一昨日、九州の本屋さん巡りから帰って参りました。

 今回は佐賀、長崎、大分県には行けず、熊本、宮崎の一部、鹿児島、福岡県の4県を中心に回りました。対応して頂いた23店の書店の方には、改めて御礼申し上げます。

 今回は、私のブログに投稿している、この私小説を広めるために全国行脚のスタートとして九州を選ばさせて頂いた事で、次回お伺いする東北~北海道へのPR活動に自信が持てたと云え、やはり九州からスタートして良かったと思いました。

 

 まず本屋さんも、普通、自分の売り込みに来る人は、出来るだけ遠ざけようとするだろうと思って、覚悟を決めて接触を試みると、どこでもすんなりと話を聞いてくれることに驚き、そして自信が付きました。 

 

 その他の事でも、配達物を届けるドライバーさんに道を尋ねると、自分の仕事を後回しにして、分かるところまで一緒について来てくれ、私が言われた通り突当りを右に曲がるまで見ていて下さり、振り返って有難うの手を振ると、同じ様に手を振返してくれた。そんな事が当たり前の様に起こる。もう目がうるうるしてしまいます。

 

 またこれは本当に驚いたのですが、左折する車が、まだ横断歩道に足を踏み入れるのに数メートルあるのに、きちんと待っていてくれる。これは行った4県ともそうだったので、これも九州の人のマナーとして、心の優しさを感じる出来事でした。

 普段からあくせくした運転を強いられている人間にとっては、非常に心温まる光景を何度も見せて頂き、いかに都会の人間がイライラして運転しているか恥ずかしい限りでした。

 心にゆとりを持っているからこそ、出来る事だという事を改めて感じ、自分の生活を見直そうと思っています。

 

 九州の人達は何処で会っても、老若男女の人が優しく旅人を笑顔で迎えてくれる。

本当にありがとうござました。このブログ掲載の小説が本になったら、また必ず、この地に帰って来るつもりです。 

 

 さて今回は、自虐伝の中でも珍しく、渉が頑張っていい成果を上げた事が中心に書かれています。そんな事は滅多にないので、是非‶得意げな渉‶をご堪能下さい。

 

 

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     宝飾課時代

 

 宝飾課は準営業と言ったところか。もっと端的に言うと「販売員」である。販売員は15名余り。一人当たりの一か月の売上目標が400~500万円で、一日の目標は概ね30万円だった。各営業店からの要請に基づいて、宝石や貴金属を持参し、営業マンの車に同乗し、その日一日営業マンが事前に役員さんにお願いしている、自宅に宝石の好きなお友達を呼んで頂いて、そこで宝石を見て触って頂き買って頂くという方法の為、ご近所のおかみさん達が割烹着姿で宝石を見るという、なんとも滑稽な風景がここそこで発生するのであった。それはこの会社の良いところでもあり、品物の価値を下げる悪い部分でもあった。

  北は宇都宮支店から西は浜松支店までの50店舗の営業店に出向いて販売をするので、宇都宮や前橋、水戸支店、沼津、静岡、島田、浜松支店は本社から比較的遠方の為、2日若しくは3日連続で日程を組んでもらい、泊まりで行く事が多かった。

宝飾品の販売員は殆どが直行直帰のため、一番長い時は10日以上本社に行かない日があり、また行き帰りの電車の中では寝ようが漫画を読もうが何をしようと自由なので、特に遠方の支店に行く往復の電車の中は、渉にとって文庫本を読むのに好都合だった。特に長編物の山岡荘八の「徳川家康」は、概ね電車の中で26巻の殆どを読破したものだった。

 

 そうやって半年も経つと、最初は金額にして8000万円、10~13キロの重さがあるある宝石・貴金属の入った鞄を持ち歩くのにも一苦労した。人相の良くない男がみんな泥棒に見えたり、どこかに忘れたりしないかとか心配したりで、結構、身体に良くなかった。

