今週で、具体的なアルバイトの中身を探って行く事は終わりにしたいので、今回は「週一回投稿」時と同じくらいのボリュームになってしまった事を、始めにお断りしておきます。

 いつ、どう読むか迄、差し出がましい事は控えますが、できれば「一気」に読んで頂いて、渉が学生時代の殆ど全てを捧げた「貴重な体験談」を、総仕上げとして把握して頂けたら幸いに思います。

 

 

 

     ⑦ Jデパートで中元・歳暮業務&売り場担当(2年間)  

 

 大学三年生の冬、Jデパートの催事担当責任者の本橋課長より、Tビルサービスの学生バイトに「歳暮のアルバイトの話」が来た。リーダーの中河君はスキーにいく、清泉君、副島君もダメで、結局、渉と山下君と中学の後輩の北川君がやる事になった。

 主に倉庫にある商品を、その日の注文に応じて出荷をする仕事で、渉は四年生の歳暮迄、都合3回の催事のバイトの他、四年生になってからは大学の授業を週三日に取りまとめ、後の日の昼間はJデパートのバイト、夜は清掃のバイトで社12月は、二つのバイトで16万円を稼ぎ出した。

 

 当時デパートには、エレベーターガール(EVG)と称される女性がいた。エレベーターに乗った時に行きたい階を告げるとボタンを押してくれて、希望した階に着くと「○○階でございます」と言いながら、白い手袋をしてドアが閉まらない様に手で押さえてくれる制服を着た奇麗な女性がいた。

 Jデパートにも勿論いた。JデパートのEVGは大ボス、小ボスがいて、あと4人、計6名いた。彼女たちの控室と清掃担当の控室は同じ地下2階のフロア―にあった。年代も19~21歳で僕らと変わらなかったので、すぐ仲良くなった。大ボスはさすがに貫禄があり、年齢も10歳位上だったので最初は話ずらかった。

 小ボスはすき嫌いがはっきりした人で、清掃班に居た、洋風の家に住んでいて、車はフォルクスワーゲンのビートルに乗っている「お坊ちゃま」の角川君という湘南ボーイで、白眼の部分がブルー色の瞳にぞっこんで、サーフィンで日焼けしている上に背は180㎝以上あり、顔も俳優ばりのイケメンだったので、角川君が傍を通る度に「うーん、ステキ」と言って両手を顎の下で合わせて目配せするのであった。角川君は断トツでEVG全員の憧れの的だった。

 

 バイオリニストの高島ちさ子に感じと物言いが良く似ている小ボスは、渉の事が苦手なのか「シッ、」とまるで猫を追い払うような手つきで渉を近づけようとしない。

 そんな中で河村さんと言うEVGが、すれ違う度に「私の好きな人~」と人の顔を見て言うので、冗談だと思って笑ってごまかしていたら、

それから数週間後、小ボスと地下二階の廊下ですれ違いざまに

いつもならシッ、シッ」と言って追い払うのに、

珍しく向こうから近づいてくるので、冗談で

「愛の告白ならお断りだよ」と言ったら

「そうなのよ、愛の告白なのよ」というから、一瞬後ろへ引き気味で

「ええっ!ウソでしょ」と言ったら、

「ウソよ」と言うから

「な~んだ」とそのまますれ違おうとしたら、急に真顔になって

「河村があんたの事が好きみたいで、

 自分からは言いにくいので、あんたに言って欲しいって頼まれたの」

「伝えたからね。後は、あんた達で宜しくおやんなさい」と言って、鼻で笑いながら唖然としている渉を置き去りにして通り過ぎて行った。

 

