もう一昨日の事になるが、僕は「じゅんぺい」さんという同い年の女性と、旅ならではの奇遇な出会いをしたのだった。この事は後日「旅行記」の中で大いに書きたいので今回はここまでにしておきましょう。 

 この中に出て来る母の脊椎の手術をして頂いた堀之内先生は鹿児島のご出身だと母から聞いた。今日はそれを知ってから初めて鹿児島に行く。お墓の場所も分からないが、鹿児島に入ったら、とにかく手を合わせて心の中でもう一度お礼を言おう。

 

 

《以下本文》     

     大学時代の思い出 

       1

 大学生の時の思い出と言えば、やはりこの人との出会いを抜きにしては何も語れまい。

吉野真一君である。二年生になってからよく話す様になり、家を行き来する様になり、渉の家からは電車で40分位の所に住んでいた。結構イケメンで洋服のセンスも良く何はともあれ、気が合った。お互いに家を行き来している内に気心も知れてやがて親友になった。彼には3歳年上の姉さんと5歳年下の妹がいた。

 

 お姉さんのエピソードと言えば、彼女は日商岩井という大手商社に務めていて、その年、盲腸の手術で会社を休み、治って会社に出勤した日に「快気祝い」で大きなデコレーションケーキを皆さんに振舞う為、朝の通勤列車では持っていけないので、代わりに吉野君が会社の昼休み時間に合わせて持って行く事になっていた。渉はお伴で赤坂の会社に二人で出掛けた。

 会社の受付でお姉さんを呼んでもらい、暫くするとお姉さんが降りて来てケーキを渡し、ビルの外へ出ると後ろからコートを着た二人組の男に声を掛けられた。

 

 足を止めて振り返ると

「すみません、私達はこういう者です」と言って

警察手帳を出して、こう話してきた。

「すみませんが、先ほど大きな包みを持って、

日商岩井さんのビルにお入りになりましたよね」

「ええ、はい」と吉野君が答えると

「あの包みは何ですか」と聞いて来た。そこで吉野君が

「あれは姉から頼まれた快気祝いのデコレーションケーキで……」

「分かりました。済みませんが、お姉さんともう一度連絡を取って頂いて

その場で電話を替わって貰うことは可能ですか」と言われ、

吉野君は早速近くの電話BOXから電話をして

警察の人に代わった。

そうしてお姉さんが警察の人に説明し、警察官は

「分かりました。お忙しいところお手数をお掛けし

 有難うございました」と言って受話器を置き、

渉達に向かって

「お引き止めを致しまして申し訳ありませんでした」

「ご存じだとは思いますが、

 先日丸の内で起きた三菱重工本社爆破事件後

 都内の大手商社には厳戒態勢を敷いている関係で

 不審者の徹底排除の厳命が出ているもんですから」ということだった。

僕らのケーキの箱が異様に大きな(多分、縦横40センチ、高さ20センチ位)代物だったので疑われたんだと思うが、その後、学校でそのことを自慢げに必修科目の授業でクラスの皆に吹聴して回った子供みたいなアホがいた。それは? ……渉だった。

 

       2

 15歳(中三)の妹との接点は、当時全く無かった。夏休みに泊まりに行った時に庭で一緒に花火をやった記憶位しか無かったが、どういう訳か彼女は今でも渉の一番近いところにいる重要人物なのである。

 つまりそれから13年後、我々は吉野君の奥さんの勧めで「結婚」したのだった。苦節36年と言いたいところだが、渉に言わせれば苦節など全くなく、渉にとっては全く以って、今でも最高の嫁さんなのである。

 渉の好き勝手な生き方に対して、まるで母親の如く包み込んでくれる優しさで、心の一部になってくれている。

 ふと、その夏の庭での花火の時に撮った、火の点いた花火を持った彼女の白く細い腕だけの写真を思い出し、人の(えにし)とは不思議なものだと思うことがある。

 

       3

 大学二年の四月、母が三度目の入院をした。

普通の人と同じ様に外出をして食材を自分で買いに出掛ける等、極々普通に過ごせたのは手術から89歳で亡くなる迄の48年間の内、僕が中二から高三までの5年間だけだった。

