今回は第二章の開始の時に発表させて頂いた項を一つ増やして書き上げました。

それが大学受験という項です。何故この項を増やしたかと申しますと、そうだ大学受験の時こんなことがあったと思いだしたので、本来、前15項の「高校生の思い出「3」に書いていた大学受験の事をクローズアップしたくなって、わざわざ「大学時代」と「3」項を修書き足したのでした。

 

 それともう一つ、実は渉こと、この私は、ある大学の受験の日、まさにこの本のタイトルふさわしい自虐ネタをまた思い出してしまった為に、第17項でもとっておきの

のそのネタを追加をしました。

 今回もまた約束を破って土曜日に発表が食い込んでしまいまいした。嘘をついてしまい大変申し訳ありませんでした。

 

 それではますます面白くなるこのストーリーをぜひ読んでみて下さい。

 

 

       大学受験

 

 高校三年生と言えば頭は半分、将来の事を考えるようになる。Y高レベルになるとやはり大学進学を目指す生徒が多い。この当時の進学先は勿論、今のY高の生徒ほどレベルは高くなく、国立一期校(今はこういう括りはないが)は0で、年度によって二期校がちらほらいる程度だった。進学先は概ね私大で、早慶で数名、それも慶応は0。僕の年代では、卒業式の時に総代で答辞を読んだ同じクラスの山上君でさえ、上智大学の英米文学科(4レベル)である。僕なんぞは狙ってせいぜい六大学の明治、立教、法政の中間レベルの文系学部が精いっぱい。

 

 それより大学へ行くべきか、それとも職人やミュージシャンをも視野に入れて考えなければならない岐路に立たされていた。はっきり言えば、渉はそんなに大学に魅力は感じていなかった。職業・性格診断テストの結果の通り「教師」になるなら勿論、大学を出なければならなかったが、それだけは絶対なりたくなかった。

 理由は、父を筆頭に、両親の兄弟をざっと見渡しただけで防衛庁2、厚生省1、学校事務2、教師1と、7割が公務員若しくは私立学校の事務職で「実直」なだけで、「見た目も地味」で、暗いイメージしかなく、渉はそういう中で埋もれていくのは性に合わなかった。また決まった年功序列の昇格による仕事の責任にも、全く魅力を感じていなかったし、そして最後に、すべて堅実を良しとして平凡な生活をするだけの収入しかないのが最も嫌だった。

 

 もし、大学へ進学するのなら「日大の芸術学部(6レベル)」しかないと思い、進路指導の先生に相談したら、物の見事に撃沈した。理由は簡単、学力が不足しているのだった。結局3年間の定期テストは最高で80番、平均すると250番前後の成績で一発合格できるのは、東洋、帝京、城西(13~14)レベルであった。中央(7)、明治(8)、成城(8)、成蹊(8)当たりの文学部は無理だった。、

 

 結局行きたかった日大芸術学部は学費が理系並みに高く、万一合格したとしても払えないのであれば、受験する意味が無いので入試そのものを受けないことにした。レベルはせいぜい「8」迄。それ以下を受験するならば大学なんかには行かない。この線は絶対に譲れないと思った。 

 そうして、明治の文学部(8)を受験することに決めた。それ以降は進路相談、それすらしなかった。すれば必ず「もっと下を受けろ」と言われるに決まっている。無理でも何でも構わなかった。また、Y高の人気を上げる為に受験をするのではないと思い、それなら、もっと上位の生徒のケツをひっぱたけと言いたかった。

 それから、明治大学の文学部一本に絞った。担任の清武先生は本当に大学に行きたいなら、もう少しレベルを落とした大学も受験するようにとアドバイスをしてくれたが、元々大学に行く目的を云うのであれば、「少しでも名の通った企業に就職する手段」としか考えていなかったので、早い話が日本中の人が知っている大学で、どういう訳だか分からないが、蛮カラなイメージ、つまり学生ズボンの後ポケットに手拭いを突っ込んで、下駄を履いて街中を歩く様な、当時でも少し古臭いイメージの大学は何処だと想像した結果、「そうだ明治。明治大学だ」と思い、そこの文学部でいこうと決めたのだった。