 この話は断るつもりでいた。なぜなら彼女にはJデパートの6階にある「第一家電」に勤務している林君と言うれっきとした彼氏がいるからだった。

 しかし、いつもなら毎日必ず一、二回はどこかで会うのに、どういう訳か彼女にはそれから二日間会わなかった。

 小ボスの電撃的な話から三日目のこと、地下の廊下で夕方、彼女とばったり出会った。例の話は彼女の方から話し出した。

 林君とは中学からの同級生で家が近いので遅くなった時などに送って貰っているだけの存在だという事だったが、もし渉が林君だったら、何かピエロみたいで嫌だなと、思わず林君に同情してしまった。

 まあしかしそんなわけで渉も半年前迄付き合っていた彼女とお別れしていたので、林君には悪いと思いながらお付き合いをする事になった。

 しかし、何となく「彼女」という気になれず、ある時などは昔のまんま林君が家まで彼女を送って行った事や何やかやで、渉もそういった事を咎めもせずに、そのままにしている内に、始めの内はいつも一緒に居たいと想っていたのが、何となく一緒に居たい気持ちが薄れ、彼女の問い掛けに対しても生返事を繰り返していたら、その内付き合う前の状態に戻り、その方が気楽で話し易かったのでそのままにしていたら、ある意味元の鞘に納まってしまったのだった。

 

 

 大学四年生の夏の「中元のバイト」から今井課長と言う人が渉の直属の上司となった。渉はこの人のお陰で通常の社会で働けるようになった。大袈裟に言えば命の恩人なのであった。

 あれだけ大変で嫌な思いも沢山して来た〝ドモリ〟のことについて、今井課長は「日家君のドモリを治してみせる」と言ってくれたのだった。今まで心配をしてくれる人はいたが、「治してみせる」とまで言い切ったのは今井さんが初めてだった。

 でもはっきり云って最初は「迷惑だった」。そんな宣言一つで、小二の時から悩み続けてきたものがそう簡単に治る訳がないと思っていた。

 確かに当時の日記を読み返してみると、少しずつ最悪の状態からは脱しつつあったことは事実だったが、それが殆ど完璧に近い状態に戻ったのだから、やはり今井課長のお陰と言うべきだろう。

 では、治すと言ってもどうやって治すのか。それは非常にシンプル、且つイージーな方法だった。一言で言うと、特に電話でのことが多かったように思うが、電話のやり取りでドモると今井さんは電話口で黙って待ってくれるだけではなく「焦らなくていいよ」とか「今日は滑らかだね」とか必ず歌で言うところの‶合いの手〟を入れてくれるのであった。それがうっとうしいどころか、いつしか励みになったり、喜びになったりしたことと、四年生からは昼間、週三でデパートの売り場で接客の仕事をしたのも良かったのかもしれない。

 

 そうして本橋部長(昨年の人事で課長から部長に昇進)の、おひざ元の7階の‶寝具売り場〟と、1階の‶ネクタイ売り場〟を一年間担当した。

 寝具売り場は家具、応接セットなども同じフロアで、平日の昼間は殆どお客さんは無く、暇で時間の経つのが異様に遅く感じられた。

 本橋部長は4~7階迄の売り場責任者を兼任していたので寝具売り場には殆ど居らず、平日は淀川さんという叔母さんの販売員がひとりで全ての業務をこなしていた。渉はその助手として働いた。例えば、寝具の柄見本は結構重たくて接客しながら持ち歩くのは女性では大変で、渉が持って販売員の後を金魚の糞のように付いて歩いたり、売れた寝具の発注をおこなった。特に婚礼用の寝具が一式売れると百万円を超える事もあり、寝具は売れると結構その後の作業が沢山あった。

 

 夏の中元が終了すると、渉は1階のネクタイ売り場に移った。ネクタイは夏場より、秋に入ってからの方がよく売れた。夏場までは売り場に専用の人はおらず、夏の終わりに社員が一人就いたが、この年はアルバイトの渉が担当になった。

 1階は化粧品売り場が広いスペースを取っていた。資生堂、コーセー、アルビオンなどが軒を連ねていた。ネクタイ売り場はそのすぐ隣にあり、僕は否が応でも美容部員の女性達とすぐ仲良くなった。