 その5年の間にも、手術で輸血した血液の所為で「黄疸」になり、数か月の入院を余儀なくされ、頭の重い日は何日間か横になったりで、母の人生の半分以上は「憂鬱の塊のような日々」だった。

 今回の入院も、体重計に乗って測定値をみようと下を向いた時にめまいが起きたのが原因で、胸がムカムカしたり、天井が回ったりという初期の症状がまた出て来てしまった故の入院だった。

 

 当時の日記をここで紹介しよう。

1975年(昭和50年)6月23日(月)晴れ

今、僕にも一塊の悩みがある。もう絶対に治る事のないお袋の病気。いずれ半身不随とか神経系を完全にやられてしまうかもしれない。

親父の老後の夢は一つずつ消え去り、お袋は生きる意欲を無くし、僕は僕でお袋の入院費を稼ぐために一生働き詰めに働かなければならないかも知れない。お袋よ、元気になってくれ、お願いだから!

 

 その後も何日かお袋の事を書いた日記があるが、今読むと‶余りにも女々しくて”読んでいて腹がたってくるので、ここに紹介するのは止めました。

 

同年7月12日(土)曇り時々雨

 お袋が三カ月ぶりに帰って来た。割と元気そうなので安心した。でもお袋は自分で元気だと思うとやりたい放題動いてしまうので、周りが自重するように諫めなければならない。夏の終わりにまた入院というような事にならない様気を付けなければならない。とにかくこの夏を何とか乗り越えられるように気を配らねば。【日記より転記】

 

 お袋がこの〝50歳でした入院〟を最後に、亡くなる迄の39年間入院をせず、日々、身体と相談しながら「あっちが変だ、こっちがおかしい」と言いながらも、病気が安定し、恐れていた障害を避けられたのも、執刀医である堀之内先生のお陰だと思い感謝している。

 先生が心配していた"半身不随"や"神経系を侵される事"も無く、無事に生涯を終えることが出来た。

 それより何と、お袋より年下の先生の方が、先に逝ってしまう事を一体誰が想像しただろうか。それだけ本人にとって、そしてその家族にとっても本当にありがたい事だった。亡くなる順番がおかしくなる程、先生の手術の技術が飛び抜けて凄かったんだという事を物語っていると思い、先生のご冥福を心から祈るばかりである。

 

       4

 渉が二十歳の時、T社のバイトでJデパートの清掃の仕事でのことだった。通常は各売り場の出荷商品や、届いた商品を入れて運ぶための台車(縦の長さが100㎝、幅60㎝、深さ90㎝くらい、重さが多分3~40㎏はあろうか)というカートに、清掃の時は、ゴミを入れて、ビル1階の回転駐車場の脇にある大型のダストBOXに二人でカートごと持ち上げてゴミを捨てるのだが、その日は安井君という古株のバイト仲間と組んで仕事をした。

 いつもゴミ捨てが最後で仕事が終了するのだが、その日もいつもと同じように「せーの」でカートを持ち上げた次の瞬間、安井君が何かに蹴躓(けつまず)いてカートが安井君の頭の上に落ちそうになった。

 「ヤバイッ」と思った渉は、咄嗟にカートが安井君の頭に落ちない様、思いっ切り踏ん張った。その瞬間、腰がギクっと音を立てた様に感じ、一瞬、ピリッとした痛みを感じたが、カートは安藤君の頭を辛うじて避け、コンクリートの床の上に、集めたゴミを蹴散らしながら、もの凄い音を立てて落ちた。

 その音を聞いて、守衛さん二人が驚いて飛び出して来て、倒れた安井君を

「大丈夫か」と起こしながら聞いた。安井君は

「すいません。大丈夫!」と言いながら両手を守衛さんに預けて立ち上がった。

 そして、安井君は足元の固定されたパイプを恨めしそうに眺め、

「こいつの所為だ」言い、そのパイプを踏み付けながら、渉に

「ゴメン。大丈夫だった?」聞いたので渉は

「うん、ちょっと腰をひねったけど問題ないよ」と言い、それは済んだのだった。

 

