今、僕は熊本に居ます。ついに来てしまいました九州へ。

笹本君が70歳まで迄働いた自分へのご褒美で、「日本全国一人旅」に出発したのが3/30日。遅れること約二週間。僕も彼の旅に便乗してこれから約10日間、九州を満喫?ではなく、九州全土に私小説の種撒きをしようと思います。

 僕のブログを読んで頂いている九州にお住まいの方、全員とお会いしたいのですが、是非会って色々お話をしてみたいという方は、コメント欄にその旨をお伝え下さい。何をさて置いても会いに行きますので、どうぞ宜しくお願い致します。

 一応明日以降の行き先を書いておきましょう。

 

 4/17 熊本市内。  /18 えびの→小林市→都城市  /19 鹿児島市内

 4/20 人吉市内   /21 久留米~うきは市   /22 佐賀市~佐世保市

   /23 唐津~博多  /24 北九州市~小倉    /25 未定

 

 

 

     ひた走る音楽への道

 

 学生時代のもう一つの青春がシンガーソングライターになる夢だった。中学生の時に叔母に買って貰った「モンタナ」というメーカーのギターから出発した、渉の音楽活動は全てが我流。だから未だに「オタマジャクシは蛙の子」で音符が読めない、書けない。

  それでも渉は音楽を聴くだけでは飽き足らず、自分で作り、自分で歌いたいと思っていた。それは加山雄三から始まり、ビートルズへと移行していった。音符なんて読めなくてもコード進行を憶えさえすれば誰でも曲を作ることが出来る事をビートルズが教えてくれた。

 ギターを弾きながら歌う事が本当に好きだった。作曲は高校時代に始まった。初めて作った曲は初めて他の人も巻き込んで歌った自作曲「頑張れアボガドロ」(高校時代の「目指すはシンガーソングライター」の項に記述在り)だった。

 

 その後、大学時代はクラスに‶シカゴ〟が大好きな磯川君というのがいて、シカゴのリードギターのテリー・キャスのギターテクニックの真似が抜群のヤツで、特に「長い夜」という初期の大ヒット曲のギターソロは、本物かと思わせる位上手かった。そんな彼の自宅に何度か遊びに行った。

 彼の家は都内のTI線のK駅にあり、自宅の前の家が六大学野球で○○御大(おんたい)と呼ばれて有名な監督の方が住んでいるという、その当時、都内でも有数の各界の著名人や名士が住んでいるところでだった。 

 彼の父上は某有名大学の教授であり、お兄さんはCBSソニーでディレクターをやっていて、シカゴ、BS&T、サンタナ、ジャニス・ジョプリン等の錚々たるアーティストのディレクターであった。

 シカゴが初来日した時のコンサートのライブレコードを手掛けた人で、武道館でのライブを録音したものだが、その「シカゴ・ライブ・イン・ジャパン」は音もさることながら、選曲、アレンジメント、メンバーの演奏の「乗り」等、世界の名だたるディレクターが称賛する、今でも全てに於いてシカゴのライブ盤の中でも、至極の名盤と謳われている一枚なのである。

 渉が磯川邸に遊びに行っていた当時、兄さんはセンチメンタル・シティー・ロマンスという日本のバンドのディレクターをやっていた。その兄貴の事を弟の守仁君は、どう思っていたのかは分からないが、余り兄貴の事は話したがらなかった。兄貴は昼夜逆転の仕事で、殆ど顔を見る事も無かった為か、そして、確か歳も6.7歳はなれていたと思う。

 たまに兄さんからCBSソニーのアーティストのアルバムが出来ると、近所に住んでいた泉谷しげる氏の家にその新譜レコードを持って行くのを頼まれたりしていたが、住んでいる世界が全く違っていたので兄弟でも話ずらかったのだろう。

 

 しかし、渉は本当にもったいない事をしたと今でも思う。当時でも渉は既に40曲以上の曲を書いて持っていたが、時代はまさにフォークソング全盛期だったので、今になって当時を振り返ってみると、案外異色のキャラクターで売れたかもしれないと思うのであった。

 あの時、弟に頼んでデモテープを兄貴に渡してくれと冗談交じりに云ってはいたが、冗談で終わりにしてしまった自分に対して、今は相当の憤りを感じている。そんな身近にすごい人がいたのに、デモテープを磯川と二人で作って、何で兄さんに渡さなかったのか。この70曲余りの自作の曲は、当時の買い物としてはかなりの金額であったギターで作った曲で、もう世に出る事もまず無い、渉が生んだ子供達である。