 

 受験の日は三ちゃんと一緒に行った。受験の教室は別だったが、最初で最後の受験で、クラスで一番仲が良かった友達と一緒に受験できたのは心強かった。

しかし、思わぬところに難敵がいた。それは僕の机と同じ机に座った女の子だった。問題はその机とその座り方だった。本来は3人掛けが出来る横に長い机の両端に座る様になっていた。

 自分の机の相方が女の子だったから意識してしまったのか。流石の渉もそこまで「うぶ男」ではなかったし、もしそうであったとしても、受験日に横に座った女の子が結構美人だったからって、ある意味、受験当日にそこまで‶余裕〟をぶっこいている暇はなかった。

 ではなぜ、その女の子が難敵だったのか。それは試験がスタートしてすぐ始まったのであった。一限目は国語の試験。試験官が「始め」と云うと同時に、裏返してあった問題用紙をさっとひっくり返したと同時に、すごい勢いで何かを書き始めたのであった。国語の一問目は文章問題。普通なら、まず問一の問題文を読むのが最初の作業なはずだ。それがいきなり何かを書き始めたのだから

 渉は焦った。「えッ、何で?」いきなりお隣の女の子にフェイントを食らい、面食らっていた。「おちつけ」「おちつけ」「おちつけ」と、自分にそう言い聞かせて一所懸命‶高ぶってしまった心〟を落ち着かす様に暗示を掛けようとしても、机が彼女の筆圧と腕の動きに合わせて、殆どテスト中ずっと、揺れているのであった。

 渉の心はその揺れに圧倒され、戦闘モードを削がれる程の勢いに、只々、腰を抜かしてしまったのであった。試験はノッケから大騒動であり、それは結局テスト終了迄ずっと続いた。

 その時は分からなかったが後で、彼女はまず手始めに、漢字の「読み」と「書き」をやったんだなと思った。

 

 僕はその「漢字の読み書き」で大失態を犯してしまったのだった。国語のテストが終わってトイレに行くと三ちゃんが偶然にも横に並んでオシッコをしながら

「出来た?」と聞いて来た。そう聞かれた渉は、まず最初に例の彼女の挙動の事を話して

「うん、多分80点は行くと思うよ。」

「でも横の子は最悪だ」と応えた。続いて三ちゃんがこう云った。

「七海、お前まさか漢字の読みでフリガナをふるのを、ひらがなでやらなかっただろうな」と、

その言葉に渉は即座に反応し、そして「終わった」と思った。

「あ~あ、やってしもうた。ああこれで終わりだ」と云った。

 

 当時は「次の漢字にフリガナをふりなさい」という問題だったら、

➀描画(ビョウガ)・②閲覧(えつらん)

➀は○、②は×であった。②の読みは正解だが(エツラン)と書かないと×なのであった。

 文学部の試験は漢字の読み5問×2点で合計10点。書きの10点と合わせて20点であり、漢字の読み書きのテストの中でのウエートは20%とかなりたかかったのであった。

 その漢字は全部出来て当たり前の稼ぎ頭であったのだった。その稼ぎ頭を半分捨てなければいけなくなった。80点−10点で最高でも国語は70点。

渉は英語が苦手だったので国語は予定では80点がボーダーラインと踏んでいた。これで社会を90点以上取らなければいけない事になってしまったと思った。

 この間違いは、高校時代のテストで何度もやらかした凡ミスなのであった。そんな悪癖が大事な受験で出てしまったのは、横の女の子のすごさに圧倒された所為だとするのは余りにも男として情けないと思った。でもそんな事で人の所為にしない、‶お利口さん〟になったって、「今更次郎」(=僕の一番好きな諺「覆水盆に返らず)なのであった。