 特にアルビオン化粧品の美容部員であった長谷さんと言う女性は、エレガントで細面の顔立ちとは裏腹にボリューミイな体型をしていて、身長も168㎝でヒールの高い靴を履いていると179㎝の渉とほぼ目線が同じで、美容部員の中でもひと際目立っていた。そんな彼女は1階の男性陣の羨望の的であった。

 その彼女と渉は非常に気が合い、初めて口をきいた時からお互いに気兼ねなく話が出来た。よくハサミや駐車券用のスタンプを貸してくれと、ネクタイ売り場のレジに来ては暫く話し込んで行ったりするものだから、他の売り場の男性社員からやっかみで戯言を言われたりもした。

 

 彼女に自分は大食いで昼飯代が毎日二食で800円以上掛かり、尚且つ喫茶店でお茶を飲む日は+360円で一日1200円掛かると話したら、次の日、お弁当を作って来てくれて一緒に食べようと言われ、お言葉に甘えて頂いたら、それが何日か続いたものだからさすがにこれはまずいと思い、お金を払うと言ったら

「学生がそんなことを気にしなくていいの!」と云われ、怒られてしまった。

「七海君は私の弟だと思ってるんだから」と言われた渉は、長谷さんを彼女と思っていた事を心の中で恥じ、訂正しなければならなかった。五歳年上の「彼女」ではなく「姉さん」だったのかと渉はがっかりした。  

 それから2カ月後、長谷姉さんは、渉に 

「寒くなるから風邪を引かないで元気でね」と言ってお別れにセーターをプレゼントしてくれて、11月末、銀座のMデパートに転勤してしまった。長谷さんのいない売り場は火が消えたようだった。渉の心の中にぽっかりと大きな穴が開き、貰ったセーターを着ると、寂しくて余計肌寒さを感じるのであった。

 

 ネクタイ売り場での成果は、11月の一ヶ月で152本を販売し、前年までの11月最高の売上本数は72本。倍の本数を販売した事になった。8月~12月迄の累計販売本数も400本を超え、毎月売上本数を更新した。11月の実績の150本の内、実は50本近くは、長谷さんが販売してくれたのであった。

 一階の売り場の店員さんは皆、仲が良く、お隣通しで人手が足りないと応援に入ってくれた。化粧品売り場の美容部員は制服なので他の化粧品会社の「お試し実演」や販売は出来ないが、売れた商品をパッケージに入れて包装する手伝いはお互い同士でよくやっていた。長谷さんは僕が接客中の時、自分の手が空いているとよく手伝ってくれた。どっちを買おうか迷っている男性客は、彼女に艶っぽい眼で微笑みながら「二本ともすごくお似合いですよ」と言われると大概の男は断れず「じゃ、二本貰おうか」と言って買ってくれたが、翌日奥さんが一本返品しに来たお客さんもいた。

 お陰で、5か月間で渉はネクタイについては一通りの事は覚え、三越や伊勢丹のデパートで明日から販売しろと言われても対応できるだけの知識と接客術を身に付けられた。

 

1973年の石油(オイル)ショックの影響で、冷え込んでいた景気がやっと少しずつ上向いてきて、この年の歳暮売り上げは対前年比160%で売上高も歳暮コーナー開設来最高額となり何から何までがハッピーだった。今井課長も年末に僕と一緒に表彰された。

 

 今でこそ、マーケティングは当たり前の時代になったが、当時はある意味山勘でやっていたことは否めない。渉がやった事は、今で言うコンビニなどで行っている「ポスシステム」と変わらない。

 ある一定の期間にその商品が幾つ売れたかを簡単に表にまとめ、一つしか売れなかった商品については、購入者の年齢が分かる時は年齢、性別、送り先等を調べたりして発注数を決定する。それを歳暮の場合は、ピークの週(11月26日~12月第一日曜日の間に欠品を起こさないよう、11月初旬迄に確定し発注する。