 

  そのギターは、ギター守仁君の計らいで五反田にあるROC(流通卸売センタ―)ビルの中にあった楽器卸店でヤマハのN1000(1975年初期モデル)と云い、100,000円を問屋価格で購入し、以後48年間ずっとこのギターを愛用している。但し32年間は物置に入りっぱなしで、定年退職をした65歳を機に、また陽の目を浴びるようになったので実質使用期間は16年。保存状態も超良好である。

 

 余談だが、このギターはヤマハのポプコンで中島みゆきが、75年に優勝した時からデビュー当時使っていた事で一躍有名になり、今では中古ギター市場でもめったに出ないレア物のギターとして価格も30万円以上になっている。


 音はマーチンD45より個性的な音で、渉はYouTubeで初めてこのギターの音を聞いた時、大勢の子供が泣いている声に交じって、自分の子がどこで泣いているのかが分かる位、その音を聞き分けることが出来る音だと思うようになり、多少日焼けして顔が赤くなったのはご愛敬として、この子(ギター)の事を本当に愛し始めたのであった。

 

 そして、そんな我が子を見ていて沸々ともう一度やってみようという、この歳になったら、ただでは転ばない、もう一つの思いが渉にはあったのだ。

 それは24歳から26歳までの間に作曲した「でたらめ英語で作った曲」が、カセットテープに録音してあるだけで24曲ほどあり、こちらの方は少々自信のあるもので、サザンオールスターズの桑田佳祐がでたらめ英語で作る「日本語の歌詞を載せ易い曲」ではなく、どちらかと云うと、そのまま英語の歌詞をつけて歌った方が「様」になるような曲が24曲あるのである。

 これを基にして前段にも書いたように、72歳になる迄の間に何処ぞのステージで音楽デビューを果たしたいというのが、渉の人生最後の‶大見得を切る〟姿になりそうなのだ。そしてそれは当然の事だが、遊び半分でやろうとしている訳ではないのだ。

 渉のやり方は、自分でまず、人に言う事=宣言する事によって、否が応でもやらざるを得ない状態を作り上げ、それに向かって進んでいくのである。それが最初は、苦痛になったり、夢物語であっても、現実問題、本を書くことだって以前の渉からしてみれば、まったく新しいことであり、自分が本を書く事等、絶対に出来ないであろうと思っていたが、案外やってみると専門家からもまあまあの評価を頂いたので、本を出そうという気になった訳だし、何でもそうだがやってみるまでは分からない。 

 

 そろそろ人生の集大成として今から世間様にデビューさせて貰って、あと最長で35年。短くても後15年は生かして頂いて、「世の為、人の為に」なる事をしながら、人生を終わりたいと願っているのであった。

 

 

「たられば」の世界の話になるが、今思えば高校生の時、軽音楽同好会の後輩から「童謡みたい」と云われた曲だが、時代の流れとしては、後先の事を考えずにあの時デモテープを磯川の兄さんに渡して貰っていたら、案外「瓢箪から駒」だったのかもしれず、ここでも渉は〝出し惜しみ損〟をしている。

 渉は、今でもつまらない物を後生大事に捨てずに取って置く癖がある。奥さんからも「何でそんなものまで取って置くの」と云われるが、性分なので仕方がない。

父の勝の遺品整理の時に(何でこんな電気・ガス・水道代の領収証まで(くく)り紐で束ねて取って置くのか)と思いながら、段ボール箱一杯になった領収書を捨てたことがあったが、血は争えないもので、今まさに全くそれと同じことを渉もやっているのである。

まして自分が作った物を、その世界の専門家から評価に値しないと云われることは、折角作った物を捨てなければならない心境になるのが怖いからなのでなく、只、単純に「嫌」なのである。そして否定されたことに対して納得がいかないのであり、それを世間では「我儘」と称するのである。

 

 

 

真剣味に欠けた就職活動

 

 渉たちの年代、つまり昭和28年~30年3月迄に生まれた学生の就職は、4年前に起こった「オイルショック」の影響で、「戦後最低の就活」だった。1976年(昭和51年)と77年(昭和52年)の二年間は本当に就職活動をする気にもなれない程酷かった。

 何せ、一部上場企業の殆どが一般公募をしなかったので、本来一部上場企業に入社するはずの学生が二流企業にどっと押し寄せたものだから、我々の様な二流大学生の多くが就職戦線からはみ出されて、行き場を失ったと言っても過言ではなかった。

