さあ、いよいよ今回より波乱万丈の社会人生活が始まります。 

第七章迄、人生で一番長く、そして険しい上り坂をどう上り、またどう転げ落ちして行くのか、お楽しみ下さい。

 

 

第四章   戦後最悪の就職難と社会人と仕事

 

     渉の仕事選び

 

 渉は大学を卒業して本来の「夢や希望」は一端、大切な記憶の箱の中にしまい、現実を直視せざるを得なくなった。

 当時の就職戦線はそれほど過酷だった。渉が就職した(昭和52年)翌年から、一変して大手企業が一般公募を再開すると分かっていたら、もう一年、大学に居て勉強に精を出すか、若しくはアルバイトで一年繋いで、就職する手もあったかなと、今ならそういう選択肢も余裕で考えることが出来るが、その時は「必死」でそんなことを考えている余裕はなかったし、昭和53年からは嘘のように、元に戻るなんて予想など立てられなかったほど、世間は持ち直しては居なかったと誰もが思っていた。

 最初の頃は世の中から取り残されまいとして、とにかく「何処かへ就職しなきゃ」と毎日が焦りの連続でもあった。前章の「真剣味に欠けた就職活動」の中では、それは丁度2社に絞られて、少し自信が出たからであって、それ以前は本当に一日も早く就職戦線から離れたいという思いで一杯だった。

 

 そういう意味ではどこへでも入れれば良かった。しかし、そんな中でも、やってみたいと思う仕事が一つだけあった。それは「コマーシャル制作」の仕事だった。

 だが、購入した「How To 本」にはこんな風に書かれていた。

「この仕事を目指すなら、一にも体力、二にも体力」

「一日コーヒーを10杯飲んでも平気な鋼の胃袋」

「どこでも寝られる図々しさ」と言った

レスラー並みの体と図太い神経を要求され、まるでそれとは真逆の人間である渉には、到底続かないと思われた。もっとクリエイティブで繊細な気持ちを持った人物像を描いていたが、ゴリラでも続きそうもない。 この仕事では、もっと太々しい奴らがコマーシャル創りをやっていたのかと思ったら、コマーシャル事態が嫌いというか〝大嫌い〟になり、どんなコマーシャルが始まっても、渉がチャンネルをその度に変えるもんだから、親父が

「鬱陶しいからやめろ!」と怒ったものだった。


 普段から物持ちの良い渉だが、なぜかカッパブックス、各種新書本からマガジンまで、十数冊あったはずのコマーシャル関係の「How To 本」からハードカバーの本迄もが、今はどこにも見当らない。多分、就職先が決まった時、リクルートのあの分厚い企業紹介本を始め、とにかく就職に関係する物は二度と見たくないという気持ちで、痕跡を残さず処分したのだろう。なんでも取って置きたい渉にとっても非常に珍しい事だった。

 

 その位、辛辣でいて1973年(昭和48年)の11月に起きた第一次オイルショック(中東の産油国が原油価格を70%引き上げた事で、中東オイルに頼っていた日本は1976・77年(昭和51・52年)は大手1部上場企業の大半が大卒の新入社員の採用を見送った年であった。

 その為、前述したが本来大手企業に行ける筈の学生があぶれ、二流企業へと舞い降りて来たので、トコロテン式に二線級の学生が、三線級にと押し出されて行ったのであった。

 小学6年生から高校まで同じ学校に通い、例の車が

事故を起こした時、ハンドルから風船が出てと云った、渉のあの"世紀の大予言"を聞き逃した親友の西郡君は、1976年、名も無いSONY系列の三流の弱小企業に就職し、技術職を希望するも営業職に回され、そこを数年で退職。その後、ある中堅の映像関連機材を制作する会社に入社するも夢を諦め切れず、就職浪人をして最後にはソニーとキャノンの双方から内定を貰い、最終的にはキャノンに入社した。

 というステップアップを果たした人は、僕の周りには彼以外には居ない。これは彼が何をしたいのかという明確なビジョンをもっていたから、面接官に気持ちが伝わったのだと思う。

 大半の人間は社会の大きな渦に飲み込まれ自己を見失い、その日暮らしの様な仕事に不満を持ち、そして転職を繰り返し、徐々に落ちぶれて行くのが世の常であった。

 