 特にハムや海苔、お茶漬けのセットなどの売れ筋品は、販売予定の3倍の数量を発注する事にした。今井課長も即答で了承してくれた。なぜならお中元でもお茶漬けセットは良く売れ、在庫が入荷後4日で無くなってしまった為、永谷園の工場まで今井課長と二人で行って、持てる範囲で持ち帰り、店頭にすぐ並べたのだった。

 帰りの電車では行商のおばさんよろしく、両手に10ケース以上を持ってデパートに二人とも汗だくになって帰還したのを今でも覚えている。

そんな事が無いように、今回は先買いして在庫で残っても、年賀用品で販売可能な物は思い切って仕入れた。それがまんまと的中した。

 

当時、冬の贈答品で一番売れるのはハムだった。NハムやIハムは当然だが、Kハムは特にこの地域のお客様に人気で良く売れた。

 N社やI社より売れる事は無かったが、僕は敢えてKハムをコーナー展開して売上を伸ばそうと考えた。

 前年の歳暮終了後、自家用で3000円のK社のハムを正月用に買って帰り、食べたところすごくおいしく、食通を自負する親戚の叔母も「このハム美味しいわね」と思わず発したのであった。それを今井課長に進言したら、じゃあやってみようという事になり、Kハムの担当者に来て貰って、コーナーを作り前年売上数の5倍の商品を仕入れた。

 正直怖かった。今井課長の首が飛ぶのではないかと心配したが、そんな心配は蓋を開けたらあっという間に吹っ飛んだ。Kハムは飛ぶ様に売れた。おまけにSデパートやEデパート、はたまたOビル専門店街でもKハムは人気で、他のデパートでは12月に入って品切れになり、同時期にK社から、年内分の在庫は無い旨の連絡が入り、その日から、他店のお客様がJデパートへ来店され、Kハムがあったと喜んでお買い求め頂けたのが嬉しく、そして誇らしかった。

 

 翌年の3月、今井課長は山形のJデパートに栄転した。実家が元々鶴岡市なので、里帰りも出来て万々歳だった。今井課長とは12月の忘年会が最後で、かれこれ46年が経過した。その後Jデパートは大手スーパーのD社に乗っ取られ、そのD社もS社の系列に入り今では数店舗、今井課長は今どうしているのか。

 でもきっと今井課長は会社がどうなろうとも、常に冷静に乗り切って行ったと思う。人の心を読むのが上手で、さらに「褒め上手」。部下に仕事を任せ、いざとなるときちんと責任を取ってくれる。しかもグジュグジュ一切言わない。だから部下から信頼される。渉が仕事で接した数々の上司の中で一番を上げなさいと言われたら、迷わず「今井課長」とTストアの棚交換の責任者の「伊藤さん」と言うだろう。

 

 

     ⑧ 名簿作成の為のリスト作り(短期

 

話が前後してしまうが、大学一年生の時、高校時代の友人の紹介で名簿販売会社のアルバイトをやった。今なら個人情報の流出で大騒ぎになること間違いないヤバイ仕事になってしまうが、当時は、一部の市役所を除いて個人台帳の閲覧は自由にできた。  

 閲覧が不可能な役所は無く、閲覧費が1件当たり50円と言うH市などは全部閲覧すると数十万円掛かってしまうので、会社に連絡すると、「やらなくていい」と言われ、出来ないことはあったが、殆どの役所は閲覧費を取らなかった。

 名簿販売会社はお客(ほとんどが企業)の要望で名簿を作成した。その下請けで多くのアルバイトが各地域の役所に出向いて、台帳から適人を選んで住所・名前・年齢・電話番号を会社から配布された所定の用紙に書き写し、出来上がるとそれを持ち込んでバイト代をその都度貰うという形で行っていた。バイト代は幾らだったかは忘れてしまったが、一般のバイト代よりは良かったと思う。因みに渉たちは、P市のH地域、並びに自分たちが住んでいた地元の二カ所を担当した。