 ある時などは、箱根の小涌園で販売会があり曽野原君と二人で箱根湯本駅からバスに乗ったのだが、網棚に宝石鞄を載せ、落ちない様に網棚備え付けのゴムバンドでしっかり止めたはずの鞄が、急カーブの登りで叔父さんの頭に落ち、そして床まで落ちた鞄を曽野原君が、叔父さんに「すみません。大丈夫ですか」と言いながら拾い上げたものだから、物凄い剣幕で曽野原君が怒鳴られて申し訳ない思いをしたり、またある朝の満員電車の中では、鞄を網棚に上げる事も出来ず、自分の膝頭辺りに鞄があり両手で取っ手を持って立っていると、重みで手が痛くなり、手を組み替えたりしていると、前に立っているご婦人のお尻の辺りでもぞもぞと手が動くものだから、「痴漢」と間違えられそうになったり、結構笑って済ませられないような事もあり、宝石の鞄を持っての移動は大変だった。

 渉と曽野原君は若いという事もあり、お客さんや営業マンから芸者の如く「ご指名」を頂いたりして、結構「得」をしたことも多々あった。指名で行くときは空振りという事はまずなく、30万円の売り上げは行く前から既に決まっているようなものだった。

 

 渉が一日で販売した額で一番大きかった売上げは、1点で400万円。商品はサファイアのリングだった。そのお客さんに事前に、課長がメレーダイヤやテーパーダイヤを散りばめた空枠をお見せして65万円の枠に決めて頂いていて、後はセンターに入るサファイヤの石を決めるだけになっていた。  

 そのお客さんの所へ運よく渉が、「サファイヤのルース(裸石)」10ピース程を用意してお伺いした。

 いつもならそのお客さんには、宝飾課の吉元課長が販売するのだが、その日課長は風邪で39℃の熱を出して休んでしまったのだった。

 たまたまその日は全員出払っていて、月の目標を突破して本社勤務をしていた渉しか空いている人がおらず、午前中に業者が持ってきた委託品のサファイヤのルースに仕入れ値に従って上代(販売価格)を設定し、値札を作成して電話口で辛そうな息をしながら吉元課長からアドバイスを頂いて、午後2時、浦和駅で営業社員と待ち合わせて出掛けて行った。お客様の家に到着してちょっと心配になった。一言で言うとそこは「体の良いゴミ屋敷」であった。

 

 この田部井さんというお客様は、浦和支店の顧客で年間の購入金額が約一千万円の最上位クラスの顧客で、支払いはその場で現金払いだという。後で聞いた話だが、彼女は夫婦でゴミの回収業をやっており、社員曰く数億円の資産を持っているとのこと。ゴミの回収業それだけで儲けたらしい。やはり人が嫌がる仕事をきちんとこなすと、そうした資産が貯まるのかと渉は思った。

 当時は定期預金の利率は年利で6.6%。資産5億円で計算したら、年3,300万円が定期預金の利子として付いたし、今の様な利子に対する税金もなかったから、貯め込めば貯めるほど金が呻って付いて来た。資産を持っている人にとっては、放っておいても「金が金を産む」最高に良い時代だった。

 田部井さんは宝石が好きで唯一の道楽が「宝石を買う事」だそうで、投資で買うのなら宝石より地金の方が良いと思うのだが、さすがに女性だ。奇麗な輝きを放つ宝石は別物なのであろう。だが買った宝石をすることも無く、宝石箱に仕舞い、たまに宝石箱を開けて覗いてご満悦になる事で、明日への鋭気を養う事が唯一の楽しみと云うから、この人は変わっている。やはり普通ではない。

 

 今回のサファイヤのルースは540万円~280万円までの価格でどれも極上の突品ク

ラスである。10ピース余りのオーバルカットのルースを一つずつ説明してくれと言うので、産地から始め、傷の事、色目、特徴などを順に説明させて貰ったら、最後に拍手をしてくれた。そして一言「あんた、よく勉強したね。あんたを信用しよう。あんたならこの中でどれを選ぶ、私が欲しいと思うものと同じだったら買うわよ。さあ」と言われ、暫く時間を頂いて400万円のサファィヤで、タンザナイトにも似た色目の明るい、透き通った青っぽい物を選んでそのルースを空枠のセンターに置いた。

 そうしたら

「はい、決まり。400万円でね」っと。渉も間髪を入れずに

「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。

「あんた。分かってんの。枠付きで400万円だよ」と言うから

「武士に二言はありません」って返事をしたら、

「あんた、気に入った。いつも来るおじさん(吉元課長のこと)は

ケチで渋くて嫌っ」と云われた。

 