 今の学生は僕らの時代よりも就職の環境は整っている。なぜって、受け入れる側の企業があるから対等に勝負ができる。戦う相手がいないという〝不幸せ〟は

76年・77年に就職活動を経験した学生だけが体験した、どうすることも出来ない〝負の条件〟だったと云える。

 

 渉がS社に目を止めたのは、リクルートBOOKの企業紹介の一文であった。その一文以外、どんな事が書いてあったかは、今となってまったく覚えていないが、この一文は僕のやりたい仕事を一言で的確に言い表していた。それこそコマーシャルで言うところの、人の心を鷲掴みにする‶キャッチコピー〟そのものだった。その一文とは、

 

「オリジナル商品の開発」を推進しています。

 

 渉はこの一文に心を奪われ魅了された。無から有を生む仕事。つまり、今まで世の中になかった商品を考案し、試作品を作りそれを商品化していくプロセスに携われる。

 

 そういう中で一番最初に面接まで行けたのが、もう一社のM社だった。会社説明会に出掛けたら、300名余りの学生で目白押しの状況で、社員数十名の会社の社長自らが、マイクを片手にそして、もう一方の手にはハンカチを持って、秋だというのに大量の汗を拭き拭き、たどたどしい説明をするのであった。

 社長の開口一番は「私は生まれてこのかた、こんな大勢の人の前で話をした事が無く、緊張しています」であった。緊張しているのが手に取るように分かった。普通なら「こんな気の弱い社長じゃだめだ」と思い、説明会に来たことを後悔するのだが、四十がらみの叔父さんが300人の学生を前にして上がり、喉を詰まらせ、冷や汗をかきながら話している姿が、なんとなく愛おしくなり「頑張れ」と応援している自分が居て、結局最後まで話を聞いてしまった。

 その中で覚えている話が、当時流行した「アメリカンクラッカー」という玩具を最初に輸入したのがこの社長で、当時はまだ販売網が少なく、コマーシャルを出す予算も無く、売れずに在庫が随分残って困っていたが、その後「旭玩具」という会社がこの商品に目を付け、大々的に輸入し宣伝してくれたお陰で、残っていた在庫がさばけた。と何とも頼りない、他力本願の話で、(この会社本当に大丈夫だろうか)と思いつつも、その後にあった試験も受けて帰って来た。試験を受けた学生はそれでも200人以上は居たと思う。

 それから一週間が過ぎ、社長の秘書から電話があり

「テストは不合格でしたが、」と、冒頭からいつもの"渉パターン"がさく裂したが、

「小論文を社長が読んで、是非面接したい」と言っているのでと言われ、指定された日に会社へ出向くと10人程度の学生がいて、個人面接だと思って一応準備してきたものが、全く役に立たず少し焦ったが、大峰社長を囲むようにしてグループ討論会を行った。多分会社の幹部の方達だと思うが、社長と同年代に見える3人の社員が手帳とペンを持って、我々の輪の後ろに陣取った。もう討論の内容はすっかり忘れてしまったが、まあまあ自分の言いたい事は言えたと思った。

 それから数日経って、秘書の方より「採用」の連絡を貰った。しかし、その一週間後にS社の発表が控えていた為、正直にその旨を秘書に伝え返事を保留にさせて貰った。  

 その後S社から「採用」の連絡が入り、申し訳なかったがM社には断りの電話を入れた。なぜS社に入社したのかは前章の「真剣味に欠けた就職活動」に書いたのでここでは省略する。

 

 この決断は正しかったのか否か、最終的には分からないが、渉は間違ってなかったと思う。なぜなら、S社はリテーラー(小売業)であり、M社はホールセーラー(卸し業)だったからだ。渉はJデパートで小売りを経験し、お客様(エンドユーザー)に接して販売することが好きになった。卸し業のお客様は商品の事を熟知している小売業者だ。一言で言えば商品の優劣で決まる。どんなに優秀なセールスマンでも商品が良くなければ勝ち目はない。

まずは

「商品ありき」なのである。そして次に

「取引条件の優劣」そうして三四が無くて五が

「セールスマンの力量と人柄」なのである。

 

