今日は七海 渉から「僕」に帰って、今午前11時半過ぎから今日という日をテーマに

ちょっと書かせて頂こうと思いまして筆をとらせて(=キーボードを叩かせて)頂きました。

 

 え~、さて皆さんに、本日「3月11日」は何の日でしょうか?とお伺いしますと、大概の人は「東日本大震災の日」と応えるでしょう。その位この「3月11日」という日は、暦の中でも忘れられない日となりました。

 

 そう、今から13年前、私はこの日に57歳の誕生日を迎え、特別何かある訳ではなく、それも学習塾に勤務するようになってからは、帰宅時間がどうしても12時近くになり、この2011年の誕生日も、皆寝静まった夜中に夕飯の後にケーキを食べる位で、誕生日当日の儀式とはもう無縁の年齢に達していました。

 

 その日も入社して3年目の学習塾の教室長としてD市の教室でパソコンに向かって、折込チラシの原案を考えているところでした。

 

 午後2時40分過ぎ、喉が渇いた為コーヒーを飲もう思い、準備をしに台所でガサガサやっていたら、何か地鳴りのような音が聞こえ、建物が小刻みに小さく細かく揺れ出し、「ああヤバイ」と思った次の瞬間、床が縦に大きく上下動し、その後横揺れの大きな振幅の揺れが来て、遂に「関東大震災がやって来た」と思って、頭がパニックに陥りました。

 大慌てをしながらも、入院中の親父の事や、一人で留守居をしているお袋の事、そして娘、息子、そして我妻の身を案じていました。

 

 僕がいたエリアは両脇が約100メートル以上の高台に覆われた、M街道沿いの谷間の様な地域で、地盤が僕が住んでいるP台地と比べても相当緩い場所で、まともに立っていられない程の揺れを感じ、ロッカーの上においてあった、備品類が雪崩のように落ちて来たり、二階の床がギシギシ音を立てたりして、床がおちるのではないかと思い、慌てて螺旋階段を下りて外へ出た。

 すると、あちこちの民家から、主婦が恐怖におびえた声を発しながら外へ飛び出して来るのだった。すぐ脇の駐車場では、僕のヴィッツが波のように左右に大揺れしている。その揺れ方が今迄一度も見た事がない、車が横から見ても、窓が2.30センチ上下するような、尋常ではないその動きに恐怖さえ感じたのだった。

 

 やがて少しづつ「揺れ」は収まっては来たものの、まだ電線を見ると揺れているのが良く分かる。そこへ近くの小学校から下校をして来た、低学年の女の子3人グループが楽しそうに話をしながらこちらに向かって来たので、「地震だよ」と僕が言うと「え~うっそー」と、三人が笑いながら口を揃えて云うので、普通なら「うん、嘘だよ」と云って知らない子でもすぐ仲良しになれる程、僕の心は子供に対しては開放的になれるのだった。

 が、その日はそうはいかなかった。「本当だよ、あの電線を見てごらん」と言って僕の指差す方へ3人が目を向けた途端、「ああ、本当だ。電線があんなに揺れてる。コワ~イ」と云い出した。塾の二階の街道沿いの面は全面ガラス張りで耐震用のガラスではあったにしろ、揺れがもっと大きくなれば、割れて下の歩道に落ちて来るので、「危ないから、出来るだけ建物の横を通る時は充分注意して、車道に出ない様にして帰るんだよ」と云うと「ありがとうございます」と云いながら、うちの教室を見上げながら帰って行った。

 

 地震が怖いのは、車を運転していたり、外を歩いていても震度3程度では、まったく分からないことである。まして、今日の小学生は地震が発生した時には既に学校を出てM街道沿いを500ートル以上歩いて来ているにも拘らず、話に夢中で気が付かないのか、経験がないから分からないのか。

 まず地震が発生したら防災無線で「ただ今地震が発生しました」と外にいる人に真っ先に知らせるべきだと思った。今は、外に居てもスマホを持っていれば直ぐ「地震です」と警戒アラートが作動してくれるが、学校へのスマホの持ち込みを禁止されている学生たちには「防災無線」が唯一の知る手段なのだ。

 

 僕は良く思う。毎日、地下で作業している人や、毎日、地下鉄に乗って会社まで通っている人達は、もし朝の通勤の混雑時に地震に遭遇したらどうするんだろうと考えたり、自分がどうしても地下鉄に乗らなければならない時に、嫌な予感がした時は、遠回りをしたり、タクシーに乗ったりして多少日費用が掛かったとしても、その方が良いと思っている。

 

 東北の方達の中には、まだ遺族が見つからないという人も大勢いると思う。もし

それが、自分の家族だったら。そう思うと今にも泣きそうになってしまう。朝「行ってきます「と云って元気に出て行った子が、13年経っても無言の帰宅もしてくれない。世の中に色々の試練があるけれど、この試練は尋常ではない。身を引き裂かれる程の心の痛みに耐えて13年。本当に辛いと思う。

 