 その翌日の朝のことだった。起きようとして上半身をいつもの様に起こそうとした瞬間、腰に激痛が走り、全く動けなかった。(なんで?)と思い、頭がまだボーッとしている中で、一生懸命に原因を探りに行っているのが分る位になった時、(そうだ、昨日のカート)と瞬く間に、全ての映像がフラッシュバックして来た。

 

 あれから48年。当初半年の間、下半身や足の皮膚をつねっても、当初は感覚がまったく無かった。病院で若い看護婦から「結婚まだでしょ、大変ね」と言われ、もしかしてアレが出来なくなってしまうのかとも恐怖のどん底に陥ってしまった。

 それからと云うもの、ぎっくり腰で一週間仕事を休むことが、二年に一回を繰り返しながら、渉の腰は半世紀の間、紆余曲折を繰り返しながら、今日までずぅーと良くなることはなく、歳相応+腰骨のずれ等から来る、腰痛に悩まされ続け、最近では腰の周りの筋肉が削げ落ちた為か、支える力迄もが極端に落ち、キッチンでの洗い物や洗濯物を畳む程度の作業でも、すぐ腰がパンパンになり、あと36年生きなければ達成出来ない目標が有るにも拘らずこの(てい)たらく。先の道のりは大変、且つ遠いのである。

 

      5

 そして、学生生活最後の日記を、ここでご披露しよう。

  1977年(昭和52年)3月27日(日)雨のち晴れ

 あと100時間もない。正確に言うなら98時間足らず。何の時間だって?4月1日に会社に行くまでの、僕に僅かに残された束縛されぬ自由な時間だ。

 仕事に生きがいを見つけない限り、永久に本物の自由はもう戻っては来ない。休日だって仕事の事が頭から離れず、いつの間にか会社へ行って仕事をするのが当たり前のようになり、「何をおいてもまず仕事」なんていう人間になってしまう。

 休日も、自分の気持ちを休めることはなく

(明日の商談は上手くいくだろうか?上手く行ったら係長の道も遠くはない)なんて考える様な小ッポケな人間になってしまう。

 仕事の為には奥さんが病気でも、子供が怪我をしても、両親が危なくなっても……じっと我慢して生活の為に……。いやそうなるともう感情を殺してしまう事がいとも容易に出来る植物みたいな血のない、頭でっかちの堅物になってしまう。

 

 何のために働いているのか。ただ働くことが自分に架せられた、犯した罪の償いをするかの如く。自分の生活を素晴らしいものにする為の仕事なのに、仕事の為に生活を台無しにしてしまう。そんな事って考えられるのだろうか。

 矛盾の様で矛盾ではない日本の現状は、僕には全く理解できない。いくら働いても生活に潤いは訪れず、苦しむことがまるで美しい事のように思われ続けている。

 フランスでは大人でも夏休みを2週間か~1か月取るらしい。イギリスでは日曜日には店という店は皆閉まっているらしい。皆のんびりマイペースで自分の生活を築いている。焦ることなく、そして他人の持ち物を気にすることなく。

 先の戦争で負けて何もかも失った日本にとっては、がむしゃらに働いて今の日本を築いたことは確かに立派な事かも知れない。しかしもう齷齪(あくせく)働く時代は終わった。日本も、日本人も今ではすっかり疲れ切っている。【日記より転記】

 

 

   番外編「これから社会人になる貴方たちへ」

    

 まず「どうしても読んで頂きたい」と思い、書いた事をご理解頂きたい。ここでいう「人」とは「人類」を指し、鍵カッコのない人は単なる個人と解釈してほしい。

 

 

 人間の欲望は果てし無く、そして限りがない。やがてそれが「地球規模」に膨張した時、宇宙で最も美しい「地球」という惑星は自らその命を消滅させてしまうだろう。

 「人という生き物は賢いが故に愚かである」。賢い者の知恵は、「理性」が届く範囲で使われれば「善」となり、「欲望」が優先して使われれば「悪」となる。 

 つまり人は誰しもが「裕福」で他人が羨むような一生を送りたいと考えるものである。そうした競争心や、さらなる極みを望む向上心が「人」の生活に寄与して来た事もまた「事実」である。