 

 渉たちが依頼を受けた名簿は「七五三」に該当する子供の名簿だった。2歳から7歳までの子供が対象だった。仕事場は、出張所の職員のいる事務室の一角の空き机と椅子を借り、台帳保管棚から取って来て転記作業を行った。当時の役所は12時~1時は業務を行わなかった為、昼は持参の弁当を職員と一緒に仕事している机で食べ、お茶を出して貰い、自家製の漬物を貰ったり、3時におやつに饅頭やみたらし団子を頂いたり、実に平和でのどかだった。

 特に地元の出張所では、隣に住んでいる高原君の母君が当時出張所で仕事をしていて驚いたが、状況は先のH地域と変わらず、和気あいあいのムードで仕事が出来た。

 

 このバイトで特筆すべきことは何もない。しかしたとえ50年近く前の事といっても、あまりに現在の個人情報の管理状況が180度違うので、これを読んだ読者は信用しないかもしれないが、こういうバイトが実在した事は事実である。

 つまり、当時は個人情報を悪用出来るような地盤が出来ていなかったと言えよう。よく言った「10年一昔」のサイクルは、今では5年どころか下手をすると「1年一昔」のサイクルで目まぐるしく世の中が変わっていく。

 パソコンや携帯電話が登場し、インターネットが確立されて確かに便利になり、言葉の壁さえ「同時通訳のアプリ」で世界中の人と家に居ながらにして携帯電話を通して接触できる反面、今迄は間違っても一般の人が巻き込まれる事が無かったような危険な事態が、すごく身近になったのもまた偽らざる事実なのである。

 

 

⑨ 遊戯浴場の浴室清掃(単期)

 

 最後のバイトも話が前後してしまうが、これも大学1年生の時のまだH屋の不定期なバイトしかない時のバイトだったが、これはTストアの陳列棚交換のバイトの時に知り合ったT大に通う一年生の学生で、バイトの帰り始発電車を待つまでの間に意気投合したヤツだった。

 名前が思い出せないがとにかく面白く、具体的には言えないが存在しているだけでおかしいヤツで、そうかと言ってそんなに軽々しくも無く、上手く表現できないが、こ奴(どうしても名前が思い出せないので、仮にM君と呼ぶ)が突然家に電話をしてきて、バイトをしないかと言う。

 仕事は風呂場の清掃と言うからどこかの銭湯の洗い場の清掃と思って受けた。それにしても1か所3,000円で上手くすれば1日で12,000円になる日もあると云う。当時のバイト代は時間給で1時間300円前後。12,000円というと、40時間働いてもらえる額。10日~2週間分が1日で稼げる桁外れのバイト。何だか怪しいぞと思ったが、取り敢えず年末21日~30日までの10日間。場所はW市と言うのでOKした。

 

 そうして当日になって全てが理解できた。風呂は風呂でも○○〇(現在は〝ソープランド〟と改名)風呂だった。1か所と言うのは一部屋と言う10時から夕方4時までの間(昼食付)で、普段は専門の掃除人がいるのだそうだが、その人達はみんな地方からの出稼ぎの人で、いつも盆暮には田舎に帰る為、その間だけのアルバイトという支配人の話だった。

 書類を書きながら、そのおかしなM君に聞いたら彼も初めてで、大学の部活の先輩が毎年新入生にやって来いと指示するらしく、企業や店舗が大学の運動部と契約を結んで定期的に部員が部の活動費を稼ぐという事は、昔、割とあった話で今はどうか分からないが、それでもソープさんは此処だけで、その他にも一般のバイトより割のいいバイトがいくつかあったが、その中でもソープさんの清掃が一番稼ぎが良かったらしい。

