今回から渉が大学時代に経験したアルバイトの中で特に印象に残ったものを10項目を順に追って紹介していきます。

 仕事を通して、人との交わり方、作業の事前準備の大切さ、仕事を憶えるという事、陰の仕事と表の仕事、それと人情という人を愛する事への情熱等、渉を人間として大きく成長させてくれたこのアルバイトという隅に置けない「恋人」に出会った事が、生きて行く原点(証)になった。という事を読んで頂いた皆さんが感じてくれたら本望です。

 

     学生時代の本望はアルバイト(その輝かしい経歴)

 

 親に宣言したわけではないが、大学生になったらアルバイト一筋で頑張ろうと思っていた。普通なら専門知識を身に付け、少しでも自分のやりたいことの基礎作りをしようというのが大学生の本望だと思う。

 特に将来やりたいことがあって、それを学びたいからあの大学のあの学部という目標を掲げ、そうして入学した学生はアルバイトでお小遣い稼ぎ位はしたかもしれないが、まさかアルバイトを学生の本望などにしようとは絶対に思わない。

 しかし渉はその真逆の状況で、しかも入った大学の学部は死んだ魚ばかりを食べさせる「一膳飯屋」の様なところで、間違っても活魚の様に活きのいい魚をさばく様な「割烹」ではない。

 そのような誠に身勝手な考えで、授業料を出して頂く親には申し訳なかったが、大学に通わせて貰いながら、いち早く社会勉強とドモリの矯正の為に、小遣いを稼ぎながら大学では教えて貰えない社会の仕組みを勉強させて貰おうと思っていた。

 

 ここに、浪人中と大学時代の計5年で経験したアルバイトで印象に残ったをものをいくつか列記してみた。

①     某一部上場食品製造のN社(予備校の夏休み)

②     生協の正月用品の配達(予備校の冬休み)

③     スーパーマーケットの陳列棚入れ替え(単発2回)

④     企業の運動会への器具の貸し出し及び竣工式の器具の貸出しのH屋(3年間)

⑤     コンピューター製造のM電業(短期1週間)

⑥     学習塾の試験官(単発1日)

⑦     デパートの清掃Tビルサービス(2年半)

⑧     Jデパートで中元・歳暮業務&売り場担当(2年間)

⑨     名簿作成の為のリスト作り(短期2カ所)

⑩     遊戯浴場の浴室清掃(単発1週間)

 

 特に印象に残るアルバイトをざっと思い出しただけでもこれだけある。まだまだ駅前でのティッシュ渡しの他にも、トンネル修繕工事の旗振り、前述のD市のケーキ屋のバイト、友達に頼まれてやったバイトや、友達がWブッキングしてしまったバイトの手伝い等、ありとあらゆるバイト計20種以上を進んでやった。

 だから下賤な話で恐縮だが、この5年間、小遣いには全く困らなかった。そして常に25万円(当時の新入社員の給与二か月分)位は直ぐ用立てることが出来た。

 その為、地方から出てきたヤツがお金に困っていた時によくお金を貸した。殆どはちゃんと返してくれたが、中には金を借りたまま大学を辞めてしまったヤツが数人いて、8万円位の貸し倒れがあった。

 また、大学4年の夏休みに一番仲の良かった友達と二人でアメリカンフットボール観戦にアメリカへ行く予定で40万円貯めなければならなかったので、とにかくがむしゃらに働いたが、理由は忘れたが結局アメリカには行けず、5年間に自然に貯まった金が60万円以上になった。社会人の平均初任給が10万円位の時代に、預金通帳にお年玉や親戚から貰ったお金も含めると80万円以上持っていたのは、友達の中では勿論、渉だけだったと思う。

 お金もさることながら、バイトで色々な技術も身に付けられた。例えば、ビルサービスの仕事で覚えた、床磨きのポリッシャーという機械の操作は随分とその後社会人になってから、何度も回して仲間に関心されたり、デパートで習った「包装」のお陰で、可愛い彼女をゲットできたこともあった。

 

そうかと言って、大学の授業は「きちんと出る」をモットーにしていたので、成績は「可」が全体の6割以上ではあったが、3年生迄に卒業に必要な単位を概ね取り終えていた。4年生で、あと8単位、あと選択科目2教科を取ればよかったのだが、全部で11教科、単位数にして44単位。これで早々卒業の目途を付けて、さらに思う存分最後の一年をバイトに明け暮れようと思った。

 そして、さらにオイルショック後の就職率が戦後最悪と言われ1976、77年(昭和51、52年)にぶつかった為、アルバイトからの就職も視野に入れていた。なぜなら、大学は二流、成績は三流、おまけにドモリときたら、まともな就職口などないと思ったからだった。

 

さて就職の事については後段に譲るとして、前述の10のアルバイトにわる話を紐解くとしよう。

 