 

 しかし、この地球上にある、或いは地中にある、或いは空の中にある物すべてには「限り」がある。生きているもの全てに「寿命」がある様に。

 それを一人の人、或いは先に見つけた人、或いは先に考えた人が「独り占め」したら、大袈裟かも知れないが、残った人は地球の恵みを享受出来ない事になる。「人」の中で「恵み」を享受した人と、そうでない人がいる事自体が大きな問題だと渉は思うのだ。

 それは今、国家単位で表現すると、まさしく「先進国」と「途上国」或いは「貧国」という差になって既に明確化されていると思えないだろうか。また今、「人」が行っている事は、他の生物からすれば「独り占め」された状態であると言えないだろうか。

 

 イギリスで起こった「産業革命」以来、「人」の間には「明確」且つ動かし難い「不平等」が発生した。渉は「産業革命」が悪いと言っているのではない。この「革命」によって、「人」は考えても見なかった文化的な生活を享受したのだから。

 しかし、大切な事が置き去りにされた事に、「人」が気が付かなかった事が問題だった。

 「苦楽は共にする」から、人は生きて行けるのであり、どちらか一方が強くなりすぎると、社会は混乱を来すのである。

 

 「人」が作った一番愚かなものが「ポリティカル イデオロギー(政治的観念形態)」であると渉は思う。簡単に申し上げると、それは「資本主義」と「社会主義」という事になる。この最たる邪魔者が人の生きる道筋に(はばか)っていると考えられる。   

 「資本主義」でも「社会主義」でも「働かざる者食うべからず」である。どちらの形態にしても「弱者」には生きて行き難い考え方である。

 今、世界のあちこちで起きている「貧困」はそう言った観念形態が生んだ産物である。人は生まれた国家や家庭によって「豊」か「貧」に分けられてしまう。アフリカの貧国に生まれた子供、或いは先進国の中にだって存在する「貧民街」の中で生まれた子供は、生まれて来ても食べて行けない。

 

 つまり、「死んでいく運命を背負って生まれてくる」のである。

 

 人は皆「話すこと」が出来る脳を授かって生まれて来る。その脳が発達する前に生命が朽ちていくのである。「嬉しい」、「悲しい」、「楽しい」、「つまらない」、そして「病気に罹り、治って、再スタートが切れる」といった普通に育って行けば誰もが経験する事も知らずに、いとも簡単に今日も何千、何万もの幼児が無くなっているのである。そんなことがあっていいのだろうか。絶対に良いはずがないのである。

 

 「人」は人を殺せる武器は作れる癖に、他人を助けるような心を持ち合わせていない。なぜなら宗教によって人と人は殺し合うことが出来ても、宗教によって救われるのは同じ宗教の同じ宗派に属している人達だけなのである。「宗教戦争」という言葉があること自体「人」は間違った方向に舵を切ってしまったのか、と思えるのである。

 無心教の人間が多い国の方が争いが少なく、平和であるというのは一体どういうことだと考えてしまう。仏陀もアラーもキリストも、それを信じているから生きて行けるのに、どうしてアラーとキリストを信じている人同士が争うのか。争って亡くなるのが大人だけなら、当然の報いで殺されても仕方がない。しかし常にまだ年端のいかない幼い子供が巻沿いを食うのである。他人の子供を殺しても平気で、自分の子供が目の前で死んで行くのは絶叫して阻止しようとする。とても同じ人間ができることではないはずだ。

 いくら書いて嘆いたって、そんなものは何にもならない事が悔しいのであり、空しいのである。「人」とは残念ながらそういう生き物なのである。

 

 「人」を除いた「動物」は自然災害による飢餓や天災によって滅びる事があっても、決してイデオロギーでは殺されない。つまり生まれるも、生きるも、そして死ぬも、すべてが自然であり平等である。

