=はじめに= 

今週もお約束の金曜日に配信できず、今やっと修正・加筆が終了しこれから投稿します。現在3/2(土)の午前3:30。タクシーの運転手並みの24時間勤務がもう少しで終了します。一勤一休ではありません。今日は午前10:30~、近くの公民館で文化祭が明日まで二日間の予定で開催されるのでそちらに赴く予定です。

 

 公民館の館長の仕事をやっている飯島君は私、日家 昇と中学・高校が一緒で、特に高校二年生の修学旅行のときは二年一組で一緒のクラスで、彼は凄く真面目で、僕はどちらかというと落ちこぼれという立場で、お互いにあまり口をきいた覚えもない。

 

 最近になって夏のお祭りの時に、少年野球の関係者たちが毎年お祭りの時に焼き鳥の屋台を出すのだが、昇の娘の嫁ぎ先のお義父さんが少年野球の審判を長い間やっていて、そして飯島君も公民館の館長をしながら地域の子供たちのお世話をしたり、マルチ人間として色々なフェイスで貢献している。そんな関係でうちの奥さんが自治会で仕事をしている関係で、以前から飯島君とは知り合いで、彼女の縁結びでコロナの前の2019年の夏に焼き鳥のブースで50年ぶりに再会して、それからお付き合いを始めたのである。

 

 さらに尾ひれを付けるとすると、その飯島君の妹さんが東京の中目黒にある出版社の社長さんをやっており、そもそも一番最初の原稿はその妹さんにお渡ししたのであった。

 人の縁とはそうしたもので、もし飯島君と親交を深めなかったら、果たしてここ迄作品を書き上げられたかどうか。また出版しようと思いついたかどうかは疑問である。

 もっと深堀りをすれば、この本の出版を目標に掲げた事から、何れ目標が達成されれば、当然、日家 昇の乗っている人生という名の船は、次の寄港先を目指して航行を続けるのであり、まだそうは簡単に錨はおろさない。次の航行の予定は今回の項でも話が出て来る、シンガーソングライターという目標(港)に向かって次の舳先を向けて船を進めるつもりだが、それだって飯島君と偶然にも会えたから花が咲いたのである。

 これからも知らない世界に入って行くとまたそこで「人の縁」にお世話になることもあろう。また違う世界で緊張する事もあろう。でも人生のどの部分で沢山の経験を積むかどうかは人によって様々だ。僕の場合は人生の晩年にそれがやって来たのであって、決して自分から進んでそうしているわけではない。今は難病を抱えて、何れやって来る自らの足で歩けなくなる前に、自分が納得いく人生を送る為の準備をしているのである。

 

 

自虐伝:第二章9項~12項

     

     お前はニュートン並みで叱られる 

 

 高校一年生の時、知能検査が実施された。今でも覚えているのは、積み木が左右・上下に積み重ねられ、さらに奥まで何列かある様な絵を見て、積み木が全部で何個使われているかを答える問題があったが、渉はそういう問題が大好きで得意だった。だから検査も楽しみながら解いた覚えがある。期末試験がこういうテストだったらなぁ~と思ったりもしながら解いた。

 

 しばらくすると、その結果が戻って来たのだろう。

担任の岡田先生から職員室に呼び出しを食らった。

職員室に入ると座らされて岡田先生が開口一番こう言った

「七海君、君は普段ちゃんと勉強しているか。」

ちゃんとしていなかった渉は正直に

「いえ、すいません。余りしていません」

と応えると、先生はちょっと苦々しい顔をして

「この間やった知能検査で、君はニュートン並みの知能指数が出ている。

つまり人一倍いい頭脳を持っているにも拘らず、

この間の中間テストでも、250番以下。

もう少し本気を出して頑張ろうという気が君にはないのか」

「はあ、すいません。」と返事をしながら、

なんでいい点数を取ったのに叱られなければならないのか

と思いながら、うじうじしていると、先生がもう一言

「お父さん、お母さんに感謝するんだな。素晴らしい頭脳を貰って。

いいか七海君、君の知能指数は学年でトップだ」

「そのことをよーく肝に銘じておけ。いいな」

 