 

➀ 某一部上場食品製造のN社(予備校の夏休み)

 

 実は、このN社とは決別したのであった。理由は卵パンを始め、色々な焼菓子を焼いて、袋詰めする工程に配属された三ちゃんと渉の二人は、真夏の暑い日が続く中で、一番暑い盛りのお盆休み前までの一週間、毎日「焼き担当」をやる事になった。それも普通は時間交代制(2時間)なのに、渉と三ちゃんは丸一日交代なし。さすがに社員からも心配された。

 それはトンネルの様に長い二列の窯の入口に立って、焼く前の菓子が乗っている鉄板をベルトコンベアに乗せるだけの単純作業なので、真冬なら学生のアルバイトには打って付けなのだが、真夏の外気が30度を超える工場の作業となると、30分もすると全身から汗が吹き出してくる。

 窯の入り口には塩が置いてある。それはお清めではなく、舐める用の塩なのである。しょっぱい塩も身体が欲している時に舐めると〝甘く〟感じたものだった。それこそ、塩が甘く感じられるのは、生まれて初めての経験だった。

 冷房設備が無かった訳ではないが、断熱効果など殆どない当時の工場では、そんなものが役に立たない程暑いのである。まるで大掛かりなキャンプファイヤーの火に焙られているような感じで、午前中だけでもうぐったり。白色の帽子と作業着の背中には〝世界地図〟と言わんばかりの汗地味が。

 午後から着替えて3時の休憩30分を挟んで午後5時まで、都合6時間半。それを二日続けた三日目、三ちゃんはダウンしてバイトを休んだ。周りの社員の皆からも心配され、社員の数人が、班長に抗議してくれたが解決迄には至らなかった。

 渉も大事な友達がダウンしているにも拘らず、ちょっとの改善で逃げ切ろうとした班長が気に入らず抗議したら、まだ辞めるとも何とも云っていないのに

「別に辞めるなら、辞めても構わない」みたいなことを言われたので、さらに腹が立って

「あんたの下なんかで仕事する気にならないので、辞めろと言われなくても辞めてやる」と

啖呵を切って部屋を飛び出して、仕事場に戻った。皆に訳を話し、礼を言い、更衣室に駆け込んで着替え、三ちゃんのロッカーに置いてあった荷物を取り出して、止める皆を背にして、工場の門を出たのだった。

 初めてのアルバイトで班長と喧嘩して辞めた事について、冷静になって考えて見ると、やはり自分が「甘い」なと思えて来て、後悔が先に立っていたが、暫くして、N社の社員一同という送り名で手紙を貰い、その内容で勇気づけられ、また頑張ろうと思う気持ちになれたのは大きかった。

 

 

② 生協の正月用品の配達(予備校の冬休み)

 

 生協の配達のバイトも確か三ちゃんに誘われてやったバイトだった。夏にやったN社とトラブルになっていなければ、きっと冬もN社で働いていたと思う。

 

 ただこのバイトは結構自由で楽しかった。運転免許証を持っていた大学生とペアを組み、朝出勤して、配達担当の責任者からその日の配達ルート表を貰い、まず配達するお宅が注文した正月用品を、倉庫から車に配達の順番に出し易いように積み込む。

 この仕事はテトリスが大好きな渉にとっては得意中の得意の仕事で、もう名前を忘れてしまった、仮に「Aさん」と呼ぶ獣医大学の4年生の先輩が始めて三日目から「渉のやり方でいこう」と云ってくれて、渉の指示でトラックの荷台に積んでくれた。こんな初歩的な事でも渉は嬉しかった。 

 準備万端整え「行ってきます」と一言事務所に挨拶をして、渉はトラックの助手席に座り一日配達の仕事を行うのであった。

 車中で何の気兼ねも無くAさんと趣味や音楽、スポーツの話、そして大学の話を聞きながら配達をすることが、時間を忘れてしまいそうになる位、すごく楽しくてアルバイトの良いところを教えて貰った様な気がして、N社の失敗から脱出できて、アルバイトがトラウマにならなかった事に感謝した。

 一日の実働時間の基本は夕方5時迄になってはいたが、年末の忙しい時期の配達は不在も多く大概、帰社時間は午後8時を過ぎた。それでもこのバイトは楽しかった。

 

 さてここで、ちょっとエッチな話をしよう。その日は年末最後の土曜日。夜9時を少し回った頃、昼間留守だった公団住宅のお宅に配達をした。ピンポンを何度押しても出て来ない。でも玄関上のガラス窓から部屋の明かりが見えたので、しつこくチャイムを押しているとやっと玄関のドアが開いた。

 渉は一瞬出てきた40絡みの奥さんの格好を見て、すぐさま「済みません。夜分に」と云ったら、「そうよ。こんな遅い時間に・・・」と文句を云いながらも、「ご苦労様」と云って、荷物を受け取ってくれた。