 

 本来「動物」が持つ食欲・睡眠欲・性欲という三大欲に、「動物」に分類される「人」にはもう一つ「物欲」という「欲」があり、これが「悪」の根源になるのである。「物」を保有したいという欲望を「満たす」為、また逆に「削ぐ」為に「(かね)」が重要の役割を果たす。物と物の交換で済んでいた時代は、人と人の間にそんなに大きな格差は無かったのではないかと思う。

 

 せめてこれから社会人になる若人には、これだけは知っておいて欲しい。

 

 これからの「人」は「他人(ひと)の為」に物事が動く仕組みを作っていかなければならない、と。本来は以前からそうでなくてはならなかった筈の「人としての道」を、きちんと整備して歩けるようにするには、数百年或いは、千年以上掛かるかも知れない。だが、少しずつでも前進していかないと、冒頭で申し上げたような地球に存在する全ての生きる物を巻き込んだ悲惨な最期を迎える事になる。

 しかし「賢い人」たちが、既に気が付き始めている。そしてその人たちが警鐘を鳴らし始めていることもまた事実なのである。

 

 大学を卒業して、これから社会へ出て働こうとしている貴方たちに伝えておきたい「大切なこと」をこれから申し上げます。少し長くなりますが最後まで「ゆっくり」「しっかり」と読んで頂いて心に留めておいて欲しいと思います。

 

 今年、世界の人口は80億人を超えました。このスピードで行けば100億人になるのも時間の問題です。そう言う中で、皆さんが目の敵にしているゴキブリや蚊と云う様な虫迄を含めた全ての動物の数を合計したら、その数は多分天文学的数字になると思います。

 その全部が何らかの形で物を食べて生きて行く訳ですから、まず全部の動物の胃袋が満たされるだけの食料確保が必要です。それも毎日の事なのです。食料が枯渇し始めると、弱い種から消滅していく事になり〝食物連鎖〟が上手く機能しなくなって「人」以外の種が段々と犠牲になり、最後には「食料強奪戦争」が「人」にも及ぶという状況が見えてきませんか。   

 

 日本政府は今、「防衛予算を5年間で新たに四十三兆円確保する」という政府案を国会で討議中です。国防も勿論大切な事ですが、その前に食料が足りなくなったらどうするの?という事にまず決着をつけないと、日本に限らず外敵が侵入する前に、国内から自滅する事が無いのか、と云う事の方が余程重要な事ではないのでしょうか。

 

 ですから、まずは「食料の確保」が緊急課題だと思います。特に日本の食料自給率は38%と先進7カ国の中でも最下位です。つまり、我が国の食料の約三分の二は輸入頼みなのです。今食べている食べ物の量が3分の1になったら皆さんは生きていけますか?大食いの渉は絶対無理です。

 考えて見て下さい。その中には皆さんが大好きな、黒毛和牛飼育用の餌も入っているという事を。動物園の餌やドッグフードなどのペットの餌も同じです。食料危機は、そう、全ての生き物の上に覆いかぶさってくるものなのです。

 世界的規模の戦争や疫病の流行、さらに天災の発生による食料の枯渇、そして最も恐ろしいのが「人」が作った経済システムが破綻するということによる食料の不足。    

 食べ物が豊富にあっても食べられないという、つまり現代に於いても、国力が一気に、そして極端に落ち込むことがあれば、アフリカの最貧国と同様に餓死する人が出てくるのです。

 日本も昨年は「極端な円安」となり食べ物は勿論ですが、それ以外の全ての輸入品が今年に入ってから一気に高くなりました。経済の破綻はそういう意味で恐ろしい魔物にいつでもなるのです。

 ですから、そのような状態を乗り越える為にも本来〝食料自給率は100%以上〟が理想なのです。そうなれば、為替の変動がどんなに円安に振れても、天災や戦争に巻き込まれない限り、食料が枯渇する事はまずありません。

 本当に豊かな国と云えるのは、争いが無く、人々が皆が食べるものに困らないということではないでしょうか。

 