 そんな話を聞いておいて辞退は無いし、まだ来たこともないところで興味もあったので、家人には「銭湯の洗い場の清掃」と言う事にして働き始めた。

 初日は頑張って二部屋をこなすのが精一杯。それでも二部屋で6,000円は魅力だった。広さは8畳位で映画で良く見たスチームバスがどの部屋にもまだあった。一応部屋には名前があって僕が働いたP店は花の名前が各部屋に付いていた。

 

 働き始めて3日目、始めてソープ嬢なるものを見て唖然とした。高そうな毛皮のコートを着た後姿はまるで水牛の様。前から見たら〝瞬き〟をすると風が来そうなまつげをバタバタさせた40過ぎと思われる、おばはんだった。

 度肝を抜かれてポカ~ンと口を開けてみていたM君に「お兄さん何見てんのよ。いや~ねえ」と言いながら、一物をぎゅっと握り締められたM君はやっと目が覚めたとでも言うように、慌てて前を抑えたがもう時すでに遅しで、その40絡みのソープさんは、廊下の先にある控室に毛皮のコートを脱いで入ろうとしていた。その横から見た体の線は、相撲の回しが似合いそうな腹以外は何も見えてこないような印象だった。

 あの人にお客が付くのだろうか。ご指名などここ5年以上ついたことがないのではないかと勝手に想像し、何だか可哀そうな気がしてしまい、急に気が重くなってしまった。

 

 バイトも6日目になると1日四部屋がやれるようになり、帰り時間も定時で上がれる様になったが、M君は相変わらず清掃中に見つけた使用済みのゴムを見ては有らぬ想像をしたり、大人のおもちゃで遊んだりして、終了時間になっても仕事が終わらず、「御免、ルパンで待ってて。御茶代出すから」と言って一緒に帰りたがる。W駅からは彼は上り、渉は下りなのにと思いながら、つい拝まれると「うんじゃわかった。30分待って来なかったら帰るからね」と言って仕事場を後にするが、30分経っても来たためしがなかった。

 

 この店で一番人気のケイちゃんという娘はTVのCM(丸善石油のハイオクガソリン)で一世を風靡した「モーレツ娘」小川ローザに似た、可愛くてスタイルも抜群、M君もその娘にほの字の様で「ケイちゃん、ケイちゃん」とうるさい。 

 そのケイちゃんが渉の肩を後ろからポンポンと叩き、「支配人がお呼びヨ」とニコッとされると、さすがの僕もウキウキするほど、彼女は素敵な笑顔でいつも明るい。

 

 それはそうと支配人の話は正月明け3日から、仕事に来てくれないかという話だったが、元々、渉はM君の紹介でM君のT大には内緒で彼に頼まれから来たので、本来はもう一人もT大生でなければいけないところを、彼の独断で僕がやらせて貰っているので、彼を差し置いてやるわけにもいかず、

「正月明けはM君にお願いしてくれませんか」と言うと、支配人は

「M君は愛想は良いが、仕事が雑で」と大姉さん(後姿が水牛でM君の一物を握った人)」からクレームが入っているから使えないという。しかし渉も

「正月明けに試験があるので」と嘘をついて丁重にお断りした。

 

 晦日の日、バイト代計116,000円を頂いた。本来10日間の部屋数×3000円なのだが、ソープ嬢が毎日仕事前に部屋の状況をチェックして評価してくれる。A評価は1000円プラスされ、渉は33部屋の清掃の内、27部屋で「A評価」を頂いた事になった。

これで4カ月は暮らせると思うとM君に感謝である。その日はⅯ君に食事を奢る約束をしていたのだが、最後の仕事を終えて控室に戻ったら、珍しく既にM君が居て、渉の顔を見るなり、両手を合わせていきなり

「ごめん七海。今日ちょっと用事が出来て、ゴメン」って言うから、

「いや別に構わないよ。」

「うん。それじゃありがとう。良いお年を」と言って控え室を出た。

これは後で問い詰めたら本人が白状したのだが、その日にP店で遊んで帰ったとのこと。

 