 車に戻ったら、Aさんに

「どうした?随分時間が掛かったみたいだけど。何か、云われたの」と云われ、

「奥さんがナイトキャップを被って、ネグリジェの上にナイトガウンを羽織って、風呂上がりの様な顔をして出て来て、文句を云われた」と云ったら、

Aさん。ニヤッと笑って

「やってたな」と一言。渉も一瞬そう思ったが

(いや待てよ。もしかしたら風呂上りだったのかも)とも思ったが、Aさんの

「やってたな」は、

強烈な印象を残し、渉の心もそれを肯定した。考えてみたら、土曜日だからと言ってもまだ9時過ぎ。世間はまだ宵の口だ。

 渉は、帰社するまで助手席から見える家々の明かりを見ながら、このお家は〝やっている〟じゃあ〝この家は?〟と一軒一軒見定めながら会社に帰ったのを憶えている。

 渉にとってその経験は、もう一年数か月先であり、こんな身近なところでそれが行われている事など思ってもみなかったので、それは19歳で未経験だった渉にとっては強烈で刺激的な出来事だったのである。

 

 そしてもう一つ。今度はこの世のものと思えない光景に出くわした事をご紹介しよう。一緒に十日間を過ごしたAさんは物知りで、いろんな話をしてくれた。特に動物の話は専門なので一端、話し出すと次の配達先の配達が終わってもまだその話は続いた。

 そんなAさんが「今日でバイトも最終日(12/30)だから」と云って、昼飯を獣医大の傍のAさん曰く、オムライスが絶品と言う喫茶店で、その名物だと云われたフワフワのオムライスを奢ってくれた。

 

 食後に「良いものを見せてやる」と言って、腹ごなしの散歩を兼ねて、大学の校内を二人で歩いた。校内は冬休みの為、人影は殆どなかったが、実験用の動物の餌やりや糞の始末で、朝夕に1・2年生の学生が学校に来て、動物たちの面倒を見ているんだとAさんが話してくれた。

 やがて、校舎の前に低い柵で囲まれた十坪程度の草場の中で、山羊やウサギ、鶏といった家畜が草を食んでいるところへAさんが案内してくれた。暫く茶色の山羊が美味そうに草を食んでいる口元を「上手い具合に草を食べるもんだな。ああやって山羊は草を食べるんだ」と思いながら、じっと見ていた。

 するとその山羊が草を食み、進みながらゆっくりと反転した。

 その途端、渉は卒倒しそうになり、今食べたオムライスが胃から逆流しそうになる程、びっくり仰天した。何と!その山羊の左半分は機械なのだった。

 この日、渉が見た強烈な衝撃から、10年後に封切られた〝アーノルド・シュワルツェネッガ―〟主演のアメリカ映画「ターミネーター」をご覧になった方なら、その‶山羊版〟を想像してもらえば、下手な説明よりずっとリアルな映像が、皆さんの脳裏を包むと思う。

 多分、一般の人がこういう場面に遭遇する事はまずないと思うので、もし、気の弱いご婦人なら間違いなく、その場で口から泡を吹いて、気絶して倒れているだろう。

 もう一度云うが、その山羊はその隣で〝人の手が入っていない白い山羊〟と同様に草を食んでいるのである。

 あまりに鮮烈で衝撃的な出来事で、よく見ていなかったし、間違っているかもしれないが、血液を運ぶ赤くなった管が見え、車のエンジンの配管の様な、数本に纏められた透明な管の中で、シリンダーポンプみた いなものが、薄黄色の液体を押し出す様に動いていたような気がする。その機械の類が山羊の左半面の殆どを覆い、茶色の毛の皮膚と機械の接合部分がどうなっていたか等、しっかりと見る余裕はぜんぜん無かった。

 まだ動揺を抑えきれず、可哀そうだとか思う余裕も

なく、そうかと無理やり自分を納得させながら、鶏やウサギに目をやると、何とそちらも、体の半分が機械なのである。そして驚くことにそれが数羽いて、ごく普通に動いているのだ。渉は蟹ではないが口から泡をブクブク吐いて卒倒しそうだった。

 その時Aさんが横で色々と説明をしてくれたのだが、目からの刺激が強大過ぎて、耳からは何にも入らなかった。

 今も渉の記憶のフィルムの中でも、特に鮮烈に脳の海馬のさらに〝奥の院〟に焼き付けられた、永久に剥がれる事のない強烈な映像であった。

 

 その後、そのことを友達や彼女に話しても、誰も信じようとはしなかった。今から半世紀前、既に大学ではそんな実験が行われていたのである。

 

 

 

 今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。次回は来週火曜日、4/2に投稿致します。