 「ニュートン並み、学年でトップ」……。実にいい響きだ。惚れ惚れする。この言葉に〝溺れてもいいからずっと浸っていたい〟と思った。

 

 言わなきゃいいのに、帰ってから得意になって母親にそのことを伝えたら、岡田先生と同じことを言われ、ついでに帰って来た父にも夕飯の時、目の前で母から同じように言われ、

知能指数が良かったことを褒めてくれるのではなく、

「何で他人が羨むような頭脳を持っていながら、

  努力をしないのかしらねっ、この子は」

と、ここでも学校の職員室同様に、褒められるのではなく叱られ、父も

「そうだな、今みたいにしていると、

  まともな仕事にあり付けないぞ。知らんぞ」とかなんとか、散々だった。

 

 あの時、普段、勉強に対して面と向かって褒めてくれない母親が、少しでも褒めてくれたら、渉は頑張って勉強しただろうか。今ふと、そんな風に考えて見たが、54年後の渉が考えても、間違いなく勉強はしなかっただろうと思った。

 なぜなら、渉の体の中には母親の血が流れている。それも父親の血よりも相当多めに。「だから、やらなかった」と即答で結論が出たのだった。所詮「蛙の子は蛙」。そこには単純に素直になれない渉が存在したのだった。自分が思った事と正しい答えが違う方に出た時、渉はまず、なぜ自分がそう思ったかという事を一応説明をしてから、やっと間違いであったとしぶしぶ認めるような性格だったからだ。その譲らない性格は父親より、母親譲りである事を渉自身が一番よく知っていたし、また、一番の理解者でもあったからなのだ。

 

 因みに、リンゴが木から落ちるのを見て、「万有引力」を発見した、ニュートン並みの知能指数というと「120」位。そして学年でトップというのはテストの合計点数を、生まれた日から、試験日までの生きてきた日数で割るという事なので、学年で(くく)ると、早生まれの方が割る数値が小さいのでテストの点数(割られる数値)が同じ場合、当然割る数値が小さい方が、最終数値が大きくなるので、断然「有利」だという事が後になって分かった。

 

     職業・性格診断テストで分かった将来

    

  高校でもう一つやらされた検査で職業・性格診断テスト」というのがあった。このテストは、読んで字の如しで、性格とそこから解る適正職業を導き出す検査で、高校一年生と高校二年生で実施された。

 

 今も公立高校では実施しているのかどうかを塾の仕事をしていた時、生徒に尋ねたら、知能テストも、職業・性格診断テストもやってないという返事が返って来た。Z市のR高校やJ市のN高校と言った公立高校のトップ校に行くような生徒は我が塾には来ないし、必ずしも私立高校もやってないとは言い切れないが、今ではインターネットを見ると双方のテストが自分で簡単に受験できるし、ある程度は自分でやって自分で結果も知ることが出来るので、わざわざ学校で費用を掛けて迄やっても意味がないと云える。

 興味のある方は自分でやってみると良い。因みに「職業・性格診断テスト」を実際ネットでやってみたが、回答方法がはい・いいえだけでなく、5つあるものが大半で、さらに問題も具体的なものが多く、69歳になってやってみた渉の性格は「個性派タイプ」でクリエイティブで感受性が豊かである、とでた。敵正な職業としては、プロデューサー、空間デザイナー、ディレクター、VMD(ビジュアル・マーチャンダイザー)だそうだ。今から54年前には、空間デザイナーやVMDという名称の仕事はなかったが、少なくとも「教師」という職業にもならなかったのではないか。

 要するに渉の様なはみ出し者は、当時のテストに正直に答えたとしても、質問そのものが渉に向いてない、或いは合ってなかったのであって、職業も今ほど細かく分かれていなかったので、上手くこれというものが出なかったのだという事で納得するにしよう。

 