 社会、英語と続いた試験も、今一納得がいかない状態で、天下分け目の関ヶ原の戦いは無残な負け戦で終了した。

 

 当然の事だが、受験結果は見事な「不合格」であった。

 

 お隣で最後まで机を揺らして頑張った女の子はしっかり合格していた。他人事であるが「合格おめでとう」と思った。僕を道ずれにして、彼女までが不合格だったら、僕は「世の中の人情」を恨んでいたであろう。

 

 渉には「浪人するか」、それとも「就職するか」をもう一度考える「岐路に立つ」時が来た。

 

 

     予備校は無駄だった?

 

 優柔不断に陥ってしまった渉は、はっきり進路を決めることが出来ず、親に云われるままに取り敢えず予備校に通う事になった。

 両親は渉が心の中で職人やミュージシャンという選択肢もあると考えている事は知らなかった。一度「日大の芸術学部」へ行きたいと言った時に、芸術と言っても美術、や音楽と言った一般的な分野ではなく、「放送学科」に入り、それもアナウンサーとかではなく、カメラマンか舞台道具の制作か何かをやりたいと話た。なぜなら、ドモリ故、一般職での就職は自信がなく無理だと思うと云ったら、父も母も黙ってしまって、その日はそれ以上話が先に進まなかった。

 

 夏までには自分の考えをはっきりさせようと思ったがそれも無理だった。理由は、職人になりたいのではなく、「ドモリで普通に話す事が出来ないので、職人をやらざるを得ない」なんていう考えで職人の世界に入ったら、すぐに見透かされてしまうはずと思ったからだ。

 第一に職人の仕事はサラリーマンになるのとは比較にならない程厳しいはずだ。勉強面では母親にかなり厳しくやられたが、その他の点では、比較的ちやほやされ、甘やかされて育って来たため、自分には「徒弟制度」に耐えられる〝なにくそ根性〟はなかった。

 それこそ職人が嫌になって逃げ出してくるようなことがあったら、もう二度と職人になろうと思わないという事は、‶一つの事に秀でる〟事が出来ない人間で終わる事を意味し、それは本来自分がやりたい事(つまりミュージシャンだって職人なのだ)を自ら放棄する事になってしまうから、絶対に避けなければならない事であった。

 それ故と云うと収まりは良いが、正直を言うと一匹狼になるのが怖かったのである。だから、そうやって三ちゃんと行動を共にして、主体性の欠片もない予備校生として、毎日高田馬場にある予備校に通い、お金と日数をやたらと蝕んでいた。

 

 当時の予備校は大学の講義同様、大講堂に生徒を100人位入れての授業が大半で、今の様な個別指導でみてくれる様な体制は全く無かったのだった。家庭教師を付けて大学受験が出来るような子は、親が余程の資産家か、特殊な仕事に就く為か、それなりの理由が無ければ、殆どの浪人生は代々木ゼミナールを頂点とした予備校に通う選択肢しかなかったのである。

 渉が通った早稲田学院は学習塾が大学受験でも幅を利かしてきた時には、もうそのお役目から脱落していて、倒産したかどうかは分からないが、姿形は既に無かった。

 

 その大講堂での授業は、ある意味大学での授業にそっくりで、後ろ半分は寝ているような状況で、とても楽だった。合格したい生徒は前列の方を早く来て占領している。

 三ちゃんは渉と違って、その他にも幾つか受験したが、結局もう一歩で合格出来ず、渉と同じ浪人生となった。

 

 5月位迄は頑張ってノートを取り、昼食後も午前中の復習をしたり、家へ帰ってからもきちんと勉強していたが、徐々に遊びたいという本性が出てき始め、6月辺りから新宿でウロウロするようになっていた。

 親には夕方まで予備校の自習室で三ちゃんと復習をしていると偽って、実は歌舞伎町一丁目にあった「名画座ミラノ」という映画館で映画を観ていたのであった。特にフランス映画が300円で観られる、学生にはすごく有り難い映画館で、殆ど毎日、足繁く通った。