 ですから、農業や食品関係で働くこと自体が「他人の為」になります。バイオテクノロジーを使った農業経営や、農業そのものをビジネスと捉えた、新しいポジションの仕事など開発の余地が幾らでもあります。しかし、自らが農業を始める事はそう簡単には出来ません。今若い人で農業に従事している人の多くは、概ね代々専業農家でやって来られた方達だと思います。現代の若者に農業経営の話をしても、残念ながら、やりたい、やってみようと思うという人は殆どいません。ではどうしたら農業を魅力ある産業にして従事者を増やし、食料自給率を上げて行けるのでしょうか。

 

渉はこう考えます。まずこういった大事業は総理大臣一代の任期で出来るものではないし、また政治の世界だけでやっても成功できないと思うので、官民一体となって総力を結集してやるべきであり、国家の有り様を大きく転換する一大国家プロジェクトだと考えます。ここでは農業を中心に話をしますが、水産業・林業も同時に動き出す必要があります。

 

TVのCMなどを見ていると、既に一部の企業ではそういった事業に開眼されていますが、まず資本力のある食品製造の大手企業並びに農機具製造のメーカー等が国家と協力し合って、

①今まで輸入していた原材料(小麦、トウモロコシ、小豆、大豆等)を自社の畑で生

 産する。

②自社の畑は全国に散在する有休畑を借り上げる。

③そこに人材を日本並びに世界各国から集結させる。そして、前段の⓵②の企業が農

 業従事者を正社員として雇用する。

④新しい設備の投入とインフラの整備(農耕器具、集積場、運搬インフラ等)を行

 う。等々、これらを整えて政府、民間、地方自治体の「三位一体」で進めて行く。

 

 国が関与する事といえば、その企業の事業が黒字になる迄の間に対する、期限付き法人税や固定資産税の減免。資金の提供、並びにインフラの整備などの他、海外からの人材確保を行う。雇用した外国人に対して企業の対応(賃金、労働環境、住宅の供給等)が、国が新たに設定した基準で適切に行われているかのチェックなどを行う事とします。その他にもAIの活用等も政府の仕事だ。

 

 そうすることによって、まず、第一に自社で生産する原材料の商品の安全で安定した供給が実現します。また、AIの機器投入により大幅なコストダウンが図れれば、価格安に繋がる事も考えられます。さらに原材料は「必要な時に必要なだけ」使え、余剰は天候不良や自然災害用の備蓄として利用するもよし、他企業に販売する事や輸出も可能だ。

 

 有休地の借り上げによって、元農家の人達も金銭的に恩恵を受ける事ができ、また地元農家の若者が都会に出ないで、大手企業の社員として農業に従事して一般のサラリーマン同様給料を貰うという事になり、社会保障も受けられる。

 また外国からの移住者によって、部落が活性化され、さらにその中で永住を決意する外国人がいたり、日本人と結婚をして家族になったりすると、そこに新しいコンミューンが出来、地方の活性化が始まります。

 

 そして将来を見据え、企業から独立して農業をやりたい社員には、企業は率先して専属契約を交わし、有休地の返納・再分配を行い、生産したものを優先的に買い入れる事を行っていけば、良い意味で企業が肥大化する事を防ぎ、独占的立場に陥る事も避けられ、さらに生産量や生産種が増加する事も考えられます。

 そうして新しい形の農業で生産効率が上がり、一般的なサラリーマンより収入が増えれば、地方で農業を大企業の社員としてスタートさせる若者も増え、都市部から地方への若い世代の流入がおこり、結婚後、子供も一人よりは二人、二人よりは三人と増えていく可能性も高くなる。食に掛かる費用と学費が抑えられれば子供をもう一人欲しいと思う夫婦は大勢いるはずです。

 

 子供は国の宝と考えるのであれば、養育費を国が負担するという考え方で、少なくとも高校生までの義務教育化と授業料の全額免除、さらに成績優秀な子で大学進学に必要な資金が払えない場合は返済無しの資金援助をし、後は十八歳までの医療費免除を行えば、子供に掛かる費用負担の大部分が軽くなり、将来の年金に対する不公平感や不安の払拭にもなり、徐々にそんな事からも脱出できるのではないかと考えます。