 さらに公務員試験にも‶寄らば大樹の陰〟宜しく、多くの人が流れた為、どこも倍率が10倍以上となり、二年前迄は民間企業でどこも拾ってもらえなかったので、仕方なく豊川市役所に入った先輩もいた位、人気の無かった公務員もこの二年を境に逆転して劇的に「狭き門」となった。

 

 当時、江副さんが社長のリクルート社は既に存在し、厚さ5㎝は有ろうかという企業カタログ)2部構成)を作成して配布してくれたので、すごく助かったという思い出がある。今の様に、大概の事はパソコンやスマホがあれば、家に居ながらにして全て準備できるような時代ではなかった。

 就職活動についての情報がインターネットで閲覧できたり、就職に必要な書類の解説や面接スキルを教えてくれるサイトもその当時は無い。

 時は、今から半世紀前の事であり、まずパソコンそのものがまだ無い。1978年に漸くパーソナルコンピューターと呼ばれた国産第一号が世に出て、「デスクトップ型」でコンパクトな物でも、「立派な仏壇クラスの大きさ」があった。

 価格も安い物で500,000円した時代だったので、余程の物好(ものず)きか、或いは(あたら)物好(もんず)きの金持ちが購入する位で、一般家庭では殆ど買えなかった。さらに、今は当たり前のように、小学生でも持ち運べる「ノート型パソコン」の出現は1990年代になってから、普及し始めたのだった。

 

 そういう中で新聞、TVのニュースや特集番組の情報は貴重だった。そう云った媒体を通して、就職の動向や状況を把握し、募集企業の内容はリクルートの企業カタログをチェックする事で就職活動は出来たが、とにかく大手一部上場企業の殆どが一般公募をせず、会社役員の家族や親戚等から採用する程度だった為に、就職活動は困難を極めた。

 その様な中で、渉も一応はそれなりに大学3年生の秋口辺りから、就職説明会に出席したりして活動しては見たものの、気持ちが不安定で世の中の景気が一向に上向かない事で嫌気が刺し、半分「就職なんてどうでもいいや。取り敢えずどこかに就職して景気が回復したら、鞍替えすればいいや」位の気持ちでいた。またそういう自信もあった。これもアルバイトのお陰だ。

 仕事さえ選ばなければ、自分はどこへでも就職出来るという変な自信があった。これが後になって後悔することになろうとは、この時点では全く考えてもみなかった。

 

 4年生になって就職活動が解禁となっても、暫くその事態を覗っていた。それは決して前向きな行動では無く、学生生活をずうっと続けたいという未練があったからに他ならない。一方ではさっさと就職先を決めてしまって、残りの学生生活をしっかりエンジョイしたいと考えてみたりして、この頃の日記を読み返してみても、色々と思い悩んでいる自分がいて、精神的に尋常ではなかったと思える。

 

 

 今だから冷静になってここに書くことが出来るが、実は四年生の7月頃、Jデパートの店長から「Jデパートの入社試験を受けてみないか」とお誘いを頂いた。Jデパートは百貨店の中では大手ではないが一部上場企業であり、且つ株式市場では「信用銘柄」であった。本来であれば渉の様な二流学生が受験出来るような企業ではなかった。 

 大学生になって本望を「アルバイトをやりながら社会の仕組みを学ぶ」と考えた中で、あがよくば、アルバイト先の企業に就職する事だって〟と考えた事が、本当に最高の状況で叶えられそうになったのだった。

 店長は、

「君は、本橋部長や今井課長からの信任も厚く、仕事もきちんとこなせる能力がある」と言ってくれた。嬉しかったし、すごく光栄で有難い事だと思った。

さらに、

「本来今年は、一般公募は行ってないが、もし君が受験したいなら、推薦状を書くから、今週中に返事を持って来て下さい」と云われた。

 当時、渉は二社に絞って履歴書の作成を始めようとしていたところだった。

ちょうど中元販売の時期だったので今井課長にすぐ相談した。そうしたら意外な返事が返って来た。

「七海君は僕なんかよりずっと百貨店の仕事に向いて    いると思う」

「七海君自身がどうしても百貨店の仕事をやりたいと いうなら、大手百貨店に応募してみればいい」

「でもJデパートで仕事をしたいという事であれば、

 止めておいた方が良いと思うよ」と

云ったのであった。つまり、

「Jデパートには就職するな」という事になる。

 

 今井課長の云わんとしている事は渉も薄々知ってはいたが、まだニュースにもなって無い時だったのでそれ以上、今井課長には「なぜ」の質問はしなかったし、今井課長も渉の反応を見て、(ああ、七海君も知っているんだな)と感じたのか話はそこで突然終わった。