 実はこの400万円のサファイヤから順に価格が安い7ピースには、課長と相談して、空枠の原価35万円を載せた価格の値札を付けるというカラクリがあった。従って損はしていないし、本来、仕入れ額からも20万円安く仕入れているので、リベート(400万円の5%)としてさらに20万円を安く仕入れているので、リベート(400万円の5%)としてさらに20万円を一人口座の役員の田部井さんにバックしても、まだ通常の粗利額をキープし、さらに粗利率は通常より高くなるのである。

この辺の駆け引きは宝石販売の妙味である。つまり本来465万円で販売すれば、その商品は465万円の価値があり、400万円で販売したら400万円の価値になってしまうのである。

 

 それでも預金の利子で暮らしているお客さんに限って、1円でも安く買いたいのが世の常だ。それこそお金の大切さを肌身で感じて知っているからこそ、余計な支出は避けたいのである。

 それを若い渉が全て分かっているかのように

、二つ返事で「OK」を出したものだから、

「あんた、分かってんの?」と確認し、その言葉に渉が

「あっ、そうでした。そうだ枠代の65万円を入れるのを忘れていました。

 済みませんでした…」というパターンが普通で、横にいた営業の担当も

「七海君、そりゃーぁないぜ」と、なる事が通常のパターンだ。

その裏をかいて、いやその位の事は商売として当たり前ですよ。と云ってやれるのが宝石商人のずる賢い販売方法なのである。渉はこの演技のパターンをもう一つ考えていた。それは、

「そうだ。忘れてました。やばいなぁ~どうしよう……。」と一端は若気の至りで許して貰って、465万円で販売させて貰って、粗利率も粗利額も前代未聞の数値を叩きだすB案も事前に考えて臨んだが、田部井さんの感じから見て、(この人は若気の至りを許してやって、次回以降の購入の際に渉を指名し、前回のミスを帳消しにさせるような超破格値で買おうなんて、悠長な事は云いそうも無い「超現実派」と読んでA案で行こうと咄嗟に判断して、演技した事に田部井さんがまんまと嵌まってくれ、渉の完全勝利であった。

 

 それが七海 渉の母方のお祖父ちゃんの隔世遺伝で、渉には転んでもただ起きない、若いのに商いに絶対必要な人心掌握を以って判断できる気質を持っている事は、その時の渉は、自身ではそこまでは分かっていなかったのだが、吉元課長と電話で価格設定の仕方を聞いている時に、枠代の仕入金額を、サファイアのルース価格の中にインクルード(内包)させる事は、渉が課長に提案したのだった。

それが出来る商品と出来ない商品がある事は、渉もJデパートの販売で、分かっていた。まさに宝石は‶価格があって無いようなもの〟の代表格の商品なのであった。

 でも、もしそれを田部井さんが友人に見せて「いくらしたの?」聞かれたら、大体10人のうち、10人がこう云うのである。「本当は465万円。だけど値切り倒して400万円丁度」。鼻っから「400万円よ」という人は殆どいない。

 

 この月の目標は540万円だった。月度の締め切り迄、まだ7日間あったが、売上567万円。そしてこの日の400万円。本当はこの売り上げは課長担当のダイレクト顧客なので、販売員が売上を計上する事は出来ないのだが、売上報告をしたら、「売れたのか、よくやった。」と云われ、売上算入していいと云われた。この月の売上は967万円となり、宝飾課設立以来最高の売上となった。

 暫くこの数字は破られまいと皆が思っていたが、その翌々月に、東京第一営業部の荒川支店の営業課長の松島課長が、編入して宝飾課へ移って来て、たった2ケ月で、1000万円の大台に手が届き、いとも簡単に抜かれてしまったのだった。もう少しNO1の販売員として君臨したかったのに、やはり、他力本願の販売ではいけないと神様が思ったのだろう。

 

 

 日光の鬼怒川温泉駅の真ん前に、「ホテルニュー岡部(現在はホテル三日月に買収された)」がオープンした。その‶(こけら)落とし〟に、S社は「宿泊販売会」を行った。

売り上げ目標は1億円。日程は2週間。〝2週間泊まり込みでの宿泊販売〟を行った事は後にも先にもこの時以外なかった。郷田社長も社長業をこの二週間は放って、このホテルに張り付いた。社を挙げての一大イベントだった。

 

 入社してまだ半年余りの新入社員にとっては、「宿泊招待販売」という販売会そのものが良く分かっていなかった。来単(来場単価)・購単(購買単価)購買率等の用語とその意味を理解し、身を以て体験したのもこの販売会だった。