 ナタリー・ドロンの「個人教授」を皮切りに、ジョアンナ・シムカス、アラン・ドロン、リノ・バンチェラの「冒険者たち」。ジャン・ポール・ベルモント、アラン・ドロンの「「ボルサリーノ」等。アメリカ映画ではスティーブ・マックイーンの「栄光のル・マン」「パピヨン」、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォードの「スティング」等の映画を二本立て、三本立てで観たりしていた。

 たまに同じスクエアにある映画館で日活ロマンポルノ、白川和子の「団地妻」シリーズ、宮下順子の「四畳半ふすまの裏張り」等も身体の一部が硬直させられる映画も鑑賞したりして、殆ど勉強らしい勉強をしなかった。

 一度遊ぶことを憶えてしまうと、なかなか予備校生に戻るのは容易ではなかった。家へ帰ってからの食事後の勉強も、昼間見た映画の残像を追いかける様なことをしていて、受験勉強まで辿り着かない日が続いた。

 

 やがて夏が終わり、夏期講習の最後に受けた模擬テストは、当然の事だが遊び惚けた天罰で300点満点で150点にも届かない状況で、志望した学校学部は全て不合格の赤ランプが灯った。これには、さすがの渉もビビった。そしてヤバイと焦った。

 

 この時期ともなると、もう大学受験で頭が一杯になり、とても職人やミュージシャンだなんて考える余裕もなくなっていた。そして、今更どうにもならないのであった。慌ただしく年末が過ぎ1973年の正月もあっという間に終わり、暫くして予備校も終了になった。

 最後の模擬試験でも第一志望の明治の経済学部(7レベル)合格迄にはあと3000m級の山を2つばかり越えないといけない程の開きがあった。二浪はしたくない。親からも二浪したら予備校の費用は「自分で全て出せ」と言われる始末で、八方塞がりで完全に逃げ場を失っていた。

 

 結局、大学へ行った後「一般企業へ入社する」という、ごくありふれた道を歩まなければならなくなった。これは渉への天からの罰、すなわち、もっと人生を大切にしなさいという「天罰」であった。

 振り返れば、過去にも自分の意思で最後までやり通せたことはなかった。全てがその場で起きた事への対処で終わっているような気がした。そして渉は自問自答した。「お前は陰気臭い公務員は嫌だと公言はしなかったものの、父がやって来た仕事に対して誇りを持たないのかと。父が公務員という仕事で家族の為に頑張て守って来たからこそ、今の自分がある事だけは忘れてはならない」と思った。

 

 そして、少しでも潰しの利く大学に入らないとお先真っ暗になるので、明治大学の他、あと4つばかり受験校を増やした。中央(7)、法政(8)、明学(8)、國學院(13)の経済学部へ願書を出した。

 本来行きたかった文学部は、名の知れた企業に入社を望むのなら辞めた方が無難だと、当時の風潮を自分なりに判断して経済学部に鞍替えしたのだった。その点が今考えると、詰まらない人生の始まりを作ったのか?と思えるのだった。

 本来は通学時間を考えると、成城大学や成蹊辺りも視野に入れていたが、やはりネームバリューからすると明治・中央・法政が全国ネットの大学であり、後者の成城・成蹊大学では意味がないと判断し、前出の5つの大学の経済学部(父親には後に不経済学部と云われた)を受験した。

 

 この年の受験でも、幾つか()()をやらかしたのだが、特に酷かったのは、中央大学の入試だった。その日は、結構な雪が降っていて、東京の都心でも歩道と車道の段差が判らなくなるくらい雪が積もっていた。  

 

 当時のお茶の水周辺は、明治大学の校舎、有名なニコライ堂がある明大通りがあり、その一本外側のお茶の水通りに中央大学の校舎が、そしてその近臨には、日大歯学部の校舎があり、このシーズンのこの通りは、何れにしても受験生で賑やかな日が多かった。