〝商売は、人柄でやる〟という母方の祖父は、日本橋で「柳屋」という呉服屋を一人で切り盛りして日本橋界隈で一、二を争うほどの大店おおだなにまで店を繁盛させたのだから、当時の高島屋デパートから呉服部の部長という肩書で、今で言う「リクルート」をされたのも当然だが、

「人の指図で仕事なんぞ、絶対にしない」と啖呵を切って帰って来たものだから、面接に行きたがらなかった祖父を、やっとの思いで行かせた祖母が、珍しく怒って、

「景気のいい時ばかりじゃないし、折角の話だからと思ったのに!」と、その頃から、祖父の芸者への販売の代金回収に業を煮やしていた祖母がそう云ったものだから、腹を立ててお客であった芸者と遊んでその日は帰って来なかった。と遂、余計な事まで申し上げてしまったが、渉も祖父と似たところがあり、どうも社長と相容れないところがあって、会社を辞するという事を繰り返したので、祖父の言動がすごく理解出来るのであった。

 エンドユーザーへの商売、つまり小売業でなければだめだ。と言うのが「渉自身への持論」だ。商品の品質さえしっかりしていれば、目が肥えた顧客でも値段が多少他社製品と比べて高くても販売する事は可能だ。「人柄」という武器は渉にとって、価格にも勝る最大の武器なのである。

 そういう意味でM社は業界二位と言えどもまだまだ小さいし無名だ。販路を広げるには相当な時間が必要だった。営業が小売店回りをして、そこの店主や仕入れ担当者の意見をよく聞き、それを自社製品に反映させ、商品造りをする必要がある。

 「オリジナル商品の開発」という点で言えば卸売業の方が機会が多いかもしれないが、飽く迄も販売網の拡大が仕事だとすれば、商品開発をしている暇はないのである。逆に小売業で業界ナンバーワンの会社が、さらに商品知識が豊富で人柄が良い社員を持てば販路は間違いなく広がり易い。

 

 もし、これを読んで下さっている就活をこれからする人は、製造業や卸売業(問屋)の営業をするのであれば、自分の人柄よりも、まず業界ナンバーワンの企業に入社する事を最優先すべきだ。競争相手は他社ではなく、自社の営業マンとなる。その方が闘い易い。なぜなら商品や取引条件が同じだからだ。

 僕は学生時代に20種余りのアルバイトを経験したが、卸売業での販売(販路拡大)の仕事はアルバイトではしたことはなかったし、またそういう仕事はアルバイトでは無理だ。 

商品知識もキャリアも積んでいないアルバイトを取引先へ行かせたら、間違いなく取引は無くなる。

 

 こうして渉は、S社に入社した。この会社は一介のふとん店が二代目の敏腕社長により、年間売上百億円を目の前にした非上場企業で、大卒の新入社員を採用するのは初めてだという事を入社してから知った。

 社長は47歳。早稲田大学卒の聡明且つフットワークの軽い人だった。ちょうど僕の二回り上の午年で、背丈は大きくないが肌艶がよく、今で言う〝イケメン〟であった。

 この社長は戦後の闇市でモスリンの生地を買い、自分でミシンを踏んで、昔で言う「ズロース」や「パンツ」を作り、それを荒川区にあった店から、リヤカーに積んで、オートバイでそのリヤカーを引いて、遠くは宇都宮辺りまで行商して歩いたという伝説的人物であった。

 また当時、音羽通りにあった自民党の有力政治家宅のお手伝いさんと知り合いになり、上手いこと勝手口から入り込んで、当時全国婦人連合会会長という職にあった奥方に取り入り、婦人会名簿を拝借して、「寝具」や当時始めた「呉服」の販売を婦人会を通して販売し、回収を「現品先渡し。金利ナシ、10回払い(月賦)」を謳い文句に、当時としては非常に画期的で、且つ大胆な販売・回収手法で世間をあっと言わせた人だった。