そんな事とはつゆ知らず、みんな(その日出勤のソープ嬢全員)がいる控室に顔を出して

「短い間でしたけど、有難うございました。お世話になりました。では良いお年を」と言って帰ろうとしたら、ケイちゃんがみんなに

「ほら、ほら」と

背中を押されるように顔を赤くしながら

後ろ手にして持っていた物を、渉に

「はい、お疲れ様でした。元気でね」と言って

ちいさな赤いバラの花束を目の高さに差し出して、みんなが

「ヒュー、ヒュー」と、からかいの声援を彼女に送った。

意外だった。小川ローザはⅯ君の事を良く話題にしていたから、てっきりM君に「ほの字」だと思っていたのだが、最後にどんでん返しであった。

 

 ケイちゃん、本名鷺沼桂子。23歳。岐阜県出身。お父さんはアメリカ人でGHQに勤務。母は日本人で、彼女が5歳の時、離婚。父はその後アメリカに帰国。母と子一人の母子家庭で苦労して育って来たんだと、彼女と一番仲の良い、木の実ナナに似ている「ナナ」さんという面倒見のよさそうなソープ嬢が、彼女の小さい時の事や〝あいの子〟の為に虐められた事、若いヤクザに目を付けられ18歳で妊娠・中絶をした事や、母が騙されて多額の借金を抱え、その借金返済の為、この世界に入ってその借金を返済中である事など洗いざらい話をしてくれた。

 僕は今迄ソープ嬢なんかになるヤツは、遊び人の男好きがなるもんだとばっかり思って、軽蔑していたことを、彼女の生い立ちを「ナナ」さんから聞いて驚いたと同時に、自分の考えに恥じ、人を外面や職業で判断してはいけないという事を、改めて身を以って体験した。

 そして彼女に対して本当に申し訳ないと心から詫びた。「人生」という言葉の深い意味も知らずに、自作の曲の歌詞に安易に使った事に憤り感じ、自分の愚かさを心から恥じた。

 

 今こうしてこの事を書きながらも、この時の彼女の屈託のない恥じらいの笑顔を思い出し、涙が独りでに溢れ、書いている文章が見えない位に、彼女の事を愛おしく思い嗚咽している自分がいる。たとえ何人もの男の性欲のはけ口になっても、母を友をそして恋人を純粋に愛する気持ちは、職業によって変わるものではないという事を知った。

 彼女が渡してくれた赤いバラは正月の間は僕の部屋でしっかりと咲いていてくれたが、やがて彼女の事はもう忘れなさいと言わんばかりに急速に枯れていった。

 

 正月が終わり、学校が始まった頃、Ⅿ君から電話があり、2万円貸して欲しいと言われ、理由を聞いたら、あれほど止めとけと言って於いた事をア奴はやってしまったのだった。要するに稼いだ金を快楽に溺れて全部其処で使い果たし、部に収める金があと2万円足りないと、そう言うので、僕が

「ケイちゃんとは、どうだった?」と聞くと

「あの娘にバイト代を全額捧げても良いと思い

指名を入れたが、それ以前から入っている指名が大勢あって、

支配人から半年先ならOKと言われ諦めた」と言うので

「ふうんダメだったのか」と言いながら、内心では

(ざまぁ見ろ。そんな簡単にお前なんぞに

抱かれるような相手ではないんだよ)と、M君が云った言葉に一寸嫉妬して、心の中で悪たれをついた。

「分かった。2万円貸すよ」と返事をした。

学校まで取りに来るというから、渋谷の駅で待ち合わせて2万円を渡すと

「悪い。必ず利子付けて返すから」と言うから、

「利子なんていらないよ。

 返さなくても良いからケイちゃんにだけは手を出すな」と言ったら

M君は何も言わずに、ただ

「わかった。ありがとう」と一言いって帰って行った。

もちんその後M君から、今もって一度も連絡はない。

 