 

 また、住んでいるところが、物価も安い自然に囲まれた地方の農村部であり、自宅の土地や住居も都市部と比べて断然広い。人口がそれなりに増えて行けば、学校、病院と言った公共物も増えて行き、都会並みのインフラ設備も徐々に整い、毎週日曜日に放映されているTVの人気番組「ポツンと一軒家」も増えるかもしれない。これらが軌道に乗れば、都市への人口流入も抑えられ、地方の活性化、少子化の阻止までもが見えて来る。

 

 もし渉が総理大臣だったら、農林水産省に優秀な人材を集結させてこの夢の実現を目指します。国家を挙げて農業化の推進を図る。同じ様に林業・水産業も生産者~製造者~流通業者~消費者全員が「WIN・WIN」のかたちが取れるようにする事は可能だ。第一次産業が活性化されて初めて本物の「地産地消」が実現されるのである。

 

 「農業」「漁業」「林業」の第一次産業は大袈裟ではなく「人」の命の根源に関わって来る職業だから、常に”未来永劫”を謳い文句に、大いに若い人たちが新しい発想で舵を取って行って欲しいと考える。 

 体力のある者は生産者として、体力には自信がないが一次産業に参画して「他人の為に仕事をしたい」と思う者は、種や苗の品種改良を始め、日本米や日本酒の輸出や農業の企業化、「漁業」であればマグロ・鯛などの養殖、「林業」では地産地消を兼ねて国内用の建築資材の流通などのビジネスへの参画に力を注ぐべきです。

 

 そしてどの第一次産業にも絶対必要な物がもう一つある。それは各産業機器の無人化(AIロボット化)です。

 今日、たまたまTVで北海道大学の野口教授が岩見沢市のプロの農家の協力を得て、農機具の無人化=AIロボット化を既に三十年掛けてやっていらっしゃるという番組を拝見して「正しく、これだ!」と思ったのです。

 AIの技術は悪用されると大変な事になる為、現段階では難しい面もありますが、是非上手く乗り越えて頂いて、コストパフォーマンスや畜産業に従事する人が心配なく旅行に行けるようになるのが、新しい形の農業の形になるのです。

 このように、まだまだワクワクするような未開のビジネス分野も沢山あります。自分が生まれた土地=地元で出来る仕事が沢山あると言う事も一つです。

 

 人が少ないから増やそうという単純発想で、人を増やせば食べ物が回らなくなる。逆に働き手が無ければ生産効率が落ちるだけでなく、生産そのものが出来なくなる。

そう言った矛盾を解決し、文句も言わず、病気もせず、食費の代わりに今であれば電気若しくは化石燃料を与えてあげれば、「人」が十年掛かって漸く開墾する畑だって、たった数ヶ月で立派な畑にしてくれる、機械やロボット達がいる。

 耕す土地や作る作物によって機械の量を調節していけば、もしかしたら一家族とパソコン一台で10ヘクタール(1000m×1000m)だって耕作出来ることだって考えられなくはない。

 

「食」以外の「衣」「住」の分野でも同じようにしてニーズに合わせた、新しい手法や発想で「産業革新」をすることを、今、日本が持っている先端技術や経験を生かして、〝考えそして実際に並行して挑戦〟していけば、必ずやそれは以下の事をもたらしてくれる。

 自給自足、少子化対策、地方の活性化はもとより、健康年齢の長期化、体力の向上、疾病の減少、精神的病の減少等により健康保険料の歳出も抑えられ、地方の年配者にも働き口が増え、都市と地方の格差が埋まり、若い世代がドンドン地方へ出て行ける枠組みも出来、やがて、消費税を20%に出来る日もそう遠くない時期がやって来て、国債を毎年発行せずとも国家予算が組めるようになる。