 僕も今、パソコンでこの事を打ちながら、文字が涙で擦れ、とめどない嗚咽に見舞われ、もう先ほどから何度もティッシュで鼻をかんでは涙をぬぐうという事に追われて、もう文章が先へ進まないので「東日本大震災」の事はこの辺で止めにさせて貰おう。

 

 

 さて、2010年迄の3月11日という日は、僕が生まれた日であり、まったく普通の356日の単なる一日だったのに、2011年を境に特別な日になったのである。

そして本日、70歳になりました。と皆さんに報告しておこうと思います。

 

 「え~何だって、プレゼントして欲しいから皆に発表したんじゃないの」ってか?「飛んでも8分、歩いて10分」(昭和の古いギャグで云ってしまったが)、それこそ飛んでもないのである。

 なぜなら、私は律儀な性格の為、貰ったら必ずお返しをするという人並みの作法?を見に付けているので、それこそ一遍に大きな出費は困るのである。義理プレゼントには義理返しをしておかないと、後で陰口をたたかれても嫌なので。だから困るのである。
 

 今日の朝、すれ違い様に奥さんが珍しく「誕生日おめでとう」と言ってくれたので「エッ何で」と思わず言ったら、「70歳は節目だから」と云って、特別な日なんだと思わせてくれた。

 

 渉にとっては70歳は通過点であるが、よくよく考えたら、以前は「63歳で死ぬ」と云っては、娘がお父さんは「死ぬ死ぬ詐欺だ」となんて、″上手い事″を云われたのかと感心したのを思い出したのであった。

 なぜ63歳で死ぬと思ったのかと申し上げると、渉の人生を振り返ると、ある意味、悉くもう少しで成就する一歩手前迄行ったのに諦めてしまったり、何かが起こったりするので、この時も本当にそういう意味で覚悟をしてたのである。

 どうしてそんな覚悟をしたかと申し上げると、掛けている生命保険(死ぬと7200万円になる掛け捨ての保険)が数えで63歳、つまり満62歳の間に死ねば7200万円家族が貰えるが、満63歳になると保管期間の10年が終了して書き換えとなり、月々の支払いが今迄同様の3万円迄とすると、もう7200万円どころか、殆ど計算上は2000万円にもならないような保険金になってしまうのであった。

 今でも覚えているのは同じ様に7200万円の保険金を手にするには毎月8万数千円ずつ支払わなければならない為、全て断念して、担当の女性が紹介してくれたアクサ生命保険で入院時の対応を大きくした保険に切り替え、本家本元の保険はは死んだら葬式代程度にはなろうという300万程度支払われる保険に泣く泣く切り替えたのであった。

 

 そこでついてない僕は、保険を切り替えてすぐ63歳になったばかりで死んでしまって、娘から「お父さんはどうせ死ぬんだったら、どうして62歳で死んでくれなかったんだろう」と云われるのが関の山と思っていたのだった。

 しかし現実には、63歳の間に死にそうなことも起きずに64歳を迎えたものだから、前出の「お父さんは、死ぬ死ぬ詐欺」という「名言」が生まれたのであった。

 

 綾小路きみまろ風に言えば「あれから7年。70歳の古希を迎え、身体のあちこちが傷んでコキコキいって、転んで骨折はするし、老人性委縮咽頭で、始終誤嚥をお起こしてゲホゲホやるし、腰が痛くて立てないし、歩けないし、オシッコはお漏らしするしで挙げたら限が無いほど、出来ないことだらけで、おまけにスピーディーだけが取り柄だったのに、全ての行為が、まるで真逆の鈍行の様な遅さだし、その癖、自分の前に出された物を犬ではないが「マテ」が出来ず、さらに周りが見えずに、勝手に食べ出してしまうし、70歳になるということは、恥じらいや、我慢するという事を簡単に捨てられる年齢に達したという事になろうかと思う。それを世間では「子供にかえる」というらしいが、渉はそんな可愛らしい物ではなく、「本能丸出しの頑固爺」なったと思うのであった。

 

ここ迄自虐的に自己を追い詰めてもヘラヘラと笑ってられる、図々しさと分別臭さを持ったのが「古希」である。「古希」の意味は中国の詩人である杜甫が「70歳まで生きる人は稀である」ことからそう呼んだというが、今で言えば「100歳」がそういう事になろうかと云える。日本人男性の平均寿命が82歳だが健康寿命はと云うと72.68歳だという。そうするとあと2年~3年の間に不健康になるという事で、その前兆が表れていると云う事だ。

 

 全国津々浦々にいる70歳になられた御仁よ。嘆くなかれ。どんなに健康そうに見えても、立って靴下が履けなくなったり、歯が悪くて総入れ歯だったり見えないところでみんな歳を取って苦労しているのだ。頭が禿げていたって、本当に自覚がない健康人が羨ましい。

 人は見た目より、中身である。これはいつの世も変わらない。精々心を磨いて、見た目は腰が曲がり前かがみで歩こうが、心の若さだけは無くさない様に、「僕は常に高校生だ」と云えるように、古希を迎えて「新たに心に誓おう」と考えるのである。

 

                                                                  

                               以  上