 しかし、終戦後まだ15年余りしか経過していない中で、「月賦」販売を始めたのはデパートだけで、しかも医者や公務員といった取りっぱぐれの無い、ごく一部の職種に従事している人にだけ「チケット」という冊子を発行して分割払いを認めているだけで、そんな一介のふとん屋がどこの馬の骨か分からないような人に月賦で、しかも現品先渡しで販売するなど考えられない事であり、当然銀行は「そんな危ない商売に出資できない」と言って来たそうだ。

 しかし社長には確信があった。それはこういう事だった。「婦人会」という組織には、まず会長がいて50名を超えるような大きな会になると副会長や会計係がいて、その下に会員がいるという組織構造があった。 また婦人会には必ず入らなければならない「暗黙のルール」なるものがあり、誰もが加入していた。どこの馬の骨であっても、皆んな顔見知りの中で支払いもせずに商品を持ち逃げする輩は、夜逃げでもしない限りは居ないという「確信」が社長にはあった。

そういった組織の中で商品を販売し、リベートとして売り上げの10%を会に「バック」するという方式は「ウイン・ウイン」の関係で販売側と購入側の婦人会双方にメリットがあったのだった。

 そうやって、婦人会の会長さんに開催日を決めて貰い、案内告知をして貰い、人寄せをして貰う。開催会場は婦人会会館、神社仏閣の大広間、或いは町内会館を手配してもらい、当日トラック3台に寝具を始め、呉服、下着、日用雑貨など満載にして運び込み、紅白の幔幕などで派手にディススプレイをして販売を行う。全盛期には、最後のお客さんに3反残った着物を前に「申し訳ないが、着物3反しか残ってないんです」と言うと「じゃあその3反全部頂くわ」というような嘘のような本当の話で、帰りは空っぽの荷台に「頂いた野菜や漬物」をのせて帰って来た等という眉唾物の話を専務や常務たちが新入社員の研修で話てくれた。

 

 集金(回収)に月一回会長宅にお邪魔して集めて頂いたお金から10%の手数料をお渡しして、次回の開催日を決めて帰って来る。

そんな商いの回収率は何と95%以上。銀行が心配するような回収未了は殆ど無かった。なぜなら支払い不良の人は「村八分」になるからである。当時婦人会から総スカンを食った主婦はそのコンミューンの中で生きて行けなかった。だから醤油や米を買った支払いを後回しにしても、婦人会を通して買ったものの支払いは「最優先」しなければならないという理由があった。場合によっては会長が立て替えて払ったりして、会として恥をかかない様にする事も会を運営していく上では大事な要素だったのだ。それだけ会にとっても10%のリベートは大事だったのである。公務員の給与が月20,000円位の時代に、会員が100名を超える会では月の集金が30万円にもなる月もありリベートが30,000円貰えるというのは会にとっても非常に助かったのだと思う。

 また会長に選ばれるような方は、その地の盟主の奥方で面倒見がよく、度胸があり、且つお金もある様なご婦人がなったものであり、昨日今日引っ越してきたような方がなれる様なものではなかった。それこそ会長の鶴の一声で全てが決定するような事が往々にしてあり、勧められた物や、指名された人が買わないと、後で何を言われるか分からないというような事もあり、予定の売上が行かなければ行かないで、会長自らがその穴埋めをしたりと、それはそれでS社にとっては大変ありがたい事であった。

1960年代初頭(昭和35〜36年)は、世の中が目覚めてやっと動き出したような時で、落ち着きを取り戻しつつあるも、まだまだ物資不足の時代。夜具にしてもせんべい布団からやっとフカフカの綿が入った布団が金利ナシの10回の分割払いで買えるとなったら、みんなが飛びつく様な時代だった。このような時代に整合性の高い販売を考えついた社長は「風雲児現る!」の見出しで週刊誌のトップニュースやトピックスに何度もなったというから凄い。

 

 特に呉服業界に殴り込みをかけるが如く、世間は和服から洋服への脱皮時期だったにも拘らず、会社として敢えて高級感を醸し出すために「着物」に手を染めたのは大正解だった。確かに元々がふとん屋であるから、寝具を組織販売で売るだけでもこの時分は、充分利益は上がったはずだ。