 

 我が宝飾部隊も勿論500人からの顧客が来るのだから当然参加した。最初の一週間は、営業部から配置転換され、3か月前に世田谷支店から宝飾課に入って来た同期の田上君が担当した。結果は一週間で目標500万円だったが200万円しか売れず、田上君は日曜日に鞄を持って渉の家に来て曰く、「朝10時から夕方5時まで立ちっぱなしの商いで一日30万円程度の売上ではカッタルイ」「やってらんねえよ」という事だった。後半の一週間は渉が行く番だった。田上君の言葉を胸に「それじゃあ、適当に上手い事やろう」と思い、時代小説の文庫本を5冊、行きの上野駅の売店で買ってそれを読むのを楽しみにして電車に乗った。

 

 日曜日の晩にホテルに到着して販売会場を覗くと、売れない原因がすぐ判明した。社の方針で呉服を売ろうとして、第一会場には呉服が並べられていた。宝石、毛皮、ハンドバッグそして寝具の実演販売等、粗利率が50~55パーセント程度の商品群の売り場は第二会場にあり、当然お客様は第一会場から入場し、販売時間の2時間の内1時間半は第一会場(呉服)売場で足止めされ、第二会場に入って来てから息を吹き返すお客様の中には、ブウブウ文句を言っている方も多かったと田上君から聞いていた。

 翌日の販売会でも同じで、「今回は宝石を買いに来たのに、○○さん(営業社員)が呉服会場から出してくれなかった」とか「着物はいらないって言っているのに、まあ、とにかく見てくれって言って」などとクレームがあったので、その晩、吉元課長に電話をして実態を報告したら、「う~ん」と言ったきり、応答もアドバイスもなかった。

 販売会が終了すると毎日、会場毎に反省会を開いて問題点を抽出することになっていた。そこで渉は、お客さんのクレームの話をし、さらにハンドバッグ売り場の浅草屋の社長が、足切り(来場単価を維持するために出品商品の最低値段を決める事)で15万円以上のハンドバッグなんて売れないと嘆いていたので、そのことも第二会場の売り場責任者の富樫常務に意見として伝えたら、常務から何かいい手立てはあるのかと聞かれたので、「宝石を買いに来たというお客様については、第二会場から入れて欲しい」と2点で20万円の商品を15万円で売る」のはどうかと提案した。

 翌日の朝礼で郷田社長が、夕べの第二会場の反省会でこんな意見が出たが、第一会場(呉服会場)の責任者小森常務に「どう思うか」と聞いた。そうしたら小森常務も「それで構いません」と返事をしてくれて、販売会9日目から宝飾品購入希望のお客様は直接宝飾品売場へ、そしてハンドバックも「2点より取り販売」が認められ、浅草屋の社長は会社に10万円前後の商品を持ってくるよう指示を出し、午後の販売までに社長の息子さんが40~50本のバッグを車に積んで会場に届けてくれて、この日の午後から第二会場の雰囲気は一変した。

 そして、その日の宝飾品の売上12点で320万円、ハンドバッグも8セット120万円+単品売上90万円計210万円を売り上げ、初めて第一会場の売上を破り、一日の総合売上も最高の1000万円突破で、大いに活気づいた一日となった。

 浅草屋の社長が渉にお礼がしたいと言って、1階ロビー脇にあるBARでごちそうしてくれた。暫くするとそこへ郷田社長と富樫常務と園部部長が入って来て、渉と浅草屋の社長を見つけると、郷田社長が近づいてきて開口一番「今日は君たちにやられたな。小森常務は苦虫を噛み潰したような顔をしていたぞ。実に愉快だな、ワハッハッ。」と笑いながらそういって、追加でシャンパンを渉らのテーブルに2つオーダーしてくれた。

 

そうして後半戦にS社の優良顧客が集中したこともあり、徐々に目標突破が見えて来て、最終日の朝礼で社長が

「本日680万円売れると目標の一億円を達成することが出来る。

 本日の来場者数は26名、来単262地円で回せば達成可能。

 昨日迄の来単は207千円。

 本日の売上次第で、

 今までの苦労が報われるか、水疱に帰すかのいずれかである」と云い、富樫常務が

「今日は手の空いている社員は売り場に入って、

 お客様に誠心誠意を尽くして有終の美を飾ろう」と言い、その後

「全員で乗り切ろう。オゥッ!」と

拳を天井に向かって振り上げ、喝を入れた。

 