 実際当時の問題に対しては「はい」か「いいえ」で答えるようになっており、一番初めの問題は今でもよーく覚えているが、二回とも

「熱いお茶が好き」という問題で

「熱いお茶は大好き」なので「はい」に丸印を付け、後の問いに対しても正直な回答をした結果、適正な職業は「教師」と出た。残りの適正職業は何だか覚えていない。

 

 その当時、教師はあまり人気のある職業ではなく、特に渉が教師になりたくないと思ったのは「給料が安い」という理由だった。

 中学三年生の時、担任の長谷部先生に職員室に呼ばれた際に、何でそうなったのかは忘れてしまったが、先生が「こんな安い給料で」とか何とか云いながら、見せてくれた給与明細書に書かれた給料が、国家公務員の父の給料よりかなり安かったことを憶えている。勿論父の方が歳は5~6歳は上だったと思うが、それにしても、「ええっ、こんなに安いの」という給料の金額は今でも覚えているが、先生の名誉のためにここでは伏せておく。

 

 教えること自体は嫌いではないが、絶対、教師だけにはなりたくないと思い、その為、高校二年生の時の検査で前年と同様の問いに対しては、例えば「熱いお茶が好き」は「いいえ」に丸をし、その他の問題でも一年の時と同じ問いがかなりあったがことごとく自分の想いと逆の答えにしたのだった。が、出た結果はまたもや「教師」がトップ、その他も研究者とか公務員とかそんな職業で夢も希望もないような職業であった。 

 

 ミュージシャンとか美術家、陶芸家、建築家とか、出来ればクリエイティブな仕事がしたかったのに、答えを真逆にしすぎた所為か、結局「教師」という職業が一番向いているという事になってしまった。

 

 しかし、自分が今まで歩んできた道のりを振り返って見ると、まず高校二年生の時の漢文の先生で名前は忘れたが、小太りで黒縁のメガネを掛けた先生で、授業15~20分の時間は、指名された生徒が先生をやるという授業があり、

先生から、「七海君は将来、先生になるといいね」

「先生らしく堂々としているし、

説明が僕なんかよりよっぽど分かり易い」と言って褒めてくれた。

嬉しかった事は否定しないが、只、給料があれじゃあとも思った。

 

 その後も社会人になり、最初に入社した会社ではレディーさんに週三回連絡会議があり、他の同期は嫌がっていたが、講義に似た事をしたり、ホワイトボードを使って説明する事も苦にならなかったので、部長が出張でいない時などは、よく代行をやらされた。きっと学級委員でホームルームの司会をやった事などが役に立ったのではないか。

 

 また、10年続いた学習塾の仕事でも、父兄に対して懇談会を開いたり、子供に対するしつけ方などの講習と称して、他の教室よりかなり多くの説明会を開催した。

 授業も講師が急に休んだ時などは、代わりがいないと渉が講師代行で授業で生徒に直接教えた事も月に3~4回位あった。

 実際に生徒に教えて理解してくれると、すごくうれしかったり、また、小学校低学年の算数の教え方にはすごく自信があって、父兄からも「うちの子が七海先生が一番分かり易いと言っています」とよく云われたのを振り返ってみると、あの職業・性格診断テストの結果は、まんざら間違ってなかったと云っても過言ではなかった。

 

 

     修学旅行阿蘇の落馬童子と鹿児島事件

 

 高校二年生の秋の修学旅行は「九州一周」7日間だった。

新幹線で新大阪迄行き、そこから博多迄は夜行の寝台車、博多からは、西鉄バスで九州を一周した。長崎でグラバー邸を見学し、熊本では熊本城と阿蘇山観光だった。

 

 最初の事件は、その阿蘇山で起きた。阿蘇山の裾野は広く、馬で火口を一周することが出来た。そこでクラスで仲の良かった瀬古君と生まれて初めて馬に乗った。それは二人乗りではあったが、(あぶみ)は一つしかなく、馬子(まご)の指示で、渉が前で手綱を持って鐙無し、瀬古君が後ろで鐙に足を入れて、いざ出発。噴火口迄行って戻って来る、せいぜい15分~20分程度の乗馬であった。