 しかし、その辺が先を見る目が違うというか、社長は世の中が落ち着いて家庭の収入が増えたら、それ迄の木綿やウールの普段着の着物から、必ず正絹の呉服が売れる時代が来ると踏んで、その先駆者になるべく、そういう時代を自らの手で作ろうと考えたのである。

 そして、京都界隈の呉服問屋に台風手形で支払う事を了解させ、呉服に関しても「商品先渡し、金利ナシの10回払い」で販売をしたものだから、東京オリンピックを境に、池田内閣の所得倍増計画が功を奏し、国民の所得は数年で一気に上がり、1965年以降(昭和40年代)になるとS社の販売手法を真似た会社が幾つも誕生して、争うようにあちこちで催事が行われるようになると、正絹物の附下と西陣織の袋帯がガンガン売れる時代が社長の読み通り来たのである。京都の呉服問屋も洋服に押されて呉服が売れなくなり、戦後廃業した問屋もかなりあった様だが、呉服ブームが巻き起こり息を吹き返した。郷田社長35歳の時だった。

 その後、S社は呉服の販売の他、ジュエリー・貴金属、毛皮・レザーコート、プレタポルテの婦人服、高級ハンドバックとさらに販売レパートリーを増やしていき、世の中の一般女性が良い物を身に付けて

着飾れる様に仕向けて行けた事で、この会社の社訓の冒頭にある「社会に貢献する」という事を胸を張って

云えた時代だった。

 仕入れ先百数件、社員500人、売上高80億、支店数は関東一円と静岡県、山梨県に50店舗となり、第一期学卒生が入社する2年前の1975年、山手線のハブ駅から徒歩10分の場所に150坪の土地を購入し、地下3階、地上8階建ての自社ビルを構え、飛ぶ鳥を落とす勢いの真っ只中に、渉は入社したのだった。

 

 

     入社から配属まで

 

 入社して暫くすると、やはり仕舞ったはずの「夢」が箱の中から飛び出そうとしていて、こんなはずじゃなかったとか、今からでも遅くないとか云って、僕の心を悩ませた。結局ギターは仕舞わないで休みの日や、ふっと思い付いた日にはギターを片手に曲を作って録音したりしていた。

 仕事は最初の2週間は研修で、出来てまだ2年のピンピカの本社ビルの3階にある今で言う多目的ホールの様な会場で、役員と各部門の部門長による講習を受けた。

 長い新人研修も残すところは新潟県十日町にある呉服問屋での着物の講習会で終了だった。その最終日、十日町の宿舎では打ち上げが取り行われ、その会場に稀代の社長が初めて新入社員の前に姿を現した。

 この人があの「風雲児」と謳われた郷田社長なのかと、講習の冒頭で一番番頭の富樫常務が話してくれた〝その人〟が今六十畳ほどの宴会場の上座に案内され、そこに胡坐をかいてデンと構えて座り、品定めするような目で我々の顔を一人ひとり順番に見ていた。

 その時どんな話をされたのかは今になってはもう思い出せないが、講習会の中で神格化された存在だった為か誰もが無口になり身を正して聞いていた。

 そして話が終わり、どうしてそうなったのかも忘れたが、気が付いたら社長の体は、宴会場の天井に届きそうな勢いで二度三度と宙を舞い、そうして最後に思いっ切り畳に打ち付けられた。別にワザとそうした訳ではなく、胴上げなどした事の無い不慣れな連中がしっかりと支えず、もう終わりだろうと勝手に判断してきちんと受け止めなかったという単なる事故で、決して意図的な悪意では無かったにしろ、慌てたのは総務部長の園部さんだった。

 しかし、そこでも社長は凄かった。さっと飛び起きると「昔、柔道をやっていたから、この程度は〇〇〇…」と云って、畳の上でもう一回転して受け身

(の体勢からすっと立ち上がった。皆、拍手喝采であった。

 それで宴会もお開きとなり皆三々五々それぞれの部屋へ引き上げて行った。中には飲み足りなかったのか宴会場に残ったビールや日本酒を部屋へ持ち込んで二次会を始める連中もいた。

 

 そんな中で誰かが廊下でビール瓶を落として割ってしまい、そのまま放置してあるところに出くわした渉は、箒と塵取りを探し、それを始末しているところに社長が通りがかって、いきなり「國學院大學の七海!そんな事はやらんでよろしい。出世できないぞ。君はお客だ。そんなことは旅館の人がやるからいいんだ」と言われびっくりした。