 そうして始まった販売会も午前が終了し、午後に入った。その頃本部では苦虫を噛み潰すような事態だった事は、宝飾品の売上を見ても一目瞭然であった。

 

 午後2時を回った頃、何と第二会場の布団売り場に郷田社長が見えた。そして布団屋の(せがれ)宜しく、ブリジストン社製のマットレス「バイオヘルス」と、当時、世間でも知られるようになった、ハンガリー産のダウン80%以上を使用した「最高級羽毛掛け布団」で25万円の寝具セットを社長自らが販売を始めたのであった。

 渉も、後にも先にも郷田社長が自ら販売を行った姿は見た事が無い。その販売方法がまた凄かった。一瞬あの「フーテンの寅さん」を彷彿させる様な語り口調は、会場にいた7~8人のお客様の耳に留まり、毛皮や、ハンドバッグ売り場で商談をしていたお客様迄もが「なにが始まったの?」という感じで、寝具コーナーに集まり始め、やがて全員が寝具コーナーに集まってしまったのだった。

 そうして社長の立て板に水の如くの耳障りの言い説明を聞いて、まず浜松のお客様が手を上げた。そしてもう一方(ひとかた)も幾つか社長に質問し、社長はその質問に対しても口ごもる事もなく、まるで専門家はだしの解説をし、その方も購入を決めてくれた。

 渉がすごいと思ったのは、まず自分が社長であること一切お客様には言わず、そして一切サービスの話等はせず、羽毛布団の良さとマットレスが寝ている間に身体の疲労を取り、明日への活力を養う事の商品説明だけで2人のお客様を落としたテクニック。その中にご婦人が喜びそうなちょっとエッチな話もさらりと入れる。

「そうです、このバイオヘルスはご主人のあそこも元気にしてくれる、機能商品なの   

 であります。ですから、奥様から誘ってみましょう」と云うと、奥方はまるでうぶな女子高生の様に「きゃっ、きゃっ」と喜んだ。

 そうしておいてから、「今日は嬉しいからこの5800円のシーツを買って頂いた方には差し上げよう」と後からサービスする切符の良さ。そこにいるお客様の心を鷲掴みするトークは、真似しようと思っても〝勢い〟が段違いに違った。

 この辺は見習わないと思った。また声も大きく、寝具販売にはもってこいのシチュエーションを自分で自らを鼓舞して作れるところにも関心をした。

 暫くすると社長は売り場の皆に「お騒がせしたね」と言って本部に帰って行った。その去り方と言ったら、まるでウルトラマンが悪をやっつけ、その後何も無かったかのように「シュワッチ!」と一言発して空の彼方へ消えて行く。

 そんな場面を思い浮かべるように去っていく姿に、その日一日だけ販売マネキンとして来ていた、毛皮売り場の40代位と思われる女性が一言「カッコいいわね~」と。後で「あの人だあれ」と聞かれたので、「うちの社長」と云うと「へえ~。社長さん自らが販売するなんて、すごいわね」と感嘆していた。その位インパクトのある販売だった。

 

 さて、そうこうしている内に第二会場内も最後の顧客が数人となり、隣りの第一会場は14日間の売上も確定し、撤収作業が始まっていた。

時間も午後4時になろうとしていた。やがてホールの天井から音楽が流れ、販売会終了の時間が来て第二会場に3人居たお客様のうち、2人は呉服を買ってくれたお客様で営業社員が迎えに来て、会場を後にした。さて最後のお客様が一人、宝飾売り場で買うのか買わないのか、はっきりしない様子で宝石をみていた。周りはもう片付け始めている状況で、そのお客様も一度帰ろうとした。  

 この方も既に色留袖を買われているお客様で営業が本部へ行っている間、待っているのであるが、なかなか営業社員が帰って来ないので宝石でも眺めていようかということなのであった。