 

 アルバイトを通して渉は多くの事を学んだ。親には申し訳なかったが、自分の行きたい道が大学入学までに決まらず、ただ社会的に見ても損にはならない「大卒」という証書を貰う為だけに大学に通うのだったら、大学の授業は最低限「可」ばかりでも良しとし、その代りに社会の一員として通用するのかどうかを仕事を通して検証し、そして多種多様な仕事を経験した中から、自分がやりたい仕事が見つかれば「尚良し」と考え、実際に行動して来た。それは間違いではなかった。

 

 仕事で得た知識や習得した技術は、就職活動で役立ったし、また学生の本分からは外れてしまってあまり褒められた事ではないが、大学生という時間を利用して色々な職業を疑似体験出来たことは就活の面接で大いに役立った。ここに記す事が出来なかったバイトが他にも想いだせるだけでまだ7~8種は有るので多分、20種類以上の職業を体験したと思う。これがまさに、渉の学生時代の「ハーベスト」だと言える。

 

 そして総括として言える事は、

「渉は器用貧乏と云う人種」であることが判った。

何でもある程度(こな)せるが決して極められない。本当は逆の方が自分は好きなのだが、上手くいかないのが世の常。

 

 そんな中で、唯一出来ないと思う仕事が有る。それは飲食店で働く事。当時も今も学生のアルバイトの職種では人気のはずのこの仕事はやった事がない。

 なぜやった事が無いのか? 一つは、幸せな事にこの手のバイト要請が一度もなかったこと。そしてもう一つは、お客さんのオーダーを憶えられそうもないこと、その二点だ。

 例えばラーメン屋のバイトで、醤油ラーメン「大盛」で「ネギ抜き」「湯で加減やや硬め」「背油なし」「トッピングはゆで卵の半熟とチャーシュー」と、ラーメン一つでこれだけの内容がある。これがいっぺんに三人別々の注文で来たら、渉は120%間違えたオーダーを厨房に伝える自信がある。

 今はテーブルに設置してあるⅠパッドで注文する店が増えたし、食券販売機がある店も増え、間違いもずいぶん減ったと思うが、とにかく昼時の人気店となると、秒刻みの忙しさ、〝パニクる〟事は間違いない。

 渉がパニックになるとどうなるか。本人は概ね分かっている。どんぶりを床に叩きつけて割り兼ねないと思い、このバイトだけにはどんなにお金が無かったとしても、簡単には手を出さなかった。

 

 バイトを通して体験した事は、随分勉強になったと思う。例えばお客様の目線、儲ける事の必要性、上司と部下の関係、部下に好かれる上司像、職場の環境、人間関係や人間模様、書類の作成や見方、接客業のイロハ、賃金を貰うという事の大切さ、期待されて働く喜び、裏切り、そして恋愛等々上げれば限がない。

 そういうものが「仮」にでも体験出来て全てが身に付いた。後は社会人になってからその身に付けたカードの内、どのカードをどんな時、どんなやり方でどの位切ればいいのか。

 一言で言えば「世渡りの術を身に付けられた」と。でもそれは安っぽい「処世術」とは違う。予備校時代を含め5年間の努力の中で詰め込まれ、そして培われ、育まれたもので「尊い己の宝物」なのだから。

 

 

今回も最後までお読み頂き、ありがとうございました。

次回は4/16(火)になります。次回も楽しみにしていて下さい。

 

4/16日、その日の夜、私は熊本におります。

それから4/24位まで九州に滞在して、このブログのPRを兼ねて、本屋さん行脚を

行う予定です。

熊本をスタートして鹿児島(4/19~)、宮崎(未定)、福岡(未定)というコースで回ります。

「いいね」を頂いた皆さんとも、お会いして親交を深めたいので、「是非」という方は「コメント」欄にその旨をお伝え下さい。どうぞ宜しくお願い致します。