 何がびっくりしたかと言えば、怒られた事より週刊誌の大見出しでも名を馳せた郷田社長が僕の卒業した大学と名前を憶えていた事だった。

 これはずっと後になって、社長から直接聞いた後日談だが、こんな風に話してくれた。失礼があってはいけないと思い、総務部長に頼んで、新入社員の顔写真の下に名前と卒業大学を書いたボードを作って貰い、そのボードを常に持ち歩いて、自宅の風呂場にまで持ち込んで覚えたんだそうだ。それは園部部長もそういっていた。

 渉は思った。やはりこの社長は只者ではない「凄い」人だと。

 

 渉は同じような事でもう一回社長に怒られている。それは入社して4年目の正月、三重県四日市営業所の所長になった最初の正月。中京方面で所長になった同期の出井いでい君と曽野原君もいたが、S社には古い仕来りが残っていて、正月には本社の課長以上と営業店の支店長は、郷里に帰る人を除いて社長宅詣でを行うことになっていた。

一階の和室三間をぶち抜いて、総勢30人~多い年は50人ほどの社員が360坪の敷地に建てられた邸宅に集合して、お昼から夕方まで飲み食いをし、帰りには大きな袋に入ったお土産を一人一人貰って帰るという大宴会だ。

 その宴会では、お手伝いさんが食べ終わったお皿や椀を片付け、次の食べ物を運んで来たり、冬だというのに薄手の綿シャツ姿で忙しそうに働いていた。そこで渉は傍にあった使い終わった小皿を6、7枚重ねてトイレに立ったついでに台所に持って行こうとした時、社長がそれを見ていて

「おい七海、そんなことはせんでいい。君はお客さんだぞ」と言われ、叱られた。


 その時は、お手伝いさん二人がすごく大変そうに見えたから、ちょっと位手伝って上げたって良かろうが、と心の中で思った。さすがの僕もかなり不服だったのだが、家に帰ってその話を親父にすると、

「流石、社長だな。お前の事をちゃんとお客として見 てくれている。お客がそういうことをして一番悲し むのは誰だ?」と親父が言うから、

「社長?」と言うと

「いや違う。お手伝いさんだ」と親父。

「何で?お手伝いさんは助かると思うじゃない」

「そりゃ、口ではそう言うだろう。でも心の中の本音 は?」

「本音?」

「そう本音。仕事が遅くて見ていられないから持って きたぞ。と取られ兼ねない」と親父。

「だから社長が代弁してお前は客だ。俺にそしてお手 伝いさんにも恥をかかすな。という事だ。分かった か」と親父が云ったので

「それは考え過ぎだよ。そんな風に思わないよ」と

反論するも、

「お前はまだ若いからそう思うんだ」

「ふうん。そんなもんかな」とそれで話は終わった。しかしなんか納得がいかなかった。

 

 でもやはり親父の言った事は正しかった。それは親父が亡くなって数年後、長女が結婚し、最初の正月、娘婿が食事の後片付けを手伝っているのを見て、「君は今日は客だぞ。そんなええカッコし~しなくても○○〇…」と思い、瞬時に37年前の正月のあの光景が思い出されて、ずっと忘れていたことだったが「そうかそういう事か」と今更のように納得がいったのである。

 

 研修が修了し翌週本社に出社すると、男子新入社員31名の配属先の発表があった。渉は曽野原君と2人で宝飾課に配属された。

 

 

今週も最後まで読んで頂きありがとうございました。

次回は本来、26日(金)になりますが、その日は帰京の日。

ゆっくりしたいので27(土)の投稿にさせて頂きます。

 

本日・明日は、博多・福岡辺りの書店回りの合間を見てアメーバブログで「いいね」を下さったり、フォローっして下さっている方から「折角なのでぜひお会いしましょう」と連絡を下さった方とお会いし、交流を深めたいと考えております。

全部の方とお会い出来ないかもしれませんが、お会いしたいのでぜひご一報下さい。

お仕事の邪魔にならない程度にお伺い致します。