 

 実はこの情報を、それより一週間ぐらい前に6階の

社員用トイレで聴いたのだった。

 その日は夕方〝大の方〟を催して、トイレでロダンの「考える人」状態で便器に腰掛けていた。するとそこへ、紳士服売り場の責任者の伊藤本部長ともう一人が入って来て、大手スーパーのD社にJデパートが乗っ取られるという物騒な話をし始めたではないか。  

 伊藤本部長は若くして(40歳前半で)役員になった人で、序列で言うとここでは店長の次に偉い人だった。普段から明るい人で、声も大きく常にハツラツとしていて、渉たちの様なアルバイトにも気軽に声を掛けてくれる「紳士なおじさん」というイメージの人が、もうひとりの社員に

「なあ、本当にやんなちまうよなぁ。D社に乗っ取られたら、こちとらおまんまの食い上げだよ、なあ。あ~あ、ヤダヤダ」

「もし、そうなっ……」で話がストップした。どうやら大の方のトイレの扉が一か所閉まっているのに気が付いたらしい。暫くして洗面で手を洗い、無言のままバタバタと二人は出て行った。

 

 週末になり、渉はどうしようか迷っていた。当然両親にもJデパートから誘いがあった事は話した。母は「良い話だから受けてみたら」と言い、父は「自分で決めれば良い」と言った。M&Aの話はしなかった。

 

 土曜日の仕事前に店長に面会をお願いし、店長室に初めて通された。ドアをノックすると中から「どうぞ」という店長の声が聞こえ、同時にドアを開けてくれて、柔和な顔で向かい入れてくれた。

 さほど広くない部屋にマホガニー調の両袖机があり、その横に6人掛けの椅子と楕円の会議用テーブルと応接セットが置かれていた。店長は応接セットの窓側の方に座るように手で合図した。渉は上座に座らされて余計に困惑した。

そしてどう話を切り出そうか迷っていると、店長の方から

「で、どうですか」

「考えた結果は」と聞いてくれ、渉は少し戸惑い気味に

「ハイ、折角のお話なのですがお断りしたいと思いま す。申し訳ありません」と物静かに、そして丁寧にご返事を差し上げたら、

「そうですか。もうどこかの企業から

 内定を貰ったのですか」と尋ねられ

「いいえ、まだ応募をしただけで

書類選考や面接もまだです。」と正直に応えた。

「今、何社ぐらい応募されたんですか」と聞かれ、

「二社です」と答えた。

「その二社は本命ですか」とズバリ聞かれた。僕は

「はい」と答えた。

店長は、おでこに親指と中指を当てて、ちょっと考えるような仕草をしてから、(おもむろ)

「いつ頃、結果が出るのですか」と聞いて来た。僕は少々不安気味に

「両方とも10月末辺りと云われています」と応えると、店長は

「分かりました。それだと内の試験には間に合わないな。」と云い、

「七海さん。私どもの試験日が11月の中旬なんですよ。

 そこ迄待って貰えませんか」と、その二社の何れから内定を貰えると読んでくれているのであった。渉は、話の内容によっては、例の話を持ち出さなければいけないのかと思っていたが、タイミングが良くないということだったので、

(ああ、良かった。もし押し切られたらどうしようと心配していた)が、回避できたので、

「お断りする位なら、最初からこのお話は受けません。申し訳ありません」と少し強い口調で云いながらお詫びをすると、店長は

「それはそうですね。残念だけど、仕方ないな。うん、解りました」と、案外あっさりとあきらめてくれた。

その後、話題を変えて約10分、将来の事や今の仕事の事等いくつか質問されて、お応えして仕事場に入る時間になったので、お礼を言って店長室を退出した。

 

その日、家に帰って「お断り」をした事を両親に話したら、

母親は相当期待していたらしく、がっかりして

「そんなスーパーに乗っ取られたって、その時の状況で辞めるか、続けるか

考えれば良いじゃない」と云って半分怒っていた。

父親は、そう云った母に

「そういう噂が立っているんじゃ、入社式前に乗っ取られるかもしれないんだぞ」と云い、渉に

「そうか分かった」と云ってくれた。そしてもう一言

「お前さんが自分の意思で決めた事だ。後で後悔したという事だけは云うなよ」と付け足した。やはり

(その辺はさすが男だな)と思った。

入社して何カ月で乗っ取られたとしても、まあ右も左も分からないひよっこが、すぐ辞めてどこに就職するのだ。後先の事をきちんと考えて、行動する必要があるんだぞと渉は考え、母の方を見た。