 

 初めの内は上手く乗れていたが、渉には鐙が無いので、徐々に馬の歩く振動で身体が左に傾き始めた。何とか態勢を戻そうとして右の方に重心を持っていこうとしても上手くいかない。一所懸命踏ん張っていた事に瀬古君も気付いてくれて、渉の腰を右に持っていこうと試みてはくれたのだが、とうとう我慢の限界で、渉は馬の左側へ落ちた。

 そうしたら馬子が、「あれぇ~」と言いながら、

「大丈夫ですか」と落ちた僕を起こしに来てくれたまでは良かったのだが、

その後、馬の脇腹を鞭で叩きながら

「このヤロウ!お客さんを落としやがって」と、

何度もこずいたり足で蹴ったりして、

馬は無抵抗でゴメンナサイと言うように鳴きながら

その馬子のやる事に耐えていた。

 

 「午年」の僕は見ていて耐えられなかった。馬は誰が見ても悪くない。いつも通り普通に、穏やかにお客さんを乗せて、ご褒美のニンジンを貰って、繰り返しお客さんを運んでいたのだから。

 「鐙を最初から二つ用意しておけば何の問題もないのに、馬に当たるとは何事だ。お前が悪いんだろ」と、その馬子に文句を言いたかったが、文句を言ったら、高校生から馬子が文句を言われ、気分を悪くして、きっと後でまたこの馬が虐められると思って渉はグッと我慢したのであった。

 

 そんな光景を同じクラスの何人かがテラスハウスの方から、持参の双眼鏡で見ていたらしく、後で旅館に入ってからそれが話題になり、山城新伍という俳優が主役の、子供向け番組「白馬童子」というタイトルの連続ドラマが小学生時代にTV放送があって結構人気の番組だったが、それをもじって付いたあだ名が「落馬童子」だった。

 

 

 さて、修学旅行も四日目。その翌日は鹿児島に入り、旧島津邸からあの大根でも有名な桜島の噴火を眺め、火山灰が風向きによって家々の屋根や車のボンネットや屋根に薄らと積もりそうな感じの島津邸を後にし、第二の事件はその日の夜、宿泊先の旅館で起きた。夕飯が終わり夫々の部屋でゆっくり(くつろ)いでいる時にそれは起きたのだった。

 

 その前にちょっとしたお楽しみの話をしておこう。

クラスでおとぼけ者の、杉田君という生徒が二年一組の悪グループがたむろしている部屋に戻って来て、

「おいみんな、女風呂がのぞけるぞ~ウッヒィヒィ、今行くと〇組の□□さんと△△さんの裸が見れるぞ~」と言ってそこに居る連中を焚きつけたもんだから、半分くらいの人間が腰を上げて見に行こうとした時、杉田君が        

「ちょっと待った。二人ずつだ」 

「あんまり大勢で行くとばれるし、スペースもない」と言って、 

ジャンケンで勝った最初の二人を連れて杉田君が部屋を出て行った。

暫くすると最初の二人が戻って来るなり

「おい、すっげえぞ。××のオッパイ見たぞ。おお、おおっ」と畑岡君がその目から鼻血が出そうな位、白眼を真っ赤に充血させて大興奮していた。

 

 この部屋には隣の部屋から出張して来ている渉と、他の組の数人以外はこの部屋の生徒で、その中でも半端ないのが野球部の鈴川君でバスの中でもウイスキーをコーラで割る「コークハイ」を飲み、この鹿児島の旅館では、スルメや鯖缶などをつまみにして酒盛りをしていたのであった。学生服が壁に下がってなければ、20歳を過ぎた若い連中の酒盛りの様であった。酒を呑んでいるのは鈴川、上島、小貫、大泉君の4人だがあと残りの3~4人もタバコを吸っていた。