 そして、その頃になると年代別の人口グラフも穏やかな「ピラミッド型」に戻り、核家族が生み出した最悪の要因「家族別世帯」から、一つ屋根の下で三世代が住み暮らす様になれば、女性の社会進出は今まで以上に進み、夫の育児休暇の取得も不要になる。なぜってそこには年金生活をしている老夫婦がいる訳だから。一つ屋根が嫌だったら、広い敷地に二棟でも三棟でも地元の木材を使って家を建てればよい。

 

 1961年に始まった年金支給によって、老夫婦と現役世代が別々に住みだし、今の様な女性が社会進出したくても出来ない、男性が育児休暇?等と白い眼で見られるという事が新たに発生した訳で、そういうことを経験した後で、三世代がスープの冷めない距離に住むようになれば、経済的にも別々に住むより効率が良いし、また幼い子の面倒はジジババが見てくれればOKではないですか。

 

 そしてもう一つ、大きな問題が解決に進むと思います。それは「空き家問題」。国の統計では全国の空き家は平成30年で八百四十九万件。これは平成25年と比較すると六十三万件の増。この数値を基にすると、今年で九百万件を超え、一千万件が目の前という状況だ。

 只、これは大変な数だが逆に考えれば、特に地方の空き家をリメイクして住む人が増えれば「空き家」利用により、改築で国産材の需要も増えるし、予算も丸々一棟建てるより安くて済む。

 林業にもAI機器やインフラの整備等でコストダウンが図れれば、わざわざ高い船賃を使って輸入せずに、国産材で空き家の修理修繕が出来るようになり、その数が少しずつ減少し、さらに都市部に立っている「空き家」についても、相続者が処分する時に、1年以内に家を購入した場合には、不動産販売益に対しては軽減税率を設定するという様にしていけば、全てが丸く収まる。

 

 実際はそうトントン拍子には行かないまでも、日本には人口の都市部集中、農業の減退、荒廃農地、都市部と地方の不動産価格の格差等のベースがある上に、先端農業技術、並びにそれを操る優秀な人材は大勢いる。

 政府にも、現金給付のばらまき政策ではなく、官民が手を取り合って、第一次産業へのテコ入れに対して税金を使って行く事をぜひ考えて実行して頂くようお願いしたい。そうすれば、必ずやこの20~30年の間で、日本は、またそれを手本にした国は絶対に変わると確信します。

 

 しかし、現実に目を投じれば、今は「飽食」の時代。食べ物はお金さえ払えば、食べたい物が食べたい量だけ食べられます。しかしそれが、戦争や為替変動、さらにウイルスや細菌の流行等で、皆さんが考えているよりずっと早いスピードで目の前から食べ物が無くなって行ったらどうでしょうか。 まるでコロナがアッという間に全世界に蔓延したように。

 

 これから社会に飛び出して自分の夢を叶えようとしている皆さんに、少しだけでも「農業並びに一次産業の大切さとその無限なる可能性」そして「他人の為に仕事をする」という事を、頭の隅に置いて頂いた上で、将来の仕事を選んで欲しいと思うのです。そうして選んだ仕事は、「皆さんの夢や希望をきっと実現してくれる素晴らしい仕事になる」と確信しています。

 

 さて最後に、今は亡き人の言葉でこの「章」を閉めさせて頂きたいと思います。

 

〝借りたら返す〟

      生きているということは

         誰かに借りをつくること  = 永 六輔 =

 

 

 今回も最後まで読んで頂き、誠にありごとうございます。

特に今回は週二回の投稿になってから一番長い量になってしまいました。

 本来であれば遅くとも昨日内に投稿しなければならないはずでしたが

約束破りの常習犯にならない様、以後気を付けますのでお許し下さい。

 

そして一昨日と昨日、都城の本屋さん、BOOK OFFの店員さん、イオンモール

のパスタのお店の店員さん。

本日、鹿児島の本屋さん、喫茶店のマスター、鹿児島中央駅前で街頭募金を行っていた「あしなが学生募金」の方々、僕の話を聴いて下さり本当に有難うございました。

 

次回の投稿は来週の23日(火)です。

これからも宜しくお願い致します。