 

 その後、M&Aは実際に行われ、多くのjデパートの社員が辞めたと新聞の記事で知った。渉は入社をお断りした事について、あのタイミングでよくぞ乗っ取りの話が湧いてくれたと思った。

 もし、何事も無くJデパートに入社出来たからと云って、その後の百貨店業界の衰退を鑑みるに、いつまでも商いが順調にいくとは限らない事を物語っていたと思える。

 日銀の長いマイナス金利政策によって、世の中はデフレに陥り、住宅ローンの金利は安く済んだが、逆に億単位の貯蓄を持っている方、特にご年配の方で、利子で生活できた人達が億単位の定期預金を組んだとしても年の利子が数十万円では、‶馬鹿買い〟などしてくれる訳も無い。

 働く人の給与も上がらず、‶ジャパン・アズ・ナンバー・ワン〟と云われた国が、「百均」で生活必需品を買う迄になってしまった事は、元々肺が弱いところへ、風邪を引いて年がら年中、気管支炎を患っているような状態になり、気が付いたら、日本は諸外国から見たら、物価が非常に安い国に成り下がっていた。

お隣の中国からやって来る旅行客が爆買いをしてくれて、漸く一息入れられる状態となっているような事では、どうしようもないのであった。

 

 今は百貨店だって倒産する時代だ。地方へ行くとその町のステータスでもあった老舗のデパートが跡形もなく消えていくご時世である。渉が入社しようとした百貨店は乗っ取られてからも秋田や山形にあった店舗はそのまま百貨店として営業を続けていたが、スーパーD社がS系の鉄道会社に乗っ取られた時に消滅したのだった。

 渉自身にも長い仕事人生の中で、紆余曲折あったが、やはり、就職しないで正解であったといえ、M&Aが起きてくれて正直良かったと思った。

 

 話がだいぶ違う方向へ行ってしまったので1977年に戻すとしよう。

 

 そして、もう一社、文具業界最大手のS社に書類を出しに出かけたが、提出箱が4つに分かれていて、「1の箱」は国立一期大専用、2は国立二期大、3は早稲田・慶応・上智・ICU、そして「4の箱」はその他の私立となっていた。渉は一目で腹が立った。「バカにするのもいい加減にしろ」と思った。余程1の箱に入れてやろうかと思ったが、冷静になって4の箱の中に入れはしたが

「東大生がそんなに偉いのか」

「早稲田・慶応の学生がそんなに欲しいのか

 この見栄っ張り野郎」と心の中で吠え立てた。そして(こんな会社こっちから願い下げ)と思った。万一、面接まで言ったら、言いたい放題言ってやろうと意気込んだが、そういう短気者はいらないとばかりに、見事に書類選考で落ちた。

 返却された応募書類はまっさらな封筒のまま、一応、おしるし程度に封は切ってあったが、中身は見ず仕舞いと判明した。封入した順番も折り方も提出時とまったく変わってない。そりゃそうだろう。20人足らずの採用に1,000人を超える応募があれば、いちいち封を切って開けて見てられないよな。と最後には開き直った。

 開き直り(つい)でに、この文具会社は大損していると思った。「4の箱」にこそ、将来会社を「背負って立つ人」がいるかもしれないとどうして思わないのか。折角提出された応募書類に目を通すことすら省くような会社に、何度お願いされたって絶対入ってやらないと誓った。

 結局渉は、文具業界2位の卸販売M社と、婦人嗜好品の組織販売のS社の2社に的を絞って、というと格好良いが、そうではなく、どうせ皆が知っている企業に入社出来る訳はないんだから、就職何てどうでもいいや、と世の中を斜に構えて見ていたのだった。

 

 そして10月半ばにM社から「採用」の連絡を頂き、10月末にS社からも「採用」の通知を頂いた。M社は目黒で賃貸の本社で従業員30名、売上15億円。片やS社は池袋で地上8階地下3階自社ビル(入社二年前建設)で従業員460名、売上80億円。

 さあ、君ならどちらを選ぶだろう。「寄らば大樹の陰」でS社であろう。結局、渉もS社に入社した。S社で25年に渡り営業の仕事に携わり、2002年(平成14年)退職した。

 現在、M社は臨海地区に本社を移転し従業員220名(うち正社員86名)売上524億円。S社は十数年前廃業している。

 

 

本日も最後まで読んで頂き有難うございます。

来週の火曜日迄、こちらにおりますので、是非お会いしたいと思います。