 さっきから「鯉の滝登り」という危険極まりないタバコのゲームをやっていた。僕も以前鈴川君の家に遊びに行った時に、鈴川君に教わって、その場でぶっ倒れた記憶があった。

「鯉の滝登り」とは吸ったタバコの煙を下顎を突き出した状態で口から少しずつ出し、それを鼻で吸い上げる遊びで、口から鼻に煙が二本になって吸い上げられていく様子が鯉の滝登りに似ている事から命名されたのだそうだが、タバコを吸い始めた人がやると、結構意識を失って倒れる事があるので、まず座り、後ろに柱や壁があるところは危すごく危ない。そうして倒れてもいいように後ろに座布団やクッションを置いてやらないと危険だ。

 

 そんなこんなでウダウダしながら、「そろそろ寝るか」と誰かが言いながら半分位まで吸ったタバコを、持ってきたポケット灰皿に突っ込んで、「ふあ~」と欠伸をした次の瞬間だった。

 ウイスキーの匂いと煙草の煙で真っ青になった部屋の襖戸が音を立ててすごい勢いで開いた。と同時にそこに仁王立ちして大声で「さーあ、見たぞ。お前たちのこのざまを」と言い放ち部屋に踏み込んで来たのは、あの憎まれ者の数学担当の藤本先生だった。

 そうだった。そうだったのだ。修学旅行前に藤本先生は悪い連中の悪戯を絶対見つけ出すと公言していたのを思い出したが、今になっては「後の祭り」だった。

 

 そう言えば渉はどうしたのだろうか。それと女風呂覗きの先導者の杉田君は。

 

 まず杉田君はその時も最後の一組と女風呂を覗いていたところを、見回りの先生に捕まりそうになりながらも、何とか逃げ延びて自分の部屋に帰ったのだった。

 渉は、部屋の上には上がらず、下駄を履いたまま濡れ縁越しに部屋の中を覗いていたので、青いタバコの煙の向こうで藤本先生の声がした瞬間、「ヤバッ」と思うと同時に体が動き、来た時に入って来た庭の垣根の木戸から隣の自分の部屋に逃げ込んだのだった。

 翌日、鈴川君が青島海岸の「鬼の洗濯板」を見た後に集合写真を撮った時、横に来て「おめえはずるいなぁ。逃げやがってよぉ」と言われ、バツが悪かった渉は「俺は旅行委員だし、捕まる訳にはいかなかったんだよ」と言い訳がましく返答したが、何か友達を裏切ってしまった様で、その身勝手で的外れの言い訳は空しく、空虚に己に響いたのだった

 

 そうして、鈴川・上島・小貫・大泉・畑岡・土橋・関田の7人が飲酒と喫煙で処刑台に登らされた。この翌日からこの7人は集合写真撮るときだけはみんなと一緒で、後は全て別行動で青島ホテルの宿泊でも先生方と同階の部屋に軟禁され、宮崎を最後に観光も出来なくなり、小田原駅で新幹線を降ろされ、迎えに来た父兄に身柄を渡された。

 それから一週間の停学処分が待っていた。しかし彼らにとって一つだけ良いことがあった。それはプロ野球の日本シリーズがちょうどその一週間にあり、家で堪能できたことだった。

 

 修学旅行から帰って来てから、どこからとなく杉田君が女風呂覗きの首謀犯という噂が流れ、女の子から一斉に顰蹙(ひんしゅく)をかって、誰も口をきいてくれないと云って、しょげ込んでいた。

 

 鈴川君は停学処分の喪が明けて、学校に来てから暫くの間、男子生徒の誰かが藤井先生にたぶらかされて、先生に密告したのだだと思い、それらしき連中を捕まえては、「ゲロ」吐くかせようと躍起になって探し回ったが、結局は分からず仕舞いだった。特に二年生になってからの数学は藤井先生ではなく、井上先生になっていたので、同じ二年一組の生徒だけではなく一年生の時に藤井先生に習っていた生徒で数学の成績が良かった生徒を探さなければならず、それは絞り込んでも3~40人程度の中から見つけなければならない為、もし一人ではなくグループでチクったにしても、誰がやったか知っている生徒の中から裏切り行為でも無ければ、判明はしないのであった。