 そのうちインペリアルトパーズのリングを触りだした。当時はまだ珍しい石で宝石好きの人でもまだ知らない人が多い宝石だった。

そしてオレンジとピンクと茶色を混ぜた様な色目で落ち着いた洋服やフォーマルドレス、さらに着物にも合わせられるという説明をしているところへ営業マンが帰って来た。

すると、その方がこのトパーズのリングをして見せて「どう」と営業マンに。そうすると営業マンが「○○さんの好きな色ですね。今日買って頂いた色留の柄にも同じような色が使われていましたね」と言ったら「そうなのよね。でも34万円はちょっと」と云っている脇で営業マンが「信販契約を使えば、金利を入れても24回払いで、月々この位ですよ」と電卓の金額を見せた。そうして一瞬考えたかと思ったら

「いいわ。じゃぁ頂くわ」と一言。営業マンと二人で

「ありがとうございます」と頭を下げて、長~い1週間の販売会が最後に、この切符の良いお客様で終わった。

 そうして、売上伝票を切って本部へ持って行くと、その伝票の金額を見て、吉河常務が歓喜の雄叫びを上げながら社長を呼んだ。渉は一体何が起こったのか分からなかったが、秘書の浅見さんが「七海さんのお陰で一億円の目標を突破したのよ(喜)!」と言われ、普段大きな声を出すような人ではない吉河常務が奇声を発したので、何が起こったのかと思ったが、そういう事だったのかと思ってニコニコしているところへ、郷田社長が満面の笑みで奥から出て来られて、渉に向かって

「君の背中から後光が差している」と言われ、最高の気分を味あわせて貰った。

社長曰く「9969万円で売り上げがストップしていた。もう駄目だと諦めていたところに君が34万円の売り上げを持って来てくれたので目標達成したんだよ。本当に良くやった」と言って貰って、渉も鼻高々だった。

 そして、あの時30万円に値引き販売をしても構わないと思っていたが、営業マンの信販契約の話で、雰囲気が和み、お客さんが買ってくれて大ラッキーだったのであった。万一あの時、営業さんから30万円で何とかなりませんかと云われたら、即座に「分かりました」と返事をしてしまう所だったのだ。そうすると9999万何千円で1億円の目標にあと数千円足らずに、常務か誰かの親戚の名前で着物の裾回し12,000円を購入した事にしてという悪事を働かせなければならないところを、我々が救ったのだから、郷田社長への七海  渉のインパクトは相当のものだったに違いない。

 

 その後本社の藤元課長に売上報告をして直帰の許可を貰い、電話を切った。そこへ秘書の浅見さんが来て、「七海さんはどうやって帰るの?」と聞かれ、「電車で帰ります」と云ったら、『社長が一緒に帰ろうと言っているので、○○時発の特急「けごん」に間に合う様に駅に来るように』と言われ、鬼怒川の駅に一週間ぶりに立って待っていると、向こうからまたまた満面の笑みで社長が秘書と現れ、「さあ、乗ろう!」と言って指定席を指さした。

 それから上野駅に着く迄、日本酒で歓待され、「さあ飲め、やれ飲め」と勧められ、そんなに強くない渉は上野に着くころには結構足に来ていたが、「ここからどうやって帰る」と聞かれ、新宿へ出て云々と言うと「それじゃ方向は同じだから、俺の車に乗って行け」言われたが、社長のアメ車(黒のキャデラック)だけは勘弁と思い、社長が用を足しに行っている間に浅見さんに「ここからは解放して欲しい」とお願いすると、社長が戻って来ると「七海さんは帰りに買い物を頼まれているそうなので」と言うと、案外簡単に「そうか。それじゃあここで。今日はありがとう」と言って解放してくれた。

 そして握手を求められたので、僕も「ご馳走になりましてありがとうございました」と言い、頭を下げながら両手を出すと、背格好に似ず大きな、ふっくらした暖かい両手で僕の手を包んで「それじゃあ。お疲れさん」と言って握った手を放し、またニコッと少年のように笑い、背を向けて帰って行かれた。

 

 あの時の笑顔とあの暖かい手のぬくもりは、一生忘れられない渉の「宝物」になった。

 

 そして、渉は今まで辞めて出直そうかと思っていた気持ちを捨て、この販売会を通して、この会社を辞めずに明日からもまた「頑張ろう」と思ったのだった。

 

 そう言えば、行きの上野駅で買った文庫本5冊は、結局一行も読まれず輪ゴムが掛かったまま鞄の隅に追いやられ、自宅まで持って帰って来られていた。

 

 

 

本日も最後迄お読み頂き、有難うございました。

次回の投稿は来週の火曜日です。