 

 その雪で寒い中、弁当屋が何件か出ていて白い息を吐きながら、真っ赤な手を口の息で温めながら一生懸命道行く受験生に声掛けして、ワゴンで弁当を売っていたので、その根性に絆されて、その内の一件で弁当を買ってお釣りを貰っている時に、車道の方でドーンという大きな音がしたので、そちらの方に目をやると、車同士が雪でスリップして、どうやら一台が向こう側の歩道に植えてあった街路樹に頭から突っ込み、もう一台は信号待ちで止まっている車におかまを掘っていた。朝の9時前のお茶の水は、あっという間に野次馬の群れが出来て、渉もその成り行きを見ていた。そして、渉はどう決着がつくのか、皆と一緒になって野次馬化していったのだった。埒が開かずに10分位が経過した。

 渉は事もあろうに、入試という事をすっかり忘れて、見入ってしまっていた。暫くたって「あっ、いけねえ」と、急に自分が受験生である事を思い出して、慌てて時計を見ると何とテスト開始五分前になっている。背筋に戦慄が走り「やっべえ、やっちまった」と思い、雪で脚を取られながら、慌てて走るも教室に着いたのは、試験が開始されて7分ばかり経っていた。

 

 教室の扉の前に、学生らしい試験官という腕章を巻いている人が教室の入り口の立っていて、「七海 渉さんですか」と尋ねられたので「はい、そうです」と返事をしたら、「直ぐに入って下さい」と云われ、教室の扉を開けてくれた。

 そうしたら、試験の答案用紙に答えを書きながら、殆ど全員が開いたドアの方を一斉に見たものだから、渉は全員の視線を一気に浴びて、思わず「すみません」というように頭を下げながら唯一、教室の真ん中あたりに受験生がいない机を見つけ、そこの机に右上に貼ってあった受験生番号と自分の番号を照らし合わせ、座った。

 筆箱を出して用意すると、試験官がやって来て、「すぐ、始めなさい。時間はあと50分あるから」と云われ、慌てたのか、消しゴムが試験官の目の前で、筆箱から散歩をしに持ち主の許可なしに、勝手に床に落ちてコロコロと転がって行ってしまった。

 その消しゴムは前夜、試験の準備に飽きてしまって、何を隠そう無意識に消しゴムをカッターナイフを使ってわざわざ丸くして一人ご満悦になって本当に一時間位かけて真ん丸にしたものだった。それを試験官が追いかけてやっとの思いで、渉の4人くらい前に座っていた女の子の足元に迄転がって行ってしまったものを、試験官がわざわざ追い掛けて拾って来てくれて、笑い顔で無言で渉に返してくれた。

 渉はもう穴があったら入りたくなる程、恥ずかしいやら、申し訳ないやらで、合格した暁にはこの中年の試験官にお礼を言おう等と、もう「合格」したつもりでいる自分がさらに恥ずかしかった。

 

 結果は当然だが「不合格」であった。

 

 当たり前だ。世の中そんなに簡単に漫画の世界のように、そこ迄罰当たりみたいなことをしておいて、もし合格したら、今思うに、お前さんの『自虐伝』に傷がついてしまう。ここは思いっ切り「不合格」が丁度良かったのであった。

 

 一浪して予備校も中途半端な形で終了し、その結果がそんなに素晴らしい訳がなく、当然の報いとして、滑り止めで受けた國學院大學の経済学部に、本当にものの見事に滑り止め合格した。

 が、一緒に受験した三ちゃんが不合格で法政の経営学部(10)の発表を残すだけになり、法政は無理だと言って、「これで二浪確定だ」なんていうもんだから、正直諸手を挙げて喜べなかった。しかし、それから数日して三ちゃんから「法政受かってた」と連絡を貰い、口では「良かったね。本当に良かった」と言って祝福したが、お腹の中は裏腹で「何で國學院落ちて法政に受かるんだよ。おかしいよ」と(ねた)んだ。