 

 しかし、この一件で担任のクラスを持っていなかった藤本先生は一躍、時の人となり、株もうなぎ上りかと思いきや、その後藤本先生の影が何となく薄くなり、三年生になった時には転勤になり、Y高には二年間しかいなかった。

 

 以上の様な出来事は、Y高創立8年目の秘話である。この当時のY高が、今や県下に10校しかない重点指導校になり、偏差値66の中学生の憧れの進学校になった。

我がY校の後輩たちよ。俺たちの作った喫煙・飲酒・のぞきを始めとする数々の悪戯に貼られたレッテルに屈せず、そして染まらずして現在の地位を築き上げてくれてありがとう。本当に感謝感謝である。

 

 

     目指すはシンガーソングライター

 

 中学一年でビートルズと出会って以来、渉の洋楽への″のめり込み方″は半端なかった。13歳中学二年生に1967年の12月号からミュージックライフという音楽雑誌を毎月買って情報を集め、ラジオはFEN、高校時代からはFMを聴き、月々の小遣いと正月のお年玉は、レコードの購入でその殆どが消えた。誕生日とクリスマスのプレゼントもレコードを親にねだった。

 

 中学二年生の時に初めて動くビートルズのメンバーのビデオ(全世界同時配信の「愛こそはすべて: All you need is love」)を西郡君と一緒に行き始めた学習塾の「行き」の送迎バスでは、その話題でバスの中で花が咲き、帰りのバスの中では動くジョン・ポールを見ることが出来る興奮でみんな一杯だった。

 そして、家に帰ると、夕飯もそそくさと、風呂にも入らずでテレビの前に陣取って、長~いⅭMが終わり、待って居ると画面に映し出されたビートルズが遂に現れたのだった。只まだ、モノクロ放送であった。

 流れるフランス国歌ラ・マルセイユ、そしてクラシックの弦楽器・管楽器奏者が映し出され、ラブ~・ラブ~・ラブ♪とコーラスが聞こえて来て、カメラはその後ポールにズームアップ。ラフなシャツにカールヘフナーのあのバイオリン型ボディのベースギターではなく、リッケンバッカー社製のベースギターを持ちヘッドホンをしている。そしてその横にジョンがヘッドホンを指で押さえながらThere`s nothing  you can do~♪と歌い出した。途中ローリング・ストーンズのミック・ジャガーが映る、その隣には恋人のマリアンヌ・フィスフルも。そしてジョージ・ハリスンが左斜め45度の角度から映ると、もうそのカッコよさに陶酔。そうしてフィナーレ近くになり、ジョンがShe loves you yeh yeh yehと歌い出して4分30秒余りで、その世紀の動画は幕を閉じるのであった。

 

 観て大感激した後、電話で西郡君と何んと30分に渡りあそこがカッコ良かったとか何がこうしてどうしてと、何分話しても市内通話は10円だった時代だったにしろ、余りの長さに父親からいい加減にして風呂に入って早く寝ろと怒られる始末。寝床に入ってもまだ興奮冷めやらず、中々寝られなかった。

 

今の時代はYouTubeやInstagramなるものがあり、見たい動画がすぐ見ることが出来、また自分で自作の曲を全世界に向けて演奏し、歌っているところを自らが撮影したものを動画で配信出来る時代となり、1967年から2024年迄の間に半世紀余りが経過し、この様に世界がインターネットで繋がれ、それこそ誰とでも自由にやり取りが出来るという想像を絶する進歩に驚愕する。

 

しかし見たくても見ることが出来ないスターのスターたる演奏や演技がやっと見ることが出来た時の、歓びを感じる事が出来ない今の若者が、どこか冷めているように見えるのは、こういった事も影響しているのではないかと感じてしまうのは渉だけであろうか。

 

