蕎麦の香りと、筒井さんが羽交締めにされながら連れ去られた後の人気のない、冷え切った蕎麦の残り香とを何も考えずに比べていた。

 

 今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

さあ、羽交い締めにされた、筒井さんはどうなるのか

次回を楽しみに!


次回は5/31(金)です。