 やはり三ちゃんは英語が良く出来たから英語が150点満点の学部に受かる確率が高かったのだ。國學院の発表の日、三ちゃんに悪くて、帰りもお祝いも何もせず帰って来たが、何か腑に落ちない(わだかま)りが残った。

 

 

     番外編「自分の進路は己が決める」

 

 将来どんな仕事をしたいのかを決めるのに、一番良い時期は高校二年生だ。例えば「弁護士」になりたいのなら、高校三年生は文系、志望校は東大、中大の法科で決まり。パティシエなら、高校三年生は文系、理系どちらでも可。高校を卒業したら専門学校へ行き、その先は修行の為フランスへ行くか、を考える。このように将来やりたいことが高二までに明確に決まっている子は幸せだ。

 

 問題は、高校を卒業するまで将来の仕事を決められない子。これが今でも彼の国では相当多い。僕もその一人だった。結局こういう子は大学在籍中も夢は語っても、行動できない子が多い。さすがに就活が始まってからも、何をやりたいが決まっていないのでは、企業面接にすら中々到達出来ない。一生懸命考えて何度も書き直したエントリーシートでは、採用する人に情熱や意欲が伝わらないからである。

 

 そういう子は結局、就職出来ても義務で仕事をこなすので面白くない。そんな風に決めつけるのは良くないという事は重々承知だ。しかし、場合によっては転職を重ね、自らや家族を養うために仕事をする事になって、仕事が面白くないのであり、一生掛けても仕事の醍醐味を味わえないで人生を終わる人も多いのである。

 人生100年時代と言えども、100歳まで元気でいられる人は少ない。そう考えると40年以上に亘って携わる「仕事がつまらない」というのは「人生の悲劇」である。

 

 自分のやりたい事が早く決まった方が絶対に良いと言い切れるのは、それが目標になり、常に逆算して「だから今は、こういう事をいつまでにやればいい」と決める事が出来るからだ。自ら行動を起こし「人生の設計図を描きながら先へ進める」事が楽しくもあり、とどのつまり仕事にも幸せを感じることも出来るわけだ。マラソンでもそうだが、追いかけて追いつくより、最初から狙った相手(目標=夢)と伴走した方が相手の息遣いや状況が分かって、何をするにも仕掛け易い。

 

 もしこの本を読んで下さっている方が高校生なら、或いは卒業間近の大学生で、まだやりたい仕事が見つかってなければ、まず小学生から今まで生きてきた間に撮った写真を一枚一枚丁寧に見てみよう。そしてその背景にある当時のご自身の心の中を覗いて(思い出して)みよう。或いは昔読んだ絵本や小学校時代に読んだ本が残っていたら、ペラペラめくってみよう。そうすると不思議にその当時の自分がどんな事に興味を持っていたのか思い出せるはずだ。もしそれが「天体」だったら、「天気予報士」なんて職業はどうだろう。つまり仕事を探す上で写真は「考える基礎・土台」になるはずなのだ。

 

 一方で「仕事」とは「収入」を得るための手段であり、「収入」は生きていく為の「糧」であるから、「収入」を得ない仕事は単なる「活動」であって「活動」だけではまず、自分一人を養うことも出来ず、まして家族を持つようになったらそんな夢物語の様な事をやっていたとしたら、人としての義務も果たせていない。

 「夢や目標」を叶えた「仕事」をすることによって得られる「収入」から定められた「税金を払える事」が「人として生きる事」であり、又肉体的・精神的な欠陥が無く病気でない人は「それが当たり前の事」だと思うべきなのである。

 

 億単位の年収がある人で税金が高すぎると言って、税金の低い国へ移住して仕事をしたりして、税金逃れをするケースがあるが、なぜ税金を払う事に「誇り」が持てないのか、恥ずかしい限りだ。長者番付を発表する時は、収入ではなく支払った税金額の多い順に発表すべきだと思うが、一般市民の人達はこの発表方法をどう思うであろうか。