 中学に入学した際に、叔母から買って貰ったフォークギターをかき鳴らし、遂に高校の時、家が近かった西郡君と「ゴールデンスランバー」なるグループを結成した。文法的に正しいかどうかは別にして、自作の英語の詞に自作の曲を付けて歌い、ギターとピアノで伴奏を付けた歌をカセットレコーダーに録音した音源がまだ西郡邸のどこかに眠っている筈なのだ。

 

 渉は小二からのドモリがずっと治らず、特に高校の三年間が一番大変だった想いがあるので、職業・性格診断テスト検査の結果、適正職業が「教師」ではなく、もし芸能関係で歌手、演奏者など音楽系だったら、間違いなくそちらの道に進むべく努力をしたと思う。

 

 洋楽の一ファンではなく、それを極めようとして高校を卒業したら、音楽で飯を食っていく道を探したと今でも確信している。

 もしもあの時、今の様に自信に満ちていた自分だったら、もしかして単身ロンドンへ渡り、解散して間もないビートルの面々に何とかして会えるように工作して、ジョンに或いはポールに会い、そこで何とか潜り込んで、それこそ鞄持ちから始め、後のアップルレコードの専属シンガーソングライターとして名を馳せ、それこそジェームス・テイラー同様に結構有名なミュージシャンになって、60歳にして日本に凱旋したかもしれない等と勝手に想像していると、さもありなんと思えて来るのであった。  

 ちょっとどころではなく、相当"背負っている"と思われるだろうが、人の運命は何かがキッカケとなって動き、寸分の狂いでどちらへ転ぶのか分からないところに妙味であると思った。

がしかし、渉も大概の人がそうするように、ドモリはドモリなりに順当に一般的・庶民的行動を起こし、その後もごくごく平凡に人生を進んだのであった。

 

 初めて自作した曲は高二の時の「頑張れアボガドロ」という日本語の曲だった。この曲は、修学旅行で落馬した時に一緒に馬に乗った瀬古君の事を歌った曲で、タイトルの由来は化学の教科書に出て来るイタリアの化学者アボガドロの横顔の写真と瀬古君がそっくりだったことで、僕が瀬古君に付けたあだ名だった。その瀬古君の応援歌として作ったのが、作曲のスタートであった。

 そもそも楽譜音痴だった為、この曲は僕の頭の中に残っているだけであり、歌詞も何度も書き直し、録音当日も一部を書き直したので手元にはなく、歌詞もメロディーもさびの部分「頑張れ~頑張れ~アボガドロ♪~」しか覚えてない。もしこの曲を聴きたいと思ったら、修学旅行の時にお世話になった西鉄観光バスのバスガイドさんに、お礼の印でカセットテープにクラス全員で歌って送った、そのカセットが残っていれば、聴く事が可能だ。

 

 その後も日本語の曲を作り続け、現在までに約70曲程度のストックがあるが、歌詞は出来ているが、曲がまだ書けていないもの、詞も曲も出来たが、もう曲を忘れてしまっているものなどもあり、まともに歌えるのは30曲余りである。その曲のタイトル名を書き記しておこう。

 

南の国」一人旅」浜に出てみれば」かわいそうな子犬」丘を越えてラララ」

影ぼうし」決して雨は涙じゃない」僕たちの汽車」愛でつつんで」抒情詩人の歌」

僕と君が出会う時」花の街」君の名は風」カウボーイブルース」ドナルド爺さん」

年がら年中」自分が大好き」真夜中という雰囲気」赤いダンプカー」眠る君」

高田馬場」雨降り」知らないうちに」トテピントン列車」太郎ちゃん」

夏にうかれて」サヨナラ僕は気まぐれ」エリちゃん」サンサクションの街並み 

僕だけの君」カフェテラス」の以上31曲である。

 

 この31曲の内太字になっている曲は、1978年5月28日、渉が24歳の時,就職した会社の宝飾部にいた同期のヤツで曾野原君という用賀に住んでいた彼の家迄行き、そこでカセットテープに録音した渉の若き日の歌声が聴ける、誰にとってかは分からないが貴重な音源なのであった。

 

 

本日も最後まで読んで頂きありがとうございました。