 

 さてさて、また話が脱線し損ねているので元へ戻そう。

 自分の将来を決める上で一番厄介なのが、将来やりたいことが決まっていても行動に移せないでいる子だ。これは決まってないのと同じだ。

 

 ただ、ここに親が介入して来ると、さらに、そして非常に「厄介」な事になる。例えば、中学・高校とずっと演劇部に所属し、生来の〝バカが付く位の演劇好き〟で、俳優になりたいとか舞台女優になりたいという「夢」を持っている子の親が、心配の余り何とか諦めさせようと必死で説得したり、脅かしたりして、結局平行線をたどる。こういう場合は高校を卒業する也、家を飛び出してしまう子も多い。そのような悲劇を招かない為にはどうするのが一番良いか。

 

 それは親が子の「夢」を「応援する事だ」。或いは、それが無理なら「黙認する事だ」。それが全てを飲み込んでくれて、最終的には成功・失敗に関らず、最後には一番いい結果を招来せしめてくれる。

 

 高校を卒業した位では、親の庇護の下で育った子らは、確かに甘いところは沢山ある。特に今まで金銭的な苦労を全く無しでやって来れていたら、その職業で「メシが食える」かどうかまで考えてはいまい。それでもその夢を一緒に追ってやるのが親の役目だ。

 危険を危険と承知で子に全てを委ねて一緒に夢を見てやるのだ。そういう中で「メシが食える」か、どうかを体験させてやり、親は自分たちの生活に支障を来さない範囲で金銭援助もし、やらせるだけやらせるのである。しかし残念だが、多くの子がやがて芽が出ないまま途中で挫折する事になるであろう。

 

 そうなった時に「よく頑張ったね。お母(お父)さんも良い夢を見させて貰って、ありがとう」って言えたら、その後に最高の親子関係が待っている。そこで学んだ事は決して無駄にならず、その子の次のステップに必ず役に立つはずである。

 

 物は考えようだ。一生懸命頑張ったって夢が叶わないことは往々にしてある。でも命までは取られまい。取られたとしてもせいぜい高級外車が一台買える程度のお金と、婚期を逃した年月だけだ。それ以上失うものは何も無い。

 

 一方、「俳優なんて、あんた一体何考えてるの」から始まって、すったもんだした挙句「勘当だ」「ああ、こんな家二度と帰って来るもんか」と啖呵を切って出て行ったっきり、その後生きているのか死んでいるのかも分からず仕舞いと、どちらが良いと思うか。誰だってハッピーエンドの方が良いに決まってる。

 勿論今申し上げてきた様に、全てがそう簡単に上手く行かないだろうが、親が子供と一緒になって感情的になり、大人気(おとなげ)なく子供を罵倒したら、「事は絶対良い方向に運ばない」と申し上げておこう。

 

 「恋は盲目」と云う。演劇に「恋」している子に、その間を引き裂こうとして、燃え滾る火に油を注ぐような事をすれば、どういう状況になるかは誰だって判断が付くだろう。

 

 親はまず初めに、子供の立場になって話を聞き、それに対しまず一端肯定し、認めるも納得のいかない点は何なのか、それについて子に問い掛け、その返事を確かめる位のスタンスで話をすることが親として当たり前の事だ。よく熟慮して言動を決するのが親の役目であり、義務なのである。

 

 最後にもう一言付け加えさせて貰いたい。

 「親は子供の考えを尊重しなければいけない」。なぜなら、たとえ親子であっても子の将来まで親が決定権を持つことは断じて許されないからである。

 親の権限を行使して、束縛出来るのは「鳥に例えて言うなれば〝巣立ち〟迄」である。昔から言うように「親子は他人の始まり」であって、「親は無くとも子は育つ」のだから。

 

 

           今回も最後まで読んで頂き、有難うございました。

                       また、次